執着心と虚栄心



それは俺だけが知っていればいい。
それだけは、俺のモノだ。





「及川さん、サーブ教えてください」
「いーやー」
「教えてください」
「もー、トビオちゃんしつこいよ。俺は嫌ですって言ってるの」
「……及川さんのケチ」
「こら聞こえてますけど?トビオちゃん、悪口を本人の前で言うのってどうかと思うけど?」
「こんなに頼んでいるのに教えてくれない及川さんをケチって言わなくてなんて言うのか分からないです。っていうかこんなの悪口に入らないと思いますけど。及川さんが普段俺をからかうのに使う言葉に比べたら可愛いもんです」
「……飛雄が可愛くない」
「俺に可愛げなんてあっても仕方ないと思いますけど」
「せめて可愛げがあったらもう少しマシになったところもあると思うんだけどなあ、及川さんは」
「及川さん、サーブ教えてください」
「聞いてないね!?俺の話!だからやだって言ってるじゃん!トビオちゃんは俺が教えてあげなくてもできるからいいでしょー」
それじゃね、と軽く手を振られて隣のコートに行ってしまった及川さんの背中を、俺はただ見つめるしかできない。
今日も駄目だったか。
溜息を吐きたくなるが、先日そうして息を吐いていたところをあのひとが見ていてさも可笑しそうな顔をしていたのを思い出してしまって慌てて飲み込んだ。
全くもって、そう、こういうのはあれだ。難攻不落だ。

「……ちくしょう、負けねえ」

呟いた瞬間、バシンッ、と激しく体育館の床にボールが叩きつけられた音が響く。顔を上げれば、たった今サーブの教えを乞うたひとが隣のコートでサーブの練習をしているところだった。
キレイなフォーム。伸び上がる手。反られる背、頭の先から足の尖端まで全てから目が逸らせない。
ナイサー、というチームメイトの声が遠い。俺はただあのひとの姿を一瞬でも逃すまいと目を開いた。



俺の通う中学のバレー部のセッターであり、主将である及川徹は、俺の目指すひとである。
入部当初から、気付いたら勝手に視線が追っていた。それはもう当然の様な引力で、俺の視線は体育館に入った瞬間からあのひとだけを馬鹿みたいに探した。
あのひとを超えたい。そんで超えたら、県内一番だ。
練習の間はずっとあのひとだけを見て、そして隙あらば教えてもらおうと声を上げた。
でもあのひとは俺に決して教えてくれようとはしなかった。最初のうちはそうでもなかった気がする。他の一年に交じってならば教えてもらったことはあった。だけど俺一人でいると違う。あからさまに避けられ続けていればそのうち気付く。どうも及川さんは俺が嫌い、というか――怖いのだと。
天才だ、と言われてもいまいちピンと来ない俺が、周りの評価を特にどうとも受け止めていない時期、俺はただ及川さんだけを追いかけていただけだったから、あの日、及川さんの目が俺に向けた底なしの恐怖に彩られた絶望に近い色の瞳を見て初めて、俺は知ったんだ。
彼の笑顔の下に隠れていた、ひどく柔らかい内面があることを。
振り上げられた手は多分自分でも避けられた。だけどその前に岩泉さんが止めてくれたから、いや、止めてしまったから、受け止めそびれた。こんなことを言うとあれだが、俺はあの手に触れて貰えるなら多分それが拳だろうとなんだろうと喜んで受け入れてしまったと思う。それで俺が怪我しようがそんなのはどうでもいい。ただ、あのひとの中で俺を殴ってしまったっていう汚点が残せるなら、俺の身体なんて大したことは無い。
剥き出しの、ヒリヒリするような焦燥と、嫌悪と、恐怖と、そして多分、羨望と。
それ以外にもきっともっと複雑に絡んだ及川さんの瞳はあの日の夜以外見られなくなってしまった。
なんであれ俺に向けてくれるものなら嬉しかったのに、及川さんは吹っ切れてしまったようだった。それからはもっと分かり易く俺をからかい、のらりくらりと俺のことをかわし続けた。
けれど、決して遠ざけようとはしなかった、と思う。本当に嫌なら、見るな、と言って俺の視界を閉ざしてしまえばいいのに、あのひとは俺があのひとを見ることを止めはしなかった。
彼の数年分のバレー経験から積み上げてきた技術。それを俺が盗れるものなら、盗ってみればいい、と不敵な顔で言われていたのかもしれないし、そんなことは考えてもいなかったのかもしれない。何にせよ及川さんが俺にバレーを直接教えてくれることは卒業まで遂に無かったし、あの夜の瞳はどこを探しても見付からなかった。



