海と浮輪






パタン、と力無く締まったドアに顔を上げると、玄関先には顔を俯かせた大きな黒い人影が一つ。
丁度風呂から出てきたところでのこのタイミングに、何だか計った様だなあ、だなんてらしくないことを考える。首にかけたタオルを外して手の中で丸めながら、未だそこで立ったまま動こうとしない男に声を掛ける。

「夕飯は?」
「要らねえ」
「シャワーは?」
「浴びてきた」
「喉乾いた?」
「水は要らねえ」

じゃあ、何が欲しいの?
なんて、そんなことは聞くまでも無い。

「……黄瀬」

軽く息を吐いて肩の力を抜く。
そうしてソファーの背もたれにタオルを放って両手を彼に向かって広げて見せれば、それで答えは返したものだ。
一息に詰めてきた距離に驚くことはもうない。掴まれた腕が痛いと思うが、それも一瞬で消えていく。引き寄せられたのは彼の腕の中で、ごつごつと居心地の悪いそこは、妙な安心感もまた感じられる。
吸い込めば、彼の匂いだ。

「苦しいんだけど」

そう言って嘯いてみれば、

「嘘吐け」

だなんて、全く可愛くない言葉が返ってくるのだから、割に合わないと思う。
でも、仕方ない、とかそういう諦めとは別の感情を自分は彼に向けているものだから、結局はそれも形だけだ。

「甘ったれ」

小さく笑いながら彼の背中に手を回してやれば、煩せえ、と耳元で小さな反論が返って来るものだから、もっと大きな笑い声になってしまったのも、半分は彼の所為に他ならないのだ。





強引に、半ば無理矢理の様に連れこまれたのは自分の寝室だ。自慢のベッドは平均身長をオーバーした男子高校生二人が乗ってもビクともしない。頑丈な夜の相棒(なんて言うとやらしいけれど)を背中に感じながら、今自分の目の前にいる男に視線を向ける。
部屋が暗い所為で表情までは見えない。
だけど伸ばされた手のシルエットだけは、妙にくっきりと目に映った。
肩口に顔を埋められる。首筋に掛かる彼の呼気がこそばゆい。耳は弱いから近付くな、と過去に散々言い聞かせた甲斐もあって、最近では大人しくそこに落ち着くようになった。調教の賜物だろうか。

「……」

続いている沈黙は、居心地の悪いものでは無い。彼はどうかしらないが、自分はそう感じている。
背中に回った彼の手が割と遠慮無い力で自分を締めてくるので、固い二の腕をぱちぱちと叩いて緩めさせる。そうして若干緩んだ腕の中で納まる位置を探そうとしたら、彼が体重を掛けて圧し掛かってきた。
重い。
正直に重い。
自分よりも重い体重の人間を上に乗せて平気でいられるわけがないのに、彼は知っていてやっている節がある。

「……ちょっと、青峰っち、重いんスけど」
「あーそうだな」
「そうだな、じゃねーよ。ちょっとずれて」
「やだ」
「何その返事。あんたがやっても可愛くない」
「お前がやったらかわいいのかよ」
「あんたに比べたらよっぽどマシっスよ」

ぽんぽんと交わされる軽い言葉の応酬に意味はない。こうしている間に互いに自分の位置を決めて動いているのだから、慣れって恐ろしいものだ。
やっと互いに落ち着く体勢になれたが、端から見たら、なんとも奇妙な状況だろう。
二人揃って横向きに寝て、一方が片方の腰に両腕を巻き付けて胸元に顔を埋め、もう一方は片方の首に腕を回し、軽く腕枕の様な状態になっている。どちらかが女だったら、そこまで異様な光景でも無かっただろうに、残念ながら二人とも男である。
何が悲しくてこんなガタイの良い男に腕枕なんてしてやっているのか、と腕の中の男の短い髪を悪戯に引っ張ってやる。軽く呻いただけで何も言わない彼は、無言のままで自分の身体を引き寄せた。
広いベッドの上で、こんなに密着する理由は無いのだが、どうも彼は自分と離れるのが嫌、らしい。
全くもって、可愛げは無いのだが。

「……」

手の中の短い髪は、先日会ったときよりも短くなっている気がする。少し長くなるだけでも邪魔になって気が散るのだ、と言っていたのは中学のときだっただろうか。あれからそう遠くは無い時間が経って、彼の中にはあのときに近い煌めきが戻ってきている。腐って嘆いていた彼の横っ面を引っ叩くのは、できれば自分でありたかったのだが、それは彼の元相棒の手で為された。
まあ、しょうがない。あのひとはヒーローなのだ。この目の前の男の中で、彼にはちゃんと役割があった。それにこの男が気付いていたのかどうかは知らないし、興味も余り無い。
それを知ったところでもう過去の話なのだ。

