交差する時点から放つ放物線を指し示せ【中編】





「誰からだ?」
校門で待っていた青峰に追いついて、二人並んで歩き出して直ぐ、ポケットに入れたままの黄瀬のスマートフォンが震えた。届いたメールを開いて、そこに表示された名前と本文を見てから、黄瀬は思わず笑みを浮かべていると、青峰が怪訝な顔をした。
「誰だと思うっスか?」
「分かんねぇから聞いてんじゃねえか」
直ぐ隣を歩いている青峰が黄瀬の手元を覗き込むようにしてそう言うので、黄瀬はスマートフォンを青峰の顔に向けてやる。
「……ふーん、上等じゃねえか」
画面を見て、不敵な表情を顔に乗せて青峰が笑えば、黄瀬は小さく溜息を吐いた。
「青峰っち、今度笠松先輩たちにちゃんと謝ってよね」
「あん?何で」
「何でも!」
「いいぜ、俺に勝てたらな」
ふてぶてしく言う青峰に、黄瀬は苦笑しかできない。
「相変わらず、おーぼーなんスから」
「うるせえ」
青峰の手が黄瀬に伸びた。乱暴に見えて、其の実優しい力で黄瀬の頭を何度か撫でた青峰は、行くぞ、とだけ呟いて歩き出した。
「そう言えば、どこに行くんスか?」
呼ばれた本来の意味について、聞いていなかったことを思い出してそう尋ねれば、青峰は何かを考えるように上を向いたかと思うと、そのまま口を開く。
「あー?考えてねぇ」
「ええ?!」
「まあ、適当に行くぞ」
「ちょ、適当って!」
「この近くにマジバあったろ。そこでいいや」
「いや、そこでいいって……」
本当に何しに来たんだ、この人。と言いたい所を寸でで飲み込んで、黄瀬は肩を落とす。
「……桃っちが嘆くわけっスねぇ」
こういうところは本当に変わってない。寧ろ傲慢さには益々磨きが掛かっている気がする。
黄瀬は桃井とは高校に上がってからも頻繁にメールや電話でのやり取りをしている。その際に聞かされるのは大抵が青峰の近況報告なのだが、そうして桃井から聞かされる青峰のエピソードには毎回苦笑しか浮かばない。こうして実際に当人を目の当たりにすると、いつも変わらずに青峰の傍にいる桃井の懐の深さには本当に頭が下がる。
お互いの手綱をしっかりと握りながらもそれに振りまわされ、しかし当人の知らぬ間に互いに互いを振りまわしている。そんな二人の姿は見ていてじれったいとも思うが、それ以上にとても微笑ましい。
「おい黄瀬ぇ、何ブツブツ言ってんだ?」
少し遅れた黄瀬を、青峰は立ち止まり振り返って待っていてくれる。……こういうところも変わってない。それがくすぐったくて、思わず笑ってしまう。
青峰の(非常に分かり辛いけれど)優しいところをちゃんと桃井も分かっているから、青峰の傍を選んだのだろうな、と。
頭の中に浮かんだ大事な友人の笑顔を思い出しつつ、黄瀬は青峰を呼んだ。
「ねー、青峰っち」
「何だよ」
「この前ね、仲良くして貰ってるスタイリストさんにさ、美味しいジェラート屋さん教えて貰ったんスよ」
「何だ?そのジェ、……なんとかって」
「ジェラート。うーん、まあ簡単に言えばイタリアのアイスっスかね?色んな味があるんスよ」
「ふーん。で?」
「そのお店がね、すごく美味しいってんで女の子にも結構人気なんだって」
「それで?」
「でね、今度桃っちを誘おうって思ってたんスけど、青峰っちから誘ってくれないっスか?」
「は?何で俺が」
「いーじゃないっスか。同じ高校なんだし」
「お前が直接さつきに連絡すればいいじゃねえか」
「うん、まあ誘いたいのは桃っちだけじゃなくって」
「あ?」
「桜井君も、一緒に誘って欲しいんス」
「なんで良まで」
黄瀬の口から出た名前に青峰が驚いた様に目を開くのを分かりやすいなあ、と内心で笑う。
「この前、モデルの仕事が終わった後、偶然桃っちと桜井君に会ったんスよ。部活の買い出しに出掛けた桃っちの荷物持ちにって、桜井君が一緒についてあげてたんス。で、まあちょっと時間もあるし、折角だからお茶でもーってんで三人で色々話したら、結構な勢いで盛り上がっちゃって、また会おうねーって別れたんスけど、それから二人をどう誘おうか考えてたんス」
「……おい、それって俺も参加することになるんじゃねえだろうな」
「さっすが青峰っち!その通りっス!」
「断る」
「えー何でっスかー?いいじゃないっスかー。青峰っち普段から二人に何かと、それはもう色々とご迷惑かけてお世話になってるんでしょー?」
ちゃーんと聞いたんスよ?とニヤリと笑えば、途端に苦虫を噛み潰したような顔をする青峰に、ニコリととびっきりの笑顔を向けてやる。
「日頃の感謝の意味を込めて、二人にお礼するって気持ちでさ。ほら、青峰っちに誘ってもらえたら、俺から誘うよりも二人もすっごく喜んでくれると思うし」
「それはねえ」
「あるっスよ」
そっぽ向きながら憮然とした声を出す青峰に、黄瀬は分かってないなあ、と苦笑する。
「絶対っスよ。喜んでくれるから」

