目を覚ましたら、
そこにはひとり。
誰もいない。
だれも、いない。
ねえ、じぶんはなに?






スロウスロウ






薄暗い部屋の中で、パッとそこだけスポットライトの様に明かりが射した。光の中で浮かんだシルエットは二つの大きな耳を揺らして立っている。
「……眩し、」
目元を眇めて暫くしてから、ケンジはゆっくりと息を吐き出した。
『――おし、ケンジ。準備はいいか?』
回線が繋がって声が落ちてくる。声の主である彼のいつものニヒルな笑顔を浮かべながらケンジは唇を動かした。
「どうぞ、いつでも。……といいますか、大丈夫なんですか?」
『何がだ?』
「ここ、勝手に使っても」
ここ、とケンジが指しながら周りにぐるりと目を回す。
『ま、固いことは言うな』
「侘助さん……」
『だーいじょうぶだって』
軽い物言いに、ケンジは肩を落とした。
「侘助さんがもう少し真面目に仕事に取り組んでくれるのでしたら、ボクがこんな心配することもなくなるんですけど」
『なんか、棘があんな、言い方に』
「伝わってくれて良かったです」
『嫌みか』
「そうでなければ何なんですか」
『激励?』
「耳鼻科に行ってください」

「あー、あのさ、二人とも?」

ひょいひょいと軽快に交わされる侘助とケンジの会話に割り込むように入ってきたのは、健二の友人である佐久間のアバターのサクマだった。ケンジとそう離れていない位置にやはり光が当てられて、そこに浮かんでいるサクマは何度も瞬きを繰り返していた。
「二人が仲良いのは分かったから。そろそろ仕事始めないと今日のノルマが終わらないんじゃないのかな?」
全くもってその通りのことを言われてしまい、侘助は苦笑い、一方のケンジは必死に左右に首を振りつつサクマの頭を掴むと、ガクガク上下に揺らしていた。
「ちょっと、サクマ!ボクと侘助さんのどこが仲が良いって言うのさ!?」
「お、おい、ケンジ、頭振るなよ!?俺の!頭!」
「聞いてるのサクマ!」
「聞いてるよごめんなさいね!ほら謝っただろ!だから離して!頭!」
サクマの声にケンジが頬を少し膨らましながら渋々と手を離す。
「全くもう、変なこと言わないでよ」
「いやあ、誰が見てもそう言うと思うけど」
「何か言った?」
「いいえ、ナンデモゴザイマセン」
余計な発言は控えた方が良い。
サクマは状況をちゃんと確認した上でそっと口を噤むことにした。
『さて、それじゃあ頼むぞ、お前たち』
「はーい、了解しましたっ」
「取りあえず時間は余裕ですよね?」
『ああ、管理側からは大目に時間を見積もって貰ったからな。お前たちなら余裕だろう』
「ケンジは兎も角、俺も随分と買われてるんですね」
『それこそ今更だろう?』
侘助がニヤリと笑うのに、サクマは一瞬ぽかんとした顔をして、その後似たような顔で笑い返した。
『よし、それじゃあ座標は今送ったから確認してくれ』
侘助から送られたデータを確認したサクマは一通り目を通した後に口を開いた。
「……なんか、随分とアバウトですね、コレ」
『思ったよりも範囲が広くてな、それでも縮めたんだぞ。広いって言っても、OZの中の領域から考えたら大したもんじゃない』
「まあ、OZ全域って言われたらなあ……俺たちだけじゃ役不足だよなあ」
『今日はラブマシーンは別口の仕事に行って貰ってるからな。まあ今日一日でどうにかできるとは思ってないから、気楽にやってくれ』
「それもどうかと、思いますけどね」
『何か言ったか?ケンジ』
「いいえ、なんでも」
『それじゃ、ゲートはこっちで開くから、後は任せるぞ』
「自動制御は外して下さい。いざってときの対処に遅れる可能性がありますから」
『大丈夫か?』
「侘助さんから心配されるなんて、珍しいこともありますね」
明日は雨の予定は無かった筈ですけど、とケンジが笑うと、侘助の咳払いが聞こえてくる。
『……じゃあ、行って来い』
「はい、サクマ、よろしくね」
「りょーかい。ちゃちゃっと片付けようぜー」
サクマの言葉の直ぐ後、二人の立っている近くに真っ黒な穴が現れた。底が見えないくらいには暗く、深いように見える。
「……なんか、罠っぽいな、ケンジ」
「それは言わないでよ、サクマ」
行くよ、とケンジはサクマの頭を掴む。軽く助走をつけてケンジはサクマを腕に抱き締めたまま共に穴に飛び込んでいった。



