破邪顕正 「くっそ、何なんだよ、あいつらっ!」 人気の無い廊下を走りながら、黄瀬は悪態を吐いた。練習試合を終えたばかりとは言え、まだ体力には余裕はある。それにしたって今頃だったらもうとっくに帰路に着いているはずなのに、こんな現状になった自分を黄瀬は恨んだ。 (兎に角、ここを出たらそれで終わりだ……っ) この角を曲がれば確か出口だ。頭の中にこの体育館の構造を思い浮かべながらキュ、と小さい音を立てて踏み込んだ爪先が出口に向かって曲がり切ろうとしたそのとき、背後から怒号が聞こえてきた。 ハッとして振り返ると、巻いたと思った男たちが数人こちらに向かって何かを叫んでいる。小さく舌打ちをして一歩踏み出し角を曲がった。が、出口の前にいたのだ。背後から自分を追いかけているのと同じ他校の男子生徒が数人。当然と言えばそうだ。闇雲に追いかけてきているだけかと思えば、出口を塞げば追い詰められるという頭はあるらしい。この場においては全く嬉しくない相手方の機転に黄瀬は盛大に顔を顰める。来た道は戻れない。出口は塞がれている。そうなれば反対方向に向かうしかない。一度も来たことが無い場所だったことも災いした。この体育館は近代的な作りになっていて、外観を重視した結果、中は迷路の様な造りになっているのだ。それでも何度か来れば大体の構造は把握できただろうが、生憎今そんな余裕は黄瀬には無い。 逃げる。 それだけを考えて出口とは反対側に足先を向けた黄瀬は、先輩たちになんて言い訳をしたものか、と溜息を零した。 今日は他校との練習試合が組まれていた。場所は海常からも少し離れた位置にある総合体育館で今までにも何回かそこは使ったことがあったらしい。らしい、というのは先輩である早川から聞いたことで、黄瀬たち一年がそこを使用するのは初めてのことだ。 中々面白い造りだけど、一度中で迷うと見付けるのが大変だから、一年は俺たちからはぐれないようにね、と小堀が優しい顔で教えてくれたのだが(まるで小学生を引率する先生の様だった、とは立花談である)、試合が開始するまでは特に何の問題も無かったのである。 だが、今日の対戦校が最悪だった。ラフプレーは当たり前、コートの中だというのに罵倒、雑言、ベンチからは野次すら飛んでくる始末。始めの内こそ耐えていたのだが、様子見の為に1、2Qはベンチで控え、3Qを向かえてから登場した黄瀬に対して相手側は明らかに黄瀬に限定して中傷する言葉を吐き、聞くに堪えない侮辱の言葉を投げつけるに当たって、無難に終えようとしていた三年を始め二年、一年、監督含め、つまりその場にいた海常部員関係者全員がキレた。 黄瀬にしてみれば誹謗中傷はいつものことで、モデルをしていれば必ず付きまとうそれらに辟易しこそすれ、さらりと聞き流して試合に集中していたのだが、それが余計に相手側の神経を逆なでていたらしいがそれは知ったことじゃない。勝手に言って勝手に騒いでいるだけだから、俺は気にしない、とタイムアウト時に黄瀬は言ったのだが、お前は良くでも俺らが嫌なんだ、大体あいつらお前のことを良く知りもしないであんな罵詈雑言だぞ!?お前が頑張ってるのは俺らが一番知っているんだ、あの馬鹿野郎共にひと泡吹かせないと納まりつかん、等々。一度火が点いたら止まらない先輩や同輩たちに、目を丸くしつつも、やはり嬉しくてモデルの外向けでは無い、心からの笑顔を浮かべれば、それを見ていたらしい相手校の奴らが下世話な顔をした。 そしてタイムアウト後始まったゲームで、ボールを持った黄瀬に向かって投げつけられた相手の言葉は最悪のものだった。 『お綺麗な顔して、あいつらたらし込んだわけだ?腑抜けの集まりかよ』 『羨ましいねえ』 『一度お相手して貰いたいぜ』 余りの言葉に固まる笠松たちだったが、それよりも今度は黄瀬がキレた方が早かった。自分に向けての言葉ならどんなものでも耐えられるが、それが自分以外の仲間に向けられるとなると、我慢できるわけもない。