ね、青峰っち。

そう言えば、青峰はもの凄く大きな溜息を吐き出した。
「……いつだ」
口元を手で覆って、黄瀬は笑みの形に歪んだ口を青峰に見えない様にこっそりと隠す。
……本当に、優しい。
「二人の都合、聞いて欲しいっス。それで俺が予定考えるから」
「分かったよ」
後ろ頭を掻きながら青峰は前を向いた。
「青峰っちの予定もっスよ?」
「わーかってるよ」
「青峰っち」
「今度は何だよ」
「ありがと」
「……さっさと行くぞ」
それだけ言って、青峰は歩き出した。
その先を行く背中をしばし見つめて、黄瀬は小さく息を飲み込む。
「――、」
いつかの、背中が甦った。

(――ああ、変わらない)

自分たちが自分自身に正面から向き合おうとして、不安定な心と、寄る辺ない思いに息が詰まりそうだったあの日。
黄瀬はあの日の背中を思い出していた。


***


ホームルームの終了のチャイムが鳴る。日直の挨拶の後、教師が退室してからの教室はそれまでの静寂をガラリと入れ替えて喧騒を取り戻していた。
黄瀬は自分の鞄の中に教科書をしまい、忘れ物が無いか確認して席を立つと、その瞬間を見計らったかの様に声を掛けられた。
「黄瀬、行くぞ」
教室の入り口近くで、そう言って自分を呼ぶ緑間に黄瀬は軽く返事を返して鞄を肩に掛ける。
「それじゃ、また明日ね、紫原っち」
自分の机の前の席にいる紫原に笑って言うと、紫原の大きな手が伸びた。
「ねえ、黄瀬ちん」
「へ?なんスか?」
紫原の手が掴んだのは黄瀬の二の腕だった。そこまで力を込めていないのだろう。緩い拘束に彼らしくないな、と黄瀬が考えている間に、紫原は口を開いた。
「今日も練習?」
「そうっスよ」
「昨日もだよね」
「うん」
「一昨日も」
「うん」
「その前は仕事だった」
「うん」
「明日は?」
「明日も練習するっスよ」
「ずっとだね」
「そうっスね」
「俺たち、もう引退したのに」
全中三連覇をして直ぐ、三年生は高校受験に向けて部活を引退した。それでも黄瀬は放課後の時間、モデルの仕事が無いときは体育館に向かう。黄瀬達と同じ三年生の中にはスポーツ特待生として高校に進学する者もいる。そういった者が高校に行くまでの間に身体を鈍らせてしまわない様に、と毎年この時期は第三体育館を引退後の三年生用に開放しているのだ。
赤司の計らいに感謝して、ほぼ毎日の様に使用している黄瀬と、普段のトレーニングの為に同じく使用している緑間は、放課後になると連れたって体育館に向かうのが最近の恒例になっている。
赤司も頻繁に訪れる。だが、紫原はあまり来ない。お前の自由に任せる、と赤司が紫原に笑っていたのを思い出して、黄瀬はさっきから紫原に掴まれている腕を見つめた。
紫原の視線は動かない。椅子に座っている為にいつもとは逆に黄瀬の顔を見上げているその顔は、純粋な疑問と、何かそれとは別の感情に彩られているように見えた。
「何で?」
どうして空は青いの?とでも聞かれているような、そんな純粋な子どもの疑問を出されている様で、黄瀬は紫原の手をゆっくりと離し、その手を掴み直すと自分の手と繋いでみせた。
「それは、俺が忘れないために、っス」
笑顔を向けて紫原の額に自分の額を当てた。触れたところから相手の温度がゆっくりと伝わってくる。
「……意味、分かんねーし」
「うん、俺もよく分かんない」
「なにそれ」
「何だろうなって、思うっスよ」
「黄瀬ちん、ばか?」
「ひどいっス」
クスクスと笑いながら視線を向けると、紫原の真っ直ぐな目が黄瀬を見つめていた。
「いつまでそうしている気だ」
と、そこで背後から突然声が響いて、黄瀬の身体は紫原から離された。
「ご、ごめんなさいっス、緑間っち」
「みどちん、乱暴」
非難するような紫原の声に、緑間は小さく息を吐き出すと、眼鏡をくい、と持ち上げた。
「お前にだけは言われたくない」
それだけ言うと、緑間は黄瀬を連れて歩き出した。振り返りつつ、こちらを見ている紫原に軽く謝る仕草をして、黄瀬は緑間に引っ張られる体勢から隣に並ぶように足先を早めた。
「……待たせて、ごめんっス」
「別に待ってなどいない」
「うん、ありがとっス」
「ふん」
気難しそうに見える口元が少しだけ緩んでいる様に見える。それを指摘することはしないで、黄瀬はただ緑間の横に並んだ。
「今日は赤司は出ないそうだ」
「あ、それ桃っちから聞いたっス。桃っちと赤司っちの二人で別の学校の偵察に行くって言ってた」
「あの二人は自分の目で見て判断する方が確実だと思っている節があるからな」
「俺、二人のそういうとこ、すごいソンケーするっス」
「お前だって似たようなものだろう」
緑間の言葉に、黄瀬はうん、と頷く。
「だけど、俺のとはちょっと違うと思う」
外の天気は曇り空だ。雨が降る予報は出ていないので、帰りまでは大丈夫だろう。それでもはっきりしない空は見ていて何となく気が滅入る気がする。
黄瀬は小さく息を吐くと、気を取り直す様に顔を上げた。