「及川さん」
「……トビオちゃん」
そして及川さんの卒業の日、体育館の入り口の近くにあった木の下でぼんやりと立っている及川さんを見付けたのは全くの偶然だった。それでもその偶然を逃すつもりもなく、俺は当然の様に及川さんに声をかけた。
「こんなところで何しているんですか」
「うーん?見おさめ?」
体育館の扉は今は閉められているから中は覗けない。だが、この三年、――俺が知らない二年間と一緒にいた一年間、彼がここに足を運んだのはほぼ毎日のことだったのだろう。
及川さんの視線はいつもコートの中で見せるそれとは違って、どこか優しいものだった。そうしていると本当に整った顔をしているのだと改めて気付く。少し伏せられた瞳が映しているのは、何なのだろう。それは知りたいとも思うが、知らなくてもいいとも思う。
「飛雄、お前はここを出たらどこに行くんだろうね?全く興味はないけどサ」
「まだ分かりませんよ、俺まだ一年です」
「もう直ぐ二年じゃん」
「でもまだ二年あります」
「はーあ、可愛くないぞー、トビオちゃん」
「可愛くなくていいです」
「今度笑顔の練習とかしてみ?鏡の前で。多分すっごい笑えるから」
「俺が俺の顔見て笑っても楽しくないです」
「あっはは、そりゃそうだ」
はーあ、と笑い声を納めながら及川さんが空を見上げる。セットされた彼の前髪を春の風が触れて流れていった。
「飛雄」
「はい?」
「お前、絶対俺のとこには来ないでね?」
「言われなくても、あんたのところには行きませんよ」
俺の返答がお気に召したのか、小さく笑い声を上げた及川さんは、空に向けていた視線を俺に向けて、それから、――それから。

「飛雄のばーか」

晴れやかに、眩しいものを見るみたいに。
今までに見たことがない、むしろ今日初めて見たと思う。
――そんな馬鹿みたいにキレイな顔で、及川さんは俺に向けて笑った。
それが、中学一年最後に俺の目に焼き付いた光景だった。



***



「おい、おい待てってば影山!」
「何だボケ日向」
「悪口突っ込んで名前呼ばないでくれません!?って違う!お前何そんなに怒ってんだよ」
「怒ってねえ」
「怒ってる」
「怒ってねえって、」
「なあ、影山」
「んだよ」
「じゃあなんでそんなに不機嫌なんだよ?」
「だから言ってるだろ別に怒ってないし不機嫌じゃない」
「嘘つけ!お前すげー目線怖いぞ!さっきから前から来る散歩してる犬とか全部お前を避けてくじゃん!ビクビクしてて可哀そうだと思わないのか!」
「っぐ」
図星を突かれて思わず呻いてしまいそのまま足を止めてしまった。そしてそこを見逃すこいつではない。
「で?」
「……」
「お前が怒ってて不機嫌の原因って何なの?」
「……」
「……」
「……」
これでこのまま沈黙を続けて答えないという手段もあるのだが、そうするとこの目の前の日向という男は信じられないくらいにしつこいというのを知ってしまっている俺は不承不承口を開くことにした。
「……さっき、牛島さんが及川さんのこと言ってたろ」
「? 大王様のこと?」
「『白鳥沢に来るべきだった』って」
「言ってたな」
「それで」
「それで?」
真下からまっすぐな視線を向けてくる日向は俺の答えを待っている。
さっき牛島さんと対峙したときの様な気迫は無い。そこにはただ純粋に疑問が浮かんでいた。それに対し、答えても構わないか、と思ったのは俺自身が驚いていたのだが、日向は分からないだろう。
「ふざけんなって思ったんだ」
「……んー、それは、ウシワカに対してだよな?」
「そうだ」
「ウシワカが大王様のことああいうの、嫌なのか?褒めてたじゃん、優秀だって」
「そういうお前は、青葉城西のことああ言われてキレたじゃねーか」
「そりゃ!だってあんなこと言われちゃおれたちはどうなんだって思うだろ!?」
「まあな」
「ってちげーし!おれがカチンときたのは大王様以外のひとをああ言ったことについてで!」
「俺は、」
日向がまだ何か言おうとした言葉をぶった切って、俺は口を開いた。