青峰は、また走り出した。
一度その足を動かし始めたら、きっと今まで以上に追いつくのは困難だろう。だけれど、だから、それが良いのだ。背中ばかりを見ていたい訳じゃない。あっさり抜けるとも思えなかったのは昨年まで。今年、来年は分からない。自分の中の可能性はそれこそ無限大だと知れたのは今年最大の収穫だ。
絶対に負かしてやる。
そう誓いながら青峰の頭をぎゅう、と抱き込んでやれば、大人しく自分の胸にいっそう顔を埋めてくるのだから、この男が分からない。
自分は男で、胸は無い。
彼にとっての死活問題と言っても良い豊満な胸ならば、いつも傍にいてくれる桃色の彼女が持っている。どうせ抱き付くのなら絶対にそちらの方が良いに決まっているのに、何が悲しくてこんな男の胸板に頬を擦りつけているのだか。
自分が笑っているのに気付いたのか、青峰はのそりと顔を上げた。その頃には部屋の暗さに慣れてきて、何となく近ければ表情くらいは見られるようになっていた。

「きせ」

思わず目を開いてしまう。
だって、聞いただろう?
この男が。
自分を呼ぶこの声が。
なんて。なんてまあ。

返す言葉は彼の口の中に飲み込まれた。覆われた唇に触れる彼の熱は案外高く無い。なのに、うっすら開いた口の隙間を縫う様に入ってくる彼の舌は、信じられないくらいに熱いのだ。
唇が触れあう音が部屋に響く。他に聞く音が無いから余計にこの音を拾ってしまって、なんだか居た堪れない気がする。
離れていこうとすれば、追いかけるように彼の舌が自分のそれに絡む。離れるな、と言われている様で、その必死さに口元が緩む。このままやられてばかりもつまらないので、自分もやり返そうと舌を浮かせれば、彼の歯が甘噛してくるからもう、笑いが止められない。
まったくもって、しょうがない。
かわいいなんて少しも思ってはいない。
まあ、少しは。彼の短い髪先くらいは、思ってやらなくもないかもしれない。

時折過去の自分を思い出すのか、彼は不安定になるときがある。暗い海の中で沈んでいただけの日々を、そう簡単に忘れるわけもないことは分かっていた。気を紛らわすためのバスケも逆効果であったのだろう。それでもなんとか自分を誤魔化し続けて、それも駄目になったときだけ、彼は自分のところに来るようになった。
これが何回目か、なんてことは数えるのは野暮なことだ。
暗い、深い、底なしの海に、一人沈まない様に足掻く様は、見ているこちらも気が滅入る。
だから、自分が彼にとっての、救命道具くらいになれるのであれば、それは願ったりだった。
一緒に沈んであげるなんて、そんな優しいことは言えないし、言わない。それは心優しいヒロインの科白なのだから、自分では役不足だ。
ヒーローはいる。
ヒロインもいる。
それでも足りない、と叫ぶ彼の強欲さには思わず溜息も吐きたくなるのだが、まあ、仕方ない。
根首をかこうと獲物の目で見ている自分を知って、そんな自分を彼が願うのだから、大目に見てやろう、くらいには自分にも甘さがある。

「も、しつこいっスよ」

やっと離れた唇を動かしてそう文句を言ってやれば、彼は何故だかひどく嬉しそうな顔をする。
絆された、なんて言葉が頭の中で掠めたけれど、背中に回った彼の手が伸びた先に思わず息を詰める羽目になる。

「おい、こら。今日はここまでっス」
「なんで」
「なんで、じゃねー。連絡も無しに急にきて、準備も何もできてないんスから」
「そうか」
「そうっスよ」
「じゃあ、やるか」
「あんた人の話聞いてねえな!?」
「だから、俺が準備してやるって」
「……は?」

言われた言葉を吟味する前にとっととベッドから身体が離れている。

「ちょ、どこ連れて」
「風呂場。その方がいいだろ?」
「いいだろじゃねー!あんた絶対準備だけで終わらないだろ!」
「なー、黄瀬」

振り返った彼の顔は、どうしようもなく笑顔であり、

「逃げられると思うなよ?」

その満面の笑みに反して飛び出た科白は脅迫とも言える様な拘束力で、

「……明日朝練あるっスから。二回までっスよ」

結局こうして譲歩してしまうのだから、自分が自分でしょうがないと思う。

「風呂場で一回、ベッドで一回だな」

上機嫌で自分の手を引く目の前の男を蹴りつけてやりたいと思ったので、素直にそれを実行すると、蹴り上げた足を掴まれて廊下に引き倒された。頭は庇われたので痛くない。というかそれが悔しい。憮然とした顔で彼を見上げると、ニヤ、と口元だけで笑った男があくどい笑顔でのたまった。

「なんだ、待ちきれないか?しょーがねーな。廊下で一回、追加な」

ちょっと待て、と叫ぶ声は飲み込まれ。
好き勝手に動きだした彼の腕に思い切り噛みついてやったのだが、余計に喜ばれたのだから意味が分からない。
甘やかすのもほどほどにした方がいいですよ、という親友の言葉が思い出されて、これが甘やかしている内に入るのか?と今度聞いてみようと思ったのだが、なんとか伸ばした手で目の前の男の脇腹を抓ってやったあとに仕返しの様に耳に噛み付かれたら、その考えもどこかにいってしまったのだった。







20130909





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