灰色の糸 5


リビングに沈黙が落ちた。
俺と親父しかいない空間に静けさよりも重いものが蔓延して沈んでいく。
―――篠原さんのこと。
篠原啓介、というおとこのこと。
手の中の缶ビールを意味なく眺める。
口を動かそうとして、だけどなにも言うことが見つからない。
俺は本当の父親のことをなにも知らない。
"あの夜"知り合った篠原啓介のことは少しだけ知っている。
ゲイで、昔結婚していたこともある、今は独り身だった男。
本当に少しだけで、全然知らないと言ってもいいかもしれない。
「……親父、知ってるの」
なにを知ってるのか。
離婚の理由?
篠原啓介自身?
「ああ……。同じ大学だったし」
言われて、驚いて顔を上げた。
親父とお袋が大学時代の先輩と後輩だってことは聞いたことがあった。
「まぁ面と向かって顔合わせたのは数えるくらいだけど」
親父とお袋は二歳差だ。そしてお袋と篠原啓介は一歳差。
親父が大学4年だったとき篠原啓介は大学1年生か―――。
「……へぇ」
37歳だった篠原啓介が"父親"になったのは大学2年生なんだろう。
『幸せだったよ』
不意によみがえる声。
それを消すようにビールを飲む。
「知りたいっていったら、教えてくれんの」
そう言ってはみたけど、知りたいのかと訊かれたらわからない。
知ってどうする?
俺の父親だという篠原啓介と、あの啓介さんが―――。
「ああ。ちゃんと綾子には言ってる。お前が聞きたがったら話していいって」
「……」
「陽にとっては覚えてない父親は赤の他人のように感じるかもしれない。でも……血の繋がった父親なんだ。息子として見送るためにも少しでも知っていたほうがいいんじゃないか」
楽しい話でもないかもしれないけどな。
と、親父は普段見せない真面目な顔を向ける。
真っ直ぐな視線をずっとは受けていられなくてさりげなく逸らした。
"覚えてない父親"。
確かにあの日までならそれだけだったのに。
親父にこんな風に言われて聴かないわけにはいかない。
でもどんな顔をして聴けばいいのか、わからない。
「……どんなひと」
それでも硬くなってしまった声で、訊いた。
ゆっくりと親父が喋り出す。
同時に俺の中で、
『陽くん』
と翌朝スーツを着込んだ啓介さんが俺に向けた微笑みが浮かんだ。


***

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