君は僕の海である。






「黒子っち?」
隣りにいる黄瀬が呼んでいるのを聞きながら、黒子は返事をせずに目を瞑っていた。
「寝てるの?」
やわらかくあたたかな声はどこまでもやさしく耳に触れてくる。その感触を楽しみながら、黒子はひっそりと笑った。
「もう、起きているんでしょう?」
ソファーで横になっていた自分の真横にどうやら黄瀬はいるらしい。きし、とソファーが動いて黄瀬が手をついたのが分かった。
「お寝坊さんな黒子っちは、今日は何の日か忘れちゃったんスか?」
小さく笑いながら告げられた言葉は真綿の様だ。ふわふわとしていていつまでも聞いていたい。手入れの行き届いた滑らかな手。その指先が自分の額に触れている。くすぐる様にささやかに。その感触の余りの頼りなさに、黒子は自分の手を伸ばしてその指に触れた。

ふふ。

黄瀬の笑う音がする。

「……忘れていませんよ」
「うん。だよね。黒子っちが忘れるわけないもん」
「忘れていませんが、もう少しこのままでは駄目ですか」
「ええ、また寝ちゃうの?黒子っち」
「寝ませんよ」
「嘘ばっかり」
「なんで嘘だなんて言うんです?」

目を開けると、息を飲むほどに造作の整った顔が自分に向けられている。その唇が動く前に、黒子は顔を傾けた。

「……」
「……」
「……ちゅう、した」
「そうですね。しました」
「先に言ってって、いつも言うのに」
「すみません」
「謝って欲しいんじゃないもん」
「はい」
「ただね、心臓がおかしくなっちゃうから。びっくりするから」

だから言って。
嫌じゃないの。

頬を桜に染めて、そんな風に困ったように笑うひとにどうして手を伸ばさずにいられるだろう。
ただ、愛おしいのだ。目の前の唯一のひとが。

「涼太君」
「なあに」
「僕は案外間違えていなかったようです」
「黒子っちが間違えることなんて滅多にないでしょ?」
「ありますよ。僕だって万能ではない。それこそ君に比べてしまえば欠陥だらけです。そんなことは無いと、君は言うでしょうけれど」
「言うよ」
「早いですね」
「俺は黒子っちのことで譲るなんてことはしないから」
「譲歩も時には必要なことです」
「相手が黒子っちなら余計に負けられないの」

黄瀬はそう言うと黒子の瞼の上にキスを落とした。

「隙あり」

くすくすと笑って黄瀬は立ち上がる。
「さ、午後には皆が来るんスから。お買い物行こう?」
「あの人たちはここに来すぎだと思うんですが」
「まあまあ。俺たちのことが心配なんだって。この前赤司っちが言ってたよ。もう子どもって歳でも無いのにねえ」
赤司っちの中では、俺たちはいつまでも中学生のままなのかも。
冗談の様に黄瀬は言うが、それは強ち間違いでもなさそうである。
「心配性の主将を持つと大変です」
「俺たちのことが大好きだからね、赤司っちは。それは皆にも言えるけど。それに俺たちも、ね」
リビングを横切って今日の予定が書き込まれたホワイトボードを確認している黄瀬の姿を後ろから眺める。綺麗に背筋が伸びている背中は今は白い無地のシャツに覆われているが、その背の滑らかさを思い出したところで黒子は黄瀬を呼んだ。
「ところで涼太君」
「はい?」
「僕が以前君に渡した手紙は覚えていますか?」