「俺以外の人間があのひとのことを言うのが嫌いだ」

言い切った俺を見て、思わずという様に日向が見せた顔は。
――その顔は、見覚えがある。
「……影山」
「んだよ」
「お前、大王様のこと、好きなんだな」
「悪いか」
返答の早さに日向の目が開くのを面白く思った。
「それって、あれか?」
「あれって何だ」
「好きって、レンアイ的な感じ、で?」
「俺も自覚したのは割と最近なんだけどな」
「へー、ほー」
「おい、なんだそれは」
何度も頷いて確認するように俺の顔を見てくる日向に後退りそうになるが、そこは気力で堪える。コイツを前に退くとか有り得ない。
「いや、何ていうか。あー、そっか。なんかすっきりした」
「は?」
いつの間にか数歩先に歩いていた日向を追いかけて何をだ、と声を上げた。
「お前のサーブ、大王様のを見て覚えたって言ったろ?」
「ああ」
「教えてもらって、じゃなくて見て覚えたってんでさ、仲悪いのかなーと思ってたんだけど、実際試合のときはあんなだったし。大王様超怖いし、超強かったし。でも次はぜってー負けねーし!」

試合終了の笛の音。
自陣に落ちていったボール。
負けてコートに両手を着いたあの瞬間を思い出す。苦いばかりの記憶の中であのひとの姿だけが鮮やかに脳裏に浮かんだ。

「でも本当に嫌っているんなら、お前はあんな目はしないよなーって思ってたから」
だからすっきりした。と日向は背伸びをして鞄を担ぎ直している。
「おい、日向」
「ん?なに」
「あんな目って、どんな目だ。つか俺のことかそれは」
「お前以外いねーよ。大王様をあんな風に見てるの」
「……どんなだ」
「んー、なんか言葉にし難い。おれ頭よくないし」
「それは俺もだ」
「ちょっと待てよ、今考える」
「早くしろ」
「ちょっと待てって今言ったばっかりだろ!どんだけせっかちか!」
「うるせー早く考えろ!」
「横暴!」
「馬鹿!」
「本当のこと言うなよな!?」
顔を真っ赤にして怒る日向に踏ん反り返って不敵な顔を作る。
「そこ、肯定すんなよ」
「ちくしょー!誰の所為だ!」
「俺か」
「他にいねーよ!お前だって頭良くないくせに!」
ああもう、と両腕を組んで考えている日向を眺めつつ、俺は脳裏に及川さんの姿を思い浮かべていた。

『飛雄ちゃん』

見た目だけは甘く、その口から零れる音も優しく聞こえているようで、本当はその間逆の感情が潜んでいる。それを隠そうともしないで自分に向けてくるひとだ。

「その顔だよ」
日向が指を指して自分の顔を見ている。
「あー、あれだ。鍋がぐらぐら煮立っているみたいな目」
「……どんなだそれは」
「だってそれ以外に浮かばねーんだもん」
ぐらぐら、煮立った。
――言い得て妙だと思う。
「そう見えるんだな」
「何だそれ」
「周りから見た感想も聞いてみるもんだな」
「……影山。お前、友だちいねーのな」
「死ね」
「ひどくね!?」
騒ぐ日向をそのままに歩き始めると、隣に追いついた日向がなあ、と首を傾げた。
「お前さ、大王様が好きなら、なんで青葉城西に行かなかったんだ?どうして白鳥沢、は落ちたけどよ、……っておい待て殴ろうとすんな!本当のことだろ!」
言われた言葉を受け止めて素直に行動に移そうとすると直ぐに射程距離から逃げられた。
馬鹿の癖に危機回避能力は高いのだ、こいつは。
「おい影山。今おれのこと馬鹿にしただろ」
「……してねえ」
「その間は何だ!ったく、お前がこんなんなのって大王様の所為なのか?」
「まあ、半分くらいはそうかもな」
「半分って、十分多いと思うんだけど……」
頭を抱えている日向に、俺はさっさと理由を言うことにした。こうなれば今更だ。
「お前、及川さんをどう思う」
「大王様?」
「まず最初に初めて見たとき」
「……うーん、すげーイケメンだなって思った」
「そうだな」
「そんで次にサーブすげえ、超怖えって思った」
「そうだな」
「お前が大王様好きになったのってどこなの?」
「俺は、あのひとの笑った顔も好きだけど」