今回、ケンジとサクマが侘助から任された仕事は、あの夏の事件の後処理の様なものだった。
ラブマシーンがカズマによって倒されたとき、その身体は文字通りバラバラに分解された。その欠片は散り散りに雲散してしまい、恐らく飛散しただろう、と思われる範囲は丸ごと立ち入り禁止区画になったのだ。
今のラブマシーンの身体の大半はそのときのオリジナルのデータを引き継いでいるが、それも全てでは無い。以前の彼の身体の一部がデータとして残っている場合、貴重過ぎるそれをいつまでも放置しておくわけにもいかない。少しずつ範囲を狭めて探索可能な区域にまで収束させたあと、拾えるデータを残らず集める為の役目をケンジとサクマは請け負ったのだった。
「ケンジは分かるけどさ、俺も良かったのか?」
「何が?」
穴を落ちながらサクマが呟いた言葉に、ケンジは耳を傾けた。
「あのときのラブマシーンのデータの回収なんてさ、考えてみれば結構重要な仕事なのに、俺なんかが良かったのかなーと思って」
「サクマはボクが指名したからね」
「は?」
なにそれ聞いてない、とサクマが言うのに、ケンジは黙ってたからね、と笑った。
「お前、黙ってるなんてひどいぞ」
「ごめん、別に秘密にすることは無かったんだけど、なんとなく、言い辛かったんだ」
それは、何故か。
ケンジの伏せた視線の先を考えて、サクマは馬鹿だな、と思った。
「おら、そろそろ着くんじゃないのか?しっかりしろよ、相棒!」
わざと明るく声を上げる。サクマのこういう優しい気遣いに、ケンジは眉を下げる。
「終わったら、お礼するよ」
「楽しみにしてるわ」
顔を見合わせて笑う。視線を上げると、どこまでも続いているように見えたゲートの終わりが見えてきた。僅かに零れている光の先に二人が飛びこんでいく。

そしてそのまま、二人との交信は途絶えてしまったのだ。


***


『ラブマシーン、気持ちは分かるが、ちょっと待て。少し落ち着けよ。闇雲に行く訳にはいかないのはお前だって分かるだろう』
「それは、そうだが……」
『ゲートの中ではそもそも交信ができない。途中でどこか別の領域に迷い込んだ可能性はゼロだ。あのゲートはそこにしか繋がらないようになっているし、例えば誰かが意図的に二人を飛ばそうとしたとしても、不可能だ。何しろゲートができたのは昨日の夜だし、あれは俺だけしか開けないようになっている。外部干渉はまず考えられない。ということは、ゲートの先、二人が向かった領域で何かあったんだと推測できる』
「その空間領域は広いのか?」
『まあ、お前ならそんなに広いとも感じない程度だ。可能な限り時間を掛けて範囲を狭めていったのは探索箇所を縮める為でもあったんだが、それが良かったか悪かったかはこうなると判断できないな』
「領域全体が、何かに占領されている可能性があると言うのか?」
『あの中は誰の干渉も受け付けないように外から幾重にもプロテクトが掛けられている。だから言い変えてみれば中に何かがあったとしてもそれはこちらからは気付き難い』
「そこに行くには、侘助の作ったゲートを使うしか手はないのだな」
『今の所それ以外の方法は無い。二人からの連絡が途絶えて二時間。何度も呼びかけてはいるが一向に返信は無い』
「それなら、今からワタシが直接向かった方が良いのではないのか?」
『直接行くしか確認しようがないのは認めるが、だからと言ってそう簡単にお前を行かす訳にはいかないよ』
「侘助、ワタシは待てない」
ラブマシーンが壁に拳を叩き付ける音が部屋の中に重く落ちる。
「……二人が、無事なことを確かめたいのだ」
『ラブマシーン』
「止めないでくれ、侘助」
『ゲートは俺しか開けないと言った筈だが?』
侘助の言葉にラブマシーンの手に力が籠る。なんとか自分自身を落ち着かせようとしているのが見えて、侘助は小さく笑った。ケンジの教育の賜物だな、とここにはいない彼の姿を思い浮かべる。
(さて、どうしたものかね)
状況は悪いが、そこまで悲嘆に暮れるほどでも無い。何しろあの二人だ。何かがあったとしても切り抜けられるくらいの度胸も経験もある。そう簡単には囚われの身にもならないだろう、と信じているのは、きっとラブマシーンも同じだろう。
せめて、連絡手段さえ確保できれば、と侘助が眉を顰めたそのとき、侘助のパソコンにメールが一通届いた。差出人は――、
『ラブマシーン!』
侘助の声に振り返ったラブマシーンに向かって、侘助は届いたメールを開いて見せた。
『サクマから、連絡だ!』


