9 日常という名のいまC


俺とお袋は互いに言葉を発しないままカーナビの案内にしたがって病院に辿り着いた。
電話があってから1時間半は経っていた。
すぐ受付にお袋が向かう。
俺は重い足取りで受付近くの壁にもたれかかる。
ただただ困惑していた。
確かに俺にとっては実の父親だ。
でも顔も覚えてないのに。
お袋が電話で喋っていたひとが俺にとって"伯母"だとようやく気付く。
伯母、そして祖母にあたるひとがいるんだろう。
祖父もいるんだろうか。
その場に俺はどんな顔をしていけばいいんだ。
気が重くどんどん深く沈んでいく。
ため息をついてお袋のほうを見ればなにか説明されているようだった。
その顔色が一層青ざめて見えて嫌な予感にとらわれた。
話が終わったらしいお袋が俺のほうへと来る。
「……陽」
目を合わせないまま呼び、そして背を向けた。
お袋に受付からでてきた女性が声をかけて歩き出す。
案内してくれるんだろうか。
俺はなにも言わずついていった。
治療室でも病棟でもなく、裏口のほうへと向かっているみたいだった。
どこにいってるのかわからないまま、嫌な気持ちだけが全身に毒のように回っていく。
正直―――面倒臭くさえもあった。
俺は父親のことを知らない。なのにこれからきっと大変なんだろうってことだけは感じてたから。
やがてお袋が立ち止まり、俺はその先を見た。
お袋が見る部屋にかけられたプレート。
それを見て眉を寄せた。
受付の女性が一礼してドアを開け、お袋が深呼吸してその部屋へと―――入っていく。
開けたドアからさまざまな泣き声が廊下へと響いてくる。
固まって動けない足をなんとか動かす。
たとえ"知らない"父親であっても、その部屋に入って横たわる姿を想像すると怖かった。
生まれて初めて入る場所。
線香がたいてあるのかと思っていたけどなにもなくて、お袋が手を合わせている姿が見えた。
そして伯母なのだろうか中年の女性が俺を見るなり駆け寄ってきた。
「陽くん、陽くんよね。啓介っ、陽くんが来たわよ、起きなさいっ」
泣きわめくように叫ぶ声、その中のひとつに心臓が大きく跳ねた。
―――"啓介"。
三週間前、俺が一夜を共にした男の名前と一緒だった。
だけどよくある名前で、あの男……啓介はゲイだった。
だから関係なんてない。
ないけど、同じ名前の男がそばにいるというだけで動悸が激しくなった。
俺は引きずられるようにして"父親"の前に立たされた。

俺の父親だという"篠崎啓介"は―――。

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