それこそ自分を認め、そして背中を押してくれる皆を黄瀬は心底から大切に思っているのだ。 はっきり言ってバスケの実力は海常には及ばない。だからこんなことはする必要すらないのだが、やられたら万倍にしてやりかえせ、という中学時代の主将の言葉を思い出して黄瀬は壮絶な笑みを作った。 黄瀬の纏う空気が変わる。ゾッとするプレッシャーに相手校の選手が息を飲んだその瞬間、黄瀬の手から離れたボールは高々と舞い上がり遥かに離れたゴールに吸い込まれていった。 唖然としてそれを見ていた相手校の全員に黄瀬は人形の様に美しい顔で、汚物を見る様に見下した目で口を開いた。 『あんたら、後悔させてやるよ』 ――それからの試合は特筆すべくもなく。圧倒的なポテンシャルを黄瀬は如何なく発揮させて、試合が終わればダブルスコアで海常の大勝だった。 キレていたのは黄瀬以外全員も同じで、いとも容易く行われるえげつなくも華麗なチームプレイの数々に、相手の戦意は簡単に喪失されたのだった。 こうして一様にスッキリした顔で、それでも内面では未だ煮えくりかえる腸をなんとか治めつつ帰路についたのだが、体育館を出たところで黄瀬は鞄の中に入れていたはずのタオルが無いことに気がついた。普段なら別にいい、とそのままだったのだが、そのタオルは先日桃井と会ったときにお揃いで買ったものだった。今から引き返せば直ぐに追いつく、と黄瀬はその場で先輩に事情を話し、ついていく、と言ってくれたチームメイトに大丈夫だ、と笑いかけ一人で体育館に戻ったのだ。多分ロッカー室だろう、と当たりを付けて探しに行き、見つかったまでは良かった。 急いで戻ろう、とロッカー室を開けたところにいたのが、先の試合でこてんぱんに負かした相手校の面々だった。その場の微妙な空気に軽く会釈だけして去ろうとした黄瀬だったのだが、退路を断たれてしまい眉を顰める。 何か用か、と視線だけで言えば、ニヤニヤと薄気味悪い顔をした連中が黄瀬に手を伸ばしてきた。 『ちょっと付き合えよ』 断固として断る、と掴まれた手を取り戻そうとしたのだが、思いの外強い力でギリギリと手首を締め付けてくる。 『離してくれないっスか?』 言ったところで離してくれる気配は微塵も無い。嫌な顔で笑いながら男たちは黄瀬を取り囲もうとした。妙に手馴れた空気に黄瀬はげんなりした。街中でこういう手合いに出会ったときは問答無用で殴って蹴って逃げ出すのだが(中学時代に青峰と赤司とに教えられた護身術はかなり役に立った)、今日は練習試合で、海常の黄瀬としてここにいる。乱闘でも起こして騒ぎになり問題にでもなったら、WCの出場が危ぶまれる事態になることもあり得る。それが分かっているからこそ、下手に抵抗できない、と相手も高を括っているのだろう。相手校は出場枠にすら入っていないのだから当然だった。 己に分が悪いのは分かっているが、これでもそれなりに修羅場は潜り抜けているのだ。高校に入ってからはそこまで多くも無いが、中学時代にはそれこそ頻発して起きていたストーカーやら、痴漢やらの被害に黄瀬があったときは、キセキの全員総出で犯人を捕まえてボコボコにしてやったりもした(何故かいつも犯人は全員男であり、事実は赤司によって表沙汰にはされずに秘密裏に始末されていたのだが、その手際の良さには皆内心で震えていたものだ)。 小さく息を吐き出す。掴まれたままの手首を見て、黄瀬は自分の手首を捻り返すことで相手の手を引き離した。相手が僅かにたじろんだ隙をついて、黄瀬は僅かの隙間から最速のスピードで抜け出した。手を伸ばして追いかけてくる連中を撒こうと走り出したのだが、奴らも相当しつこく、あれから暫くずっと走り回っていたのだが皆とわかれてから何分経ったのか分からない。 荷物は持っていてやるよ、と加藤が言ってくれたので全て預けてしまったから手元にあるのは当初の目的であった探しにきたタオルだけだ。スマートフォンぐらいは持ってきても良かったな、と黄瀬は己の迂闊に溜息を吐く。