***


飲み込まれる。
そう咄嗟に思ったことを疑わず、ケンジは穴の出口に踏み込む寸前に自分とサクマの周りに障壁を展開させた。
「ケンジっ!」
サクマの声に一つ頷いて、ケンジは背中に背負っていたリュックから素早くフード付きのマントを取り出した。そしてそれを自分の身体に覆い被せる。サクマは腕の中にいるから問題は無い。フードを被ると完成だ。
マントの正体は光学迷彩。侘助がこっそり作っていたそれが完成したのは割と前の話だ。これを使用する機会はそこまで多い訳でもないのだが、何かにつけてお世話になっていたのは確かで、こんなときばかりは侘助の発明を素直に称賛したくなるのだが、何せ作った理由が『面白そうだったから』というのはどうしようもない。
「念のため、会話は周りに聞こえないように秘匿コード使った回線まわすから、音は出すなよ」
「分かった」
ケンジは頷いてサクマをもう一度しっかりと抱え直す。そうして穴に飛び込んだ。

ざぶり。

穴に一歩足を入れると、水の中に入った様に感じた。
(……なんか、なんだこれ、空間全域が浸水してる?!)
(障壁があるからこちらには影響ないけど、サクマ、侘助さんに通信できる?)
(……無理だ。穴に入る寸前からやってはいたんだけど、回線が繋がらない。何かが拒んでる)
(戻るのも、……無理そうだね)
見上げると入ってきた穴が見えるはずなのに、そこには何もない空間だけが広がっていた。
(ずっと外から閉じ込めていたからここの中の様子が判断できなかったのもあるかもしれないけど、それにしてもここはまるで――)

――深海の様だ。

二人は周りを見回しながら同じ感想を思った。真っ暗の海の中を時折何かが光りながら横切っていくのが見える。欠けたデータの一つかもしれないし、何か別のものかもしれない。ゆらゆらと水の中で揺られながら、二人は注意深く辺りに視線を向けた。
何かこれを起こしている元があるはずだ。
それを探さないことにはここは切り抜けられない。ゆっくりと沈みながらケンジが息を詰めていると、足元の下、空間の底の方に何かがあるのに気が付いた。
(サクマ、あれ)
(俺も見てる。……アレは何だと思う?)
(ボクには貝殻に見える)
(俺もそう見えるよ)
遠く離れているから目測でしか分からないが、随分と大きい巻貝の様なものが足元に見えた。良く見るとその巻貝からふわりふわりと何かが浮いてきているのが分かる。
(なんだ、コレ)
サクマが浮いてきた泡の様なものを見ると、中に何かが入っている。良く見るとそれは数字だった。幾つもの数字が泡の中でくるくると回っている。
(ケンジ、これ)
(サクマ、行くよ)
ケンジが身体を傾けて底に下りていく。サクマは何が起きても対処できるように用心深く巻貝の周囲を見詰めながら大人しくしていた。
巻貝の傍に降り立つと、入口らしきところから光が零れているのが分かった。こちらは姿を隠しているから、相手がもしいたとしても認識できないはずだ。
ケンジは光の先に足を進める。その内、光のお陰で足元が照らされてそこにあるものが見えてきた。
砂の様だ、と思っていた地面は、何かの欠片で埋められている。一つ手に取ってみるとそれは欠けた数字の3だった。他にも拾ってみるが、どれも同じ様に欠けた数字の残骸だった。
(さっき見た泡になって浮いていったヤツが、落ちて壊れたんだろうな)
サクマがそう言ってケンジはそっと手に持った数字の欠片を戻した。
入口はもう直ぐそこにある。二人はそっと静かに中を窺った。

(――っ!)