卒業式の日のあの笑顔を思い出す。
――だけどそれよりも、もっと。

「どっちかって言うと、泣いてぐちゃぐちゃになってる顔が好きだ」
「……お前が白鳥沢に行こうとしたのって、」
「あそこなら、あのひとをもっと泣かせてやれると思って。それを俺の手でできたら最高だと思った」
日向が道端に項垂れているのを尻目に俺は歩き出す。
「おい、待て!ダメージ受けたおれを置いて行くとか!鬼か!」
「置いていくぞ」
「遅いわ!」
大分離したところで気付いた日向がすごい顔で追いかけてきた。どうでもいいがその顔は俺のさっきまでの顔とどれだけ違うのか聞いてやりたい気もする。
「お前、好きな子いじめるタイプなんだな」
追いついた日向が分かり切ったように言うのに、俺はそれも違う様な気がすると考えていた。
「別に、あのひとを無理に泣かしたい訳じゃねえ」
「でも、泣き顔好きなんだろ?」
「おう」
「早えよ、怖えよ」
引き攣った顔をしている日向が面白い。
あのひとが俺をからかっていたときの気分が少し分かった様な気がする。
「どうしようもなくて、いっぱいいっぱいになって、他に目も行かなくなって、俺だけになったあのひとが俺にだけ向ける泣き顔がいいんだ」
「……お前、本っ当に大王様好きなんだな……」
「そうだな」
「あれ、おいお前そっちって帰るのと違うだろ?」
行く先を変えた俺に気付いた日向が直ぐに声をかけたが、俺は鞄を背負い直してじゃあな、と背中を向ける。
「お前と話してたら及川さん見たくなったから会いに行ってくる」
「……お前、歪みねえな」
「まあな」
「褒めてねえよ!?」
「じゃあな、迷うなよ」
「うるせえ!迷わねえよ! って影山!」
「何だ」
「あんまり泣かすと嫌われるぞ!」
当然の様なことを言って何だか心配そうな顔をするお人よしに、俺は素直に笑ってしまった。
「もう嫌われてるから大丈夫だ」
それ、大丈夫じゃねえんじゃね!?と日向の叫び声が聞こえたが、俺はもう振り返らなかった。
嫌われているのなんて、別にどうでもいい。
もとよりゴールは果てしなく遠いのだし、そんなことは本当に今更だ。
間違えてあのひとが俺を振り向いてくれたとしても、それは随分先の話だろうし、俺は諦めがとことんまでに悪いのだし、長期戦はむしろドンと来いだ。
「一応メールしておいた方がいいか」
走りながら携帯を取り出す。
『今から行きます』
それだけ打って送信してから鞄に放り込んだら後は無視した。鞄が振動しているからあのひとから返信が来たのだろうけれど、それを見る余裕は俺にはない。
今は兎に角。直ぐにでもあのひとに会いたい。
会って何かするつもりはない。むしろ門前払いもあるだろうけれど、そんなのは構わない。一瞬でも見れたらそれでいい。
「俺って、案外安上がりなんだな」
それも違えよ、と隣に日向がいたら突っ込んだだろう言葉は、生憎俺には聞こえなかったし、聞こえたとしても結果は同じだろう。
俺があのひとを好きで、そして泣かしたいのは本心だ。全部、全部取りこぼして後に何も残らなくなったとしても俺がそれらまとめて拾い上げて大事にする。俺だけに向けたあの目も魅力的だし、卒業式に見せてくれた笑顔も比べられないけれど、俺は全部終わったあとに剥き出しになったあのひとが欲しい。柔い心全部さらけ出して、ぼろぼろに泣くあのひとが欲しい。

「だから、次は絶対負けねえ!」

目下の目標は再戦に向けて、まずは期末テストを乗り越えてから。東京へ、絶対に遠征に行く。そして今よりもっと強くなる。
――そしていつか必ず、あのひとを手に入れる。
「ははっ」
思わず零れた笑いは、夕焼けに照らされた道に落ちて混じってあっさり消えた。

ああ、早く会いたい。

それだけを思ってひたすら駆ける俺は、多分月島が見たら青褪めるくらいには笑顔だったろう。見せてやれなくて残念だった。

背中の鞄が驚くほど軽い。
走るスピードを一段上げて俺は目の前の坂を駆け上がる。この道があのひとに続いているなら、俺はどこまでだって走っていける自信があるって、本気で思った。