黒子が尋ねると、黄瀬の動きがピタリと止まった。

「……さあ、何のことっスかね」
「忘れてしまいましたか?」
どうにも意地が悪いと思われてしまいそうな言葉を投げる。黄瀬はこちらを振り向かないままだが、背後から見える耳がうっすらと赤く染まっているのを黒子は見逃さなかった。
「あの日は、暑かったですね」
「〜〜っ、黒子っち!もう、どうして朝から意地悪ばっかり言うんスか?」
勢い振り向いた黄瀬が黒子の座るソファーに大股で近付いた。
「分かりません?」
「分からないっスよ、もう……」
ふくり、と膨れた黄瀬のまろい頬が美味しそうだと思う。自分に正直に右手を伸ばして触れてみると、思った通り柔らかく気持ちが良かった。
「……黒子っちのばかぁ」
「心外ですね」
「直ぐそうやって誤魔化そうとする」
「誤魔化してなんていませんよ?」
「じゃあ、俺の質問に答えて」
「……別に意地悪なんて言ってません」
「本当に?」
「……」
「黒子っち?」
「だって。君が悪いんですよ」
「ええっ俺?」
驚く黄瀬に、黒子はばつが悪い顔をするしかできない。原因は分かっているが、それは誰が聞いても理不尽な理由であるからだ。
「……呼んでくれないじゃないですか」
「呼ぶ?」
「涼太君」
「はいっス」
「君、今日は一度も僕を名前で呼んでくれていないんですよ」
「……へ?え、や、だって、」
「どうしてですか?僕は君に名前を呼ばれるのが好きなのに。どうして今日は前の呼び方で言うんです」
多少むくれてしまうのは許して欲しい。自分にとっての唯一の人が自分を呼ぶあの甘い声を聞きたいのに、黄瀬は今日に限って自分を以前のあだ名で呼び続けるのだ。
拗ねてしまっても仕方ないと思うのは自分だけだろうか。
「……だって、ってか、やだ、ごめん、いじけちゃった?」
「いじけてません」
「いじけてるじゃん。もう、ごめんってば。許して?テツヤ君」
「……まだ許せません」
「ふふ、テツヤ君のご機嫌はどうしたら直ってくれますか?」
「君が僕に抱き付いてキスをしてくれたら、考えなくもないです」
黄瀬の目が細められる。戸惑うことなく顔が傾けられ、黒子の額に唇が触れた。
「……足りないです」
「んー、それじゃあ、ここは?」
次に唇が触れたのは鼻先だ。
「もっとです」
「ふふ、じゃあ、ここ」
顎の先。続けて両頬に。羽が触れるように軽く、キスの雨が落とされていく。なのに肝心の場所にはまだ落ちてこない。
「涼太君」
懇願するように呼べば黄瀬はふわ、と笑った。
「テツヤ君は甘えんぼっス」
望んだ場所に、今度は間違いなく落とされたキスを味わおうと黒子は黄瀬の頭を引き寄せる。
二人の間で濡れた音と軽いリップ音が続いていると、思い出した様に黄瀬が焦ってキスを止めた。
「はい、これでお終い!早く買い物いかないと間に合わなくなっちゃうっスよ」
「まだいいじゃないですか」
「だぁめ!」
ほらほら、と黄瀬に急かされて渋々立ち上がった黒子は、財布を探している黄瀬の手をしっかりと掴んだ。
「わ、黒子っち?」
「それで理由は?」
「ええ、ちゅーしたから終わりじゃないの?」
「いいえ、終わりませんよ」
「……うー、笑わない?」
「笑いません」
それじゃ、と黄瀬は二人以外誰もいない部屋の中で声を潜めた。
「この前皆で会ったとき、テツヤ君だけ遅れてきたでしょ?あのときね、テツヤ君が来る前に皆で色々話をしてたら、俺がテツヤ君のこと、『テツヤ君』って皆の前で言っちゃったの。そしたらさ、青峰っちはなんかニヤニヤ笑うし、緑間っちは不機嫌になっちゃうし。赤司っちや紫原っち、桃っちは喜んでる風だったけど。……で、その、それがさ、なんか無性に照れくさくって。恥ずかしいんじゃないよ?なんか、皆だったから余計にこう、わーってなっちゃって。俺たちのこと知ってくれてるひとたちだから。嬉しいっていうのもあるんだけど。……やっぱりまだ照れくさいの。だからせめて皆がいるときはテツヤ君のことは『黒子っち』って呼ぼうって思って。そう考えたんだけど、俺皆の前だと気が抜けちゃって、またうっかり言っちゃいそうだから今日は朝から練習しようって思って。その、呼んじゃわないように」
分かってくれた?と黄瀬がこちらを見るのを、黒子はその身体を引き寄せることで答えた。
「わわっ、テツヤ君?」
腕の中にいる黄瀬を黒子は全身で抱き締める。
黄瀬は、練習をしていると言った。
つまり、練習しなければならないほどに、それは彼の中で当たり前に馴染んだことだと言うのだ。彼にとって自分を名前で呼んでくれるということが。
これを恋人として嬉しく思わないわけがないだろう。
「涼太君」
「はい?」
「やっぱり買い物はあとちょっと待ってください」
「え?ひゃ、ちょ、待って待ってテツヤ君っ、まってって、こらっどこ触ってるの、シャツ脱がさないでってば、ねえテツヤ君っ聞いてるの!?」
「聞いてます」
「聞いてたら、止めて!」
「本当に?」
「え?」
「本当に止めていいんですか?」

身体の動きを止めて黄瀬をじっと見つめると、黄瀬は直ぐに頬を赤く染めそれから何度も逡巡するように視線を左右に動かしている。
そんな黄瀬を間近でじっくりと眺めていると、黄瀬が小さく息を飲み込んだ。そして黒子が動作を止めてから三分後、黄瀬の両手がゆっくりと黒子の首に回されたのである。

麗らかな休日の午後。
買い物にはまだまだ、――到底、行けそうにない。




20130316
春のペーパーでした。
甘い甘いふたりが書きたかったんです。






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