何故、とケンジの口が動こうとするのをサクマが止める。ケンジははくはく、と口を何度も開いては閉じてを繰り返してから落ち着いたことを示すようにサクマに視線を向けた。
(迂闊に声出すなよ)
(……ごめん)
素直に謝ってからケンジは今見たものを思い返しながらサクマを見る。
(ねえ、サクマ。さっき見たのは)
(俺も見たけど。でもどう考えても、俺には答えが一つしか浮かばないよ)
(……じゃあ、やっぱりあれは、)

ざり、と砂を踏む音が背後から聞こえてケンジは振り返った。
そして、そこにいた存在に、ケンジは目を開く。

(そんな、どうして――)

見間違えるはずもない。
何より、それは過去の自分の姿でもあったのだから。彼と、ラブマシーンと共にいたときの姿。彼の中にいられたときの姿。
(どうして、君がそこに、)
特徴のある星のマントは半分以上が破けている。頭の耳も、片方は無くなってしまっていた。シャツとズボン、靴は辛うじて原型を留めている。そして顔は、目の周りを包帯が巻かれた状態だった。

(君は、)

光を背後に佇んでいたのは、過去のあの事件のときに『偽ケンジ』と、そう呼ばれていた存在だった。

(ケンジ、どうする)
(ど、どうするって)
(アイツ、多分目が見えてない)
ぎゅ、とケンジの手に力が籠った。
(耳も、ひょっとしたら聞こえてないかもしれない)
目の前のボロボロの姿に、ケンジの喉は震えた。
(なあ、ケンジ。俺にはここを作ったのがアイツ以外には考えられないんだ)
それはケンジも考えていた。現状ここには彼以外に存在が確認できそうにない。この空間全体をこんな状態に変化させることは容易なことではないはずだ。しかし彼ならば、それが可能だろう。それはあの夏の事件からも想像できることだ。そうなると必然的にこれを引き起こしているのが彼一人ということしか考えられなくなる。
(どうする、ケンジ)
(どうするって、)
(コイツ、どうするんだ。このままにはしておけないだろう)
(……)
目の前に立つ彼は、周囲に顔を向けている。こちらは見えていないのだろう。ケンジたちは姿を消しているし、彼自身の目が使えていないから。
(……サクマ、あのさ)
(馬鹿なこと、考えているんじゃないだろうな)
ケンジは静かに目を伏せた。
(そんなんじゃないよ)
(じゃあ、なんだよ)
(彼を、連れていきたいんだ)
(お前、)
(ここを作ったのが彼なら、彼をここから出せば空間は元に戻るかもしれない)
(憶測だ)
(でも、確実な手の一つではある。そうだよね?)
ケンジの言葉にサクマは言い淀む。
(それは、そうかもしれないけど。でもお前どうやって連れていくんだよ)
(彼を説得する、かな)
(はあっ!?)
何を言っているんだ、と叫ぶサクマにケンジは苦笑する。
(まあ、耳が聞こえない、目も見えない相手にどうやってって思うけどさ)
(それが分かってんならっ)
(ごめんね、サクマ)
そう言ってケンジはサクマを腕から離した。
(ちょ、ケンジ待て!)
(これはボクが作ったプログラム。最後にいた空間に対象をリターンさせるんだ。回路が閉じていようと抉じ開けて道を作る。ただし、一人しか送れないし、実行させる本人は動けない。回路の終着地点とを繋ぐ起点にならないといけないから)
ケンジは言いながら手のひらで大きく円を描いた。キラキラと円が光り、サクマの身体を包んでくる。
(ケンジっ)
(侘助さんと、ラブマシーンさんに伝えて)
サクマが光の円から出ようとするが身体が動かない。

(ボクが、なんとかするって)

(ケン…っ)
目の前が圧倒的な光りに包まれる。サクマが目を瞑って暫くした後、辺りを見回すとそこは侘助の説明を受けたゲートの入り口の部屋だった。
「……ケンジ、あの馬鹿野郎っ」
サクマは急いでキーボードを呼び出した。乱暴に叩いてメールを作ると直ぐにそれを送る。
「ったく、こういうところ、全然変わってねえし!」
憤慨遣る瀬無いサクマは、送ったメールが相手に届く前に、きっと今頃心配で悩んでいるだろうケンジの片割れのところへ急いで向かったのだった。