赤司にも自分たちと離れるときは連絡手段だけは手離すな、と良く言われていたな、と思い出す。――赤司本人にこのことがバレたときには一体どんなことになるのか考えたくない。 思わず青褪め、浮かんだ考えを首を振って振り飛ばした黄瀬は、顔を上げて足を止めた。 行き止まりだ。 やばい、と振り返るといつの間にかそこには相手校の連中が距離を詰めてきていた。首を左右に動かせば用具室と書かれた部屋の扉が左側に目に入ったが、ここに入ったところでどうにもならない。反対側は壁で、前には自分を追いかけてきた男たち数名。逃げないと、と思案している間に、男たちはどんどんと近付いてきた。ハッとしたときには両側から手を掴まれていて、身体を強引に引き寄せられる。引き離そうにも手を掴まれている所為で上手く動けない。 その隙に身体を抱え上げられて、部屋の中に押し込まれた。どさり、と身体が落ちたのはマットの上だ。さっきみた用具室の中だ、と分かっても、状況は芳しくない。自分を取り囲み見上げている黄瀬を上から見下ろしてくる男たちの顔は一様ににやけていて胸糞悪い、と眉間に皺が寄る。 全く怯えていない黄瀬の態度が気に障ったのか、男の一人が黄瀬を押さえたまま身体の上に乗り上げてきた。首筋に掛かる相手の呼吸が気持ち悪い。 「いい格好だな。これから俺たちをお前の高校の連中と同じように気持ち良くさせてくれよ」 まだ言うか、と黄瀬は絶対零度の視線を向けた。もう口を開くのも嫌だ。できれば耳も塞ぎたい。しかしそれでは相手のいい様にされてしまうからそうも言っていられないのだが、黄瀬は自分の状況に対してさして危機感を持っていなかった。 「随分余裕だなあ?」 男の一人だ黄瀬の着ているジャージのファスナーを引き下ろす。下に着ているTシャツを捲り上げて、現れた白い肌に何人かが口笛を吹いた。 「精々よがって、楽しませてくれよ?」 舌舐めずりをしながらそう笑う男たちに、黄瀬は大きな溜息を吐いた。 「おめでたいっスね」 あくまで冷静な黄瀬の声に、男たちは一瞬止まり、そして笑いだした。 「ハハ、何言ってんだ?お前この状況で逃げられるとでも思ってんの?」 「残念だけどそれは無理だな、ここは奥まった場所で簡単には見付からない」 「叫んでも無駄だからな」 黄瀬を取り囲みながら口々にそう言って笑う男たちに、黄瀬はやれやれ、と肩を竦めた。 「まあ、逃げる必要はないし」 「は?」 「何言ってんだ、お前」 「頭イカレタか?」 「失礼っスね。イカレテないし、俺は正常だし?異常なのはアンタらだし。まあ、こうなると予想してなかった俺にも落ち度はあったけど、捕まっちゃったのも不可抗力ってやつだし、ボーリョクはやっぱり駄目だと思ったし?全面的に俺悪くないと思うんスよね、――ねえ、先輩?」 ペラペラと口を動かす黄瀬に、呆気にとられている男たちの背後で何か音がした。と思った次の瞬間、横開きの扉が室内に吹っ飛んできた。 念のため扉に鍵はかけてあった。こんなところ見付かる訳ない、と男たちは考えていたのだ。 扉の近くに立っていた男二人は吹っ飛んだ扉に潰されて呻いている。振り返った先、扉の前にいたのはさっきまでコートの中で対戦していた相手、――海常高校バスケットボール部の面々だった。 「それでも捕まるお前がマヌケだ、このスカタン!」 「笠松先輩、酷いっス!」 「うわあ、お約束だなー、黄瀬」 「でしょー、森山先輩」 「褒めてないからな?黄瀬?」 「はーい、小堀先輩。……目が笑ってないっスね」 「黄瀬っ助けにきたぞ!」 「大丈夫か?」 「早川センパイ!中村センパイ!」 「涼太っまだ何もされてないよな!?」 「されてないっス!キチロー、荷物ごめんねえ」 「されてないってもなあ、その格好ではあんまり信憑性ないな」 「へーた、怖いから、その顔怖いから」 そうやって次々と掛けられる声に、押し倒された状態に関わらず視線だけは海常の皆に向けたまま笑顔で受け答えする黄瀬は、自分を掴んでいる手が緩んでいることに気付いてよいしょ、と手を引き抜くと、捲り上げられているTシャツをさっさと直してその場を立ち上がる。