「……本当に来た」
「どうも」
俺を迎えてくれたのは、やっぱりというか仏頂面の及川さんだった。玄関先でインターホンを鳴らす前に計算でもされていたのかぴったりのタイミングで及川さんが出てきたときには少し驚いた。
「っていうか、すごい汗」
「走って来たんで」
「はあ、全くお前は」
青葉城西のジャージではなく、私服の及川さんを見るのは久しぶりだ。
及川さんの家に来るのはこれが初めてじゃなくて、中学のときには割とお邪魔していた。中一のときは他のメンバーと交じって何度もこの敷居を上がった。
及川さんの家は純和風の大きい家で及川さんの部屋もそれに見合うだけの広さがあり、放課後なんかにチームメイトで集まって反省会とかやるのに丁度良かったから。そして、俺がここに足を運び続けたのは及川さんが卒業してからもで、周囲から少しずつ浮いてしまっていた俺が今と同じ様にバレーにばかりかまけて勉強がてんでできなかった為、自分から教えを乞う様な友だちもいなかったこともあって監督が及川さんに頼んで俺の勉強を見てくれるように打診したんだ。卒業した及川さんはいくら同中の後輩とは言え、本人がはっきりと嫌いと公言している俺のことを面倒見る理由は全くなかった訳なのだが、何故か俺のことを引き受けてくれた。及川さんにも高校での部活や勉強があるし、試験前の数日だけって約束で俺は及川さんの家に足を運ぶことになる。
勉強については本当にスパルタで何度も馬鹿と頭を叩かれ散々なことも言われたけど、おかげで俺は補習を免れることができたし、白鳥沢には落ちたけど烏野には受かることができた。
一度、どうして俺の勉強見てくれるのか聞いてみたいと思ったけど、それは今になっても叶っていない。
「あらまあ、影山君久しぶり。元気だった?」
「お久しぶりです」
「お母ちゃん、出て来ないでって言ったのに!」
「何言ってんの!玄関先で話してるなんて。早く上がって貰いなさい!」
「あ〜もう」
「あの、及川さ」
「飛雄、上がって」
「……お邪魔シマス」
「ハイ、ドウゾ」
不本意です、という言葉が顔に張り付いた及川さんの背中を追って家に入る。及川さんのお母さんがニコニコしながら、ゆっくりしていってね、と笑ってくれた。
「はい、徹。これお茶菓子ね。ちゃんと二人で分けるのよ?」
「……お母ちゃんは俺が飛雄からお菓子盗っちゃうと思ってんの?」
ぶつぶつと言いながらも受け取ったお盆を抱えた及川さんはさっさと廊下を進んで行くので俺も急いで追いかけた。
「入って」
「うっす」
久しぶりに踏み入れた及川さんの部屋は最後に見たときと全然変わっていなかった。
ただ見たことのない微妙な顔の宇宙人みたいな人形がいくつか増えているように思ったが、そっちはあんまり確認しないでおいた。
「さっきまで金田一とかもいたんだけどね」
「え?金田一が?」
「国見ちゃんもいたよ。他にも二年も三年も。こっちもそろそろ試験が近いからさ。ここで勉強会」
メール見てないでしょ、と言われて鞄に入れたままのそれを思い出す。
「走ってて見てませんでした」
「だろーと思った。白鳥沢まで行って、チビちゃんと二人してケンカ吹っ掛けてきたんだって?」
「どうして知ってんですか!?」
「ウシワカちゃんに聞いた」
ふらふらと及川さんの手に掴まれて揺れているのは及川さんの携帯で、つまり、それは、
「牛島さんと仲が「良い訳ないでしょトビオちゃんの馬鹿ちん」
「ですよね……」
じゃあなんでメールを、と視線で聞くと、非常に険しい顔の及川さんは重苦しく口を動かした。
「前に、結構強引に教えてくれって言われて。つい」
「……及川さんって、結構押しに弱い「訳ないでしょトビオちゃんの阿呆たれ。お前あの顔と声で近距離で迫られた上に教えろって壁に両手着かれて言われて逃げ切れると思うの」
「……」
想像して無理だと思った。
何て言うかすごい場面だ。周りにいたひとをどれだけの恐怖が襲っただろう。
「それで?」
「はい?」
「白鳥沢まで行ってウシワカちゃんにケンカ吹っ掛けて、そんでまたここまで走って来て、俺に何の用?」
テーブルの上に置かれた茶器の中、俺の顔が浮かんでいる。それを見て、顔を上げて、及川さんの顔を正面から見て、俺は口を開いた。

「理由は特に無いんですが、俺はあんたに会いにきました」
「……は?」
「日向と及川さんのことを話していたら、顔見たくなってそれで」
「ちょ、ちょっと待って」
「はい?」
「俺のことチビちゃんと話してたって、何を」
「俺が及川さんが好きってことを」
「……」