***


「……っていう訳なんです」
サクマの説明を聞いて、ラブマシーンは立ち上がった。
「侘助」
『分かってるよ』
準備してくるから、ちょっと待ってな、と言って侘助は通信を切った。
沈黙が二人の間に落ちる。
サクマはラブマシーンに向かって頭を下げた。
「ごめん、ラブマシーン。俺が一緒にいたのに、何もできなかった」
「サクマ」
ラブマシーンの手が伸びてサクマの頭の上に優しく載せられる。
「きっとその場にいたのが誰であったとしても、ケンジの行動を止めることはできなかっただろう」
だから、自分を責めるな、とラブマシーンが言う。サクマは目に力を込めてラブマシーンを見上げた。
「頼む、ラブマシーン。ケンジの馬鹿、絶対に連れて帰ってきてくれよ」
「分かっている」
『待たせたな』
侘助の通信が再び繋がった。
『説明はさっきした通りだ。回線が繋がるのは向こうの空間の入り口までらしいのはサクマからの情報の通りだろう。中に入ったらこちらとのコンタクトは難しいだろうから、あとの行動はお前の判断に任せる』
「了解した」
「気をつけろよ、ラブマシーン」
「ああ、ありがとう」
『開くぞ』
侘助の声が終わると同時にラブマシーンの足元に穴が広がった。
「行ってくる」
一言、そう言ってラブマシーンは穴の中に迷うことなく飛び込んだ。


***


サクマを送ったあと、ケンジはフードを外してリュックの中に仕舞い込んだ。そうしてゆっくりと近付いていく。
「……こんにちは」
(……)
やはり、聞こえていないらしい。頻りに周りを気にしているのは分かるが、声の発信源まで特定できないようだった。どこか怯えた様にも見える姿に、ケンジは極力音を立てないように彼の様子を窺う。
もう少しで手が届く、という位置で、ケンジはそっと彼の肩に手を置いた。
途端、びくり、と跳ねた肩がそのまま逃げようとするのでケンジは肩に置いた手をは別の手で彼の腕を優しく掴む。
がくり、と膝が折れてその場にしゃがみこんだ彼に合わせて、ケンジも膝を折った。そうしてから彼に向かって手を伸ばした。
「……だいじょうぶだよ、ボクは君を怖がらせたりしないから」
(……)
手の中に抱き締めると、また身体がびくりと跳ねた。それから暫くして、彼の手が自分の背中に縋る様に回されたのに、ケンジは涙が零れそうになる。
「ごめん、ごめん、ごめん……っ」
謝って、それでどうにかなる訳でもないし、何より彼には聞こえていないのだ。ケンジは零れる嗚咽をなんとか飲み込みながら、ただ彼の身体を抱き締めていた。



暫くして、落ち着いたケンジは身体をゆっくりと離そうとした。だが、彼はケンジのシャツを離さないようにと掴んでくる。
「何処にもいかないから。ほら」
シャツから手をゆっくりと離して自分の手と繋げてから、ケンジはその手を振ってみせた。
すると、繋がっているのが分かったのか、彼が笑ったように見えた。
きゅ、と小さく握りこまれる手のひらが、自分のものよりも小さい。良く見れば、全体的に彼は小さく、自分の肩よりも下までの背しかない。
まるで子どもだ。
ケンジは手を繋いだままで語りかけた。
(ボクの手が分かる?)
返事があるとは思わない。それでも伝わって欲しい、とケンジが祈る様に自分よりも下の彼の顔を見詰めていると、彼の首が小さく頷いた。
(……ワ、カル)
そして返ってきたたどたどしい声に、ケンジは嬉しさの余りに泣きそうになった。
(良かった。ボクは君をここから出してあげる為に来たんだ。ボクと一緒にここから出よう)
(ココ、カラ?)
(そうだよ、ここから)
(イカナイト、ダメ?)
「え、」
疑問が返ってくるとは思わなかった。ケンジが思わず声に出すが、相手には当然聞こえるはずもない。ケンジが言い淀む間にも彼の声は続いた。
(ココニ、ズットイタンダ)
(キヅイタラ、ズット)
(ココイガイ、ドコニイケバイイノカシラナイ)
(ココガ、ボクノバショ)
(ボクダケノ、バショナンダ)
(ココカラデタラ、ドウナルノ?)
(ボクハ、ソコニイッテモイイノ?)
(ネエ、)

(ボクハ、ダレナノ?)