固まったまま動かない相手校の連中はさっきから一言も漏らさない。それもその筈、海常の全員からかけられる圧力は試合のそれとは段違いのものだったからだ。 扉を蹴破った一人小堀が戻ってきた黄瀬の頭を撫でる。優しく何度も撫でたあと、笠松の方へ黄瀬を渡した。 笠松は黄瀬を見上げ、何も言わずに黄瀬の手を握った。少しだけ震えていたそれに気付かないふりをして、笠松は加藤と立花を呼ぶ。 「先に出てろ」 「はい」 「行くぞ、涼太」 「うん、……先輩、」 こちらを振り返った黄瀬に、笠松たちはただ頷いて見せた。 くしゃり、と笑った黄瀬は、加藤と立花に連れられてその場を離れていく。 「――さて、と」 手を組んでポキリ、と鳴らす。 相変わらず固まったまま動かない男たちに、笠松を始め海常の面々は壮絶な顔を向けた。 「お前ら、覚悟はできてんな?」 ひ、と誰かが息を飲んだ。 「ま、待てよ、未遂だ!俺たちはまだ何もしてない!」 「知るか」 吐き捨てる様に森山が言う。 「そ、それにお前たちWCがあるだろうが!公式戦の前に問題起こしたら、出場だって、」 「それが、どうかしたか?」 普段は温厚な小堀が、こんな顔もできるのか、とその場に黄瀬達がいたら震えあがっただろう。 「間抜けなのはお前らだ」 笠松は淡々と口を動かす。 「お前らは帰り際にうっかり全員で階段を踏み外して怪我しただけだ」 俺たちはそこを偶々発見して救急車呼んでやっただけだよな? なあ?と笠松が振り返ってそう言うと、海常一同同じ様に頷く。 「――と、いう訳だ。まあ、あれだな。手を出す奴を間違えたのが、お前らの運の尽きってヤツで」 俺らの大事なエースを可愛がってくれた落し前、キッチリつけさせてもらうぜ? 奥まった場所で、誰にも気付かれにくい。 そのことを自分たち自身で身を持って体験する羽目になるとは、相手校の男たちは考えたことも無かったのだった。 「バカ野郎」 「うん」 「だから言ったろ、ついてくって」 「うん」 「心配したんだぞ」 「うん」 「皆、必死になってお前探して」 「うん」 「加藤は途中で泣きそうになってたな」 「泣いてねえよ!?」 「うん」 「泣いてないからな、涼太!」 「うん」 「先輩たちの顔凄かったな」 「うん」 「本当、良かったよ、お前が見付かって」 「……うん」 「「涼太」」 揃って名前を呼ばれて、立ち止った黄瀬はそろそろと顔を上げる。両手はそれぞれ加藤と立花がしっかりと握ってくれていた。その手をしっかりと握り直して、黄瀬は自分に向き直っている二人に飛び込んだ。 「……もう、こういうの、無しな」 「うん」 「心臓、いくつあっても持たねえよ」 「うん」 「お前が無事で本当に良かった」 「……うんっ」 心からの声に、黄瀬はただ頷いた。 「あー、先輩たち帰ってきたぞ」 「本当だ」 ぞろぞろと入口から出てきた笠松たちを見付けて、加藤と立花は手を振った。皆涼しい顔をしているが、所々ジャージがよれていて顔を顰めながら口を拭っているものもいる。それでもその顔に浮かんでいるのはどこかすっきりとした晴れ晴れとした表情だったので加藤も立花も苦笑しかできない。できることなら自分たちも参加したかったのだが、適材適所だ、という笠松の言葉をきっちりと守っていたのだ。 そんな二人には気付かない黄瀬は自分も手を振ろうとしたのだが、相変わらず両手は加藤と立花が握ったままだ。さっきから変わらない力に、黄瀬の涙腺は緩くなる。 だが、泣かない。こんなことでは泣かない。優しい、あたたかい手を握ったまま、黄瀬は両手を上に上げた。 「センパーイ!」 ありったけの笑顔を皆に、大切で愛おしい仲間たちに向けて。 笑う黄瀬に皆も笑う。 ――ああ、俺はここにきて本当によかった。 ひとつだけ零れた涙は、誰にも気付かれないまま静かに流れていった。 20130306 リノ様、リクエスト有り難うございました! |