及川さんの手から落ちた煎餅がぽとりと間抜けな音を立てて畳みの上に落ちた。
「……念のために聞くけど」
「何スか」
「それは、尊敬とかそういう類の」
「レンアイって意味で、ですけど」
ガタン、とテーブルが揺れた。膝を抱えて蹲っている及川さんは、どうやらテーブルに思い切り膝を強打したらしい。
「〜〜っ、トビオちゃん」
「はい」
「お前のそれは「イッカセイのもので直ぐに女の子に目が向く様になるって及川さんが言いましたよね、中一のとき」
及川さんの言葉を遮って俺は視線を目の前のひとにだけ向ける。
「でもそのイッカセイっていつまでを言うんですか?俺かれこれ三年とちょっと、あんたばっかり好きなんですけど」
及川さんの目が丸く開いた。元より大きい目が更に大きく見える。
これを言ったら絶対怒られるけど、可愛いと思った。
これは俺だけに向けられた目だ。
「じゃ、じゃあ聞くけど!」
「はい」
「お前は俺と、その、い、いやらしいこととか、したいって思う訳!?俺男だし、お前もしっかりはっきり男だし、どう見ても柔らかいとこなんて無い訳で、そんな相手を見た上でお前は」
「あの、及川さん」
「何」
「俺、あんた相手なら上でも下でもどっちでも良いと思ってたんですけど」
テーブルを退かして及川さんに手を伸ばしてみる。避けられるかと思ったけど、避けなかった。ひょっとして驚いて固まっているだけかもしれないけど、チャンスはモノにしてこそだと勝手に判断することにする。
頬に手を這わす。男にしておくのが勿体ないくらいキレイな肌で、触れるのは初めてだけどめちゃくちゃドキドキした。ゆっくりと顔の輪郭を辿るようにしていくと、及川さんの肩が小さく跳ねたのが見えて、俺で動揺しているって思ったら嬉しくてしょうがなかった。

「あんたが泣いてぐちゃぐちゃになってるところ見たいから、やっぱり上が良いです」

その瞬間、俺の手は払い除けられた。
そして向けられた視線は俺ごと全部焼き尽くすみたいな熾烈さで、――ああ、本当に堪らない。

「それだけ、言いたかっただけですから。帰ります。お邪魔しました。お茶も、ご馳走様です」
「飛雄」
軽く頭を下げてから立ち上がった俺を及川さんの声が止めた。
振り返ってみると、及川さんは俺を見ずにテーブルだけを見詰めている。

「俺は、お前を好きにならないよ」
「知ってます」
それじゃ、と部屋の前でもう一度頭を下げた。

「あら、もう帰っちゃうの?」
「すみません急に。帰ります」
「今度はゆっくりしていってね」
「はい」
「全くもう、あの子ってば。影山君が帰るんだから見送りくらいすればいいのに!」
「あ、挨拶してきましたから」
「ごめんなさいねえ、普段はこんなこと無いんだけど」
「大丈夫です」
引き戸の玄関を開けて外に出る。すっかり辺りは暗くなってきていて、こんな所で季節の早さを感じた。
それじゃ、と頭を下げると、及川さんのお母さんは手を振ってこたえてくれた。そのまま振り返らず、俺はまた走り出す。帰りの道でも教科書が詰め込まれた背中の鞄は軽いままで、俺は鼻歌でも歌いたい気分で暗くなってきた道を急いで走り抜けた。







『岩ちゃん岩ちゃん岩ちゃん岩ちゃ「うるせえボゲ川!一度言えば分かるわ何度も耳元で叫ぶな!アホ!電話なんかしてきて何だってんだいきなり」
『どうしよう、俺どうしよう、岩ちゃん』
「んだよ、何があったんだ?」
『俺……』
「ん?」
『俺っ』
「なんだよ」
『俺の貞操の危機なんだけどおおおおお』
「心から知らねえわ!何だ俺に何を言わせたいんだよボゲッ!!」
『もうやだあああ飛雄のばかあああ』
「はあ!?影山が何かしたのか?おい、及川!答えろバカ!呻いてないで何か言えっ」
『飛雄なんてタンスの角に足の小指をぶつけちゃえばいいんだあああ』
「痛えわ!ってかマジでお前何言いたいんだよ!?」
『岩ちゃん』
「おう?」
『俺、これから絶対に飛雄に背中向けないようにするから!』
「だから意味が分からねえって言ってんだろボゲエエエエエ!!!」








20140608
…初影及。下剋上上等です。






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