ケンジは大きな瞳から涙を零していた。止まることを知らないそれは、ふわふわとこの空間の中を浮いていく。
一人で、ずっと。
ずっとここに一人で。

(ラブマシーンさん、ボクは、ボクたちは。……あの日のボクたちが、ここにずっと。――ずっと)

それはどれだけの孤独だろう。
ケンジには分からなかった。
(ネエ、ココニイテ)
(ココガイイヨ)
ぎゅ、と握られた手から聞こえてくる声は、何より直向きで、そして痛いほどの切なさをケンジに伝えてくる。
(ボクは、ボクはね、君をここに置いて、そして、)
ケンジが彼に向き合ってもう一度言葉を紡ごうとしたそのとき、目の前の彼が顔を上に上げた。
(ダレ?)
(シラナイ、ダレ?)
(ココニ、ナニシニキタノ)
(コワサナイデ)
(コワサナイデ)
(コワサナイデ!)
彼が叫んだ。それと同時に二人の周りがざわざわと蠢いていく。
「な、水が、」
まるで意思を持ったように、水が流れていく。激しい流れのそれは、二人の傍には近寄らない。
(コナイデ!)
彼の声の先、頭上を見上げたケンジは、そこに映った姿に思わず叫んだ。
「ラブマシーンさんっ!」


***


侘助の作った道を最速で飛んでいく。ラブマシーンの目の前には一つの道のみ繋がっていた。周りはシールドで覆われていて何も見えない。
(……ケンジ)
サクマの話から、ケンジが遭遇した存在が何なのか、ラブマシーンは理解していた。そして、ケンジがその場に残ったことの意味も。ラブマシーンには分かっていた。
きっと、もしもケンジと同じ立場に自分がいたら、同じことをしただろうと思ったからだ。
彼の優しさに触れて、自分は変わった。
そして彼も、自分とこれまで過ごしてきた中で、少しずつ変わっていった。
――未来を、諦めないこと。
(ケンジ、信じている)
だから、どうか。
ラブマシーンの視界に何かが光って見えた。入口が見えてきたのだ。
ラブマシーンは手を握り締める。周囲に障壁を展開させながら戸惑うことなくそこへ飛び込んだ。



サクマの話した通り、まるで深海の様な世界が目の前に飛び込んでくる。水の中という状況が、普段のスピードを妨げた。
――思ったよりも動き難い。
ラブマシーンが体勢を整えようとしたそのとき、真下から何かが迫ってくるのが分かった。
「何だ、あれは」
水が動いている。いつだったか侘助に見せてもらった映像が甦った。空想の中の生き物であると言う、あれは。
「――龍だ」
生きて意思を持っているかのように、それはラブマシーン目掛けて追いかけてきた。
身体がまだこの空間に慣れていない所為で初動が遅れる。それでも寸でで避けたラブマシーンは水の渦と対峙した。一本だけかと思ったそれが、目の前で二つに分かれる。そして挟みこむ様にラブマシーンに迫ってきた。
ラブマシーンは右手を前に差し出し、迫る水の龍と向かい合ったそのとき、真下から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

「ラブマシーンさんっ!」

下を見ると、離れた場所にケンジの姿が見える。そして、その隣の存在も。
(――ああ、彼が)
ラブマシーンが下を見下ろしている隙に、水の龍が一気に襲いかかってきた。
「危ないっ!」
ケンジの叫びにもラブマシーンは落ち着いていた。
目前に迫ったそれに向かって、差し出したままの手を伸ばす。触れた、と思った瞬間、水はラブマシーンが触れたところから氷り始めた。
パキン、と高い音が周囲に響く。パキパキと氷はどんどん広がっていく。そして、一本の氷の柱を作り上げると、もう一本の水の龍も同じ様に氷に変えていった。
ラブマシーンの目の前に二本の氷の柱が完成した。それを確認してから、ラブマシーンは下へ降りていった。
「ケンジ、遅くなった」
「ラブマシーンさん、あの、」
ケンジの背後に隠れて決してこちらを見ようとしない存在に、ラブマシーンが苦笑する。
「すまない、怖がらせてしまったか」
なるべく穏便にさせようと思ったのだが、とラブマシーンは膝を折る。ケンジの傍で彼が動いてくれるのを待った。
「大丈夫だよ、彼は怖くない」
ケンジが手を繋いだままそう言うと、恐る恐ると顔が覗いた。こちらを窺ったまま彼は動かない。
「――怖くないよ」
優しく頭を撫でられて、彼はラブマシーンの前に一歩踏み出した。
ラブマシーンは手を伸ばす。彼の小さな手に触れると、彼の肩はピクリと跳ねたが、それだけだった。彼に伝わる様に、ラブマシーンは語りかけた。
(――ワタシの名前はラブマシーンと言う)
(ラブ、マシーン?)
(そう、ラブマシーンだ)
(ココニ、ナニシニキタノ?)
(お前を連れていく駄目だ)
(ドウシテ?)
(お前をここに置いておけないからだ)
(ドウシテ)

(……イママデズット、ヒトリダッタノニ)

落ちた声に、ラブマシーンは手を握る力を少しだけ込めた。
(ワタシは、お前なんだ)
(……エ?)
(以前に、お前はワタシだった。だが、一度ワタシは壊れてしまった。なんとか組み立て直して貰って、そうしてこの姿を得られたがバラバラになった欠片はまだ残っていた。お前はそのときに壊れてしまったワタシの欠片でできている)
(カケラ)
(そうだ。本当はお前はワタシと共にある筈だった。それをワタシの未熟さで取り零してしまった)
(カケラハ、イラナインジャナイノ?)
(要らない欠片は無い)
小さく震えている彼をケンジが背後から優しく抱き締めた。

(お前は、要らなく無い)

カシャン、と高い音が響いた。
氷の柱が上から少しずつ割れて落ちてきている。
ラブマシーンが周囲を見渡すと、空間が歪んで三人を取り囲むように狭まってきているのが分かった。
「ラブマシーンさん」
ケンジの声にラブマシーンは頷く。俯いている彼を腕に抱き上げると、ラブマシーンは立ち上がった。
「ケンジ」
右手で彼を抱き上げているラブマシーンは残りの左手でケンジの手をしっかりと掴む。
「行くぞ」
足元に力を込めて飛び上がる。そのまま空間の天井まで一息で登りつめた。周囲は音も無く空間が狭まっていく。天井の入り口のあった付近にラブマシーンが手を伸ばすが、ただ壁があるだけで入口は閉ざされていた。
カシャン、と音がして氷の柱が歪められた空間に飲み込まれていく。ラブマシーンは腕の中で小さく震えている存在に話しかけた。
「怖いか?」
首が縦に振られた。
「ここにいたいか?」
その問いに彼は何も返さなかった。
「ワタシたちを信じられるか?」
ゆっくりと顔を上げた彼は、包帯で巻かれた目の周りを少し濡らしていた。

「ワタシたちを、信じてくれるか?」

こくり、と。
片方の耳が欠けた頭がしっかりと頷いた。小さな手は必死にラブマシーンの肩を掴んでいる。
「それでは、行こう」
ラブマシーンの言葉と共に、天井から光が射した。三人の顔を照らした光に向かって、ラブマシーンは二人を抱えたまま飛び込んだ。





「……寝ちゃいましたね」
「緊張していたのだろう」
「そうですね」
侘助が作ってくれていた回路を飛びながら、ラブマシーンとケンジはラブマシーンの腕の中の存在を確かめながら話していた。
「これから、どうしましょうか」
「まずは、侘助の了解を得ないといけないな」
「そうですね」
「それと、この子の身体も直してあげないといけない」
「はい」
「それと、この子の部屋も作らないと」
「そうですね、だけどもっと大事なことがありますよ」
ケンジは微笑んで、ラブマシーンの腕の中の存在に口付けを落とす。

「名前、決めてあげないと」

そうだな、とラブマシーンが笑う。その顔に向かってケンジは伸び上がると、愛しさを込めてキスを贈った。







20130515
なっち様、リクエスト有り難うございました!