二人しかいない体育館に響くボールの音が妙に響いて聞こえる。今日は黄瀬と緑間以外の三年生は来ないようだ。それもそうだ。そろそろ試験も近いのだ。特待生が決まっているとは言え、成績は落とせない。
黄瀬もここ最近は放課後の練習の後、緑間と二人で勉強している。自分の苦手な部類を分かりやすく教えてくれる緑間の存在は黄瀬にとって非常に有り難かった。モデルも相変わらず続けている。部活を引退した所為で、放課後も多いが日中に仕事を入れられることも最近は増えてきた。それでも成績を落とす訳にはいかない黄瀬は、文句も言わずに自分に付き合ってくれる緑間に感謝してもしたりない。
一度それについて礼を言ったことがあるのだが、緑間は「俺は自分の得にならんことは一切しない」と相変わらずのツンデレを披露してくれて、以来黄瀬が緑間に対して感謝の言葉を伝えることを直接はしていない。その代わり、自分にできる彼の為になることなら、何でもやるのだと決めている。
「は、ぁ」
汗をTシャツの裾で拭って、黄瀬はボールを掴んだ。ゴールに視線を向けて、目を閉じる。目の前にいるのはゴールだけじゃない。いつも自分の相手をしてくれていた、彼の姿を思い出す。
腰を落として、こちらを見やる挑発的な視線。
じり、と焦げ付くように感じるプレッシャー。
外されることが無い、先読みの一手。
鋭いドリブルの音が耳に響く。
ピタリと止まった一瞬、黄瀬は前に駆け出した。左手から右手に持ちかえる。股の間をすり抜けて、ボールの軌道を自在に操る。指先の微妙な力、視線のフェイク、刹那の隙間。
飛び出した、と思ったその瞬間、黄瀬の手からボールは零れていた。
「……っ」
抜けない。何度イメージしても、何度シュミレーションしても、自分ではここで彼を抜けるビジョンが浮かばない。落ちたボールを拾いに行こうとして顔を上げると、黄瀬が零したボールを手にした緑間がそこに立っていた。
「緑間っち」
さっきまで彼はいつもの様にシュート練習をしていたはずだ。いつの間に傍に来たのだろう、と黄瀬が目を瞬かせていると、緑間が黄瀬にボールを渡してくれた。
礼を言おうとして、でもそれよりも先に緑間が黄瀬を呼んだ。
「黄瀬」
「何スか?」
「お前は、まだ諦めないのか」
それが何に対してのことなのか、黄瀬は分かっていた。だけど、こればかりは譲れなかった。
「俺、ワガママなんスよ」
そう言ってニヤリと笑顔を作れば、緑間は小さく息を吐き出す。
「知っているのだよ」
それだけ言って、緑間はまたシュート練習に戻っていく。その背中を見ながら、黄瀬は目を閉じた。
まだ発展途上の伸びやかな背中。
目の奥に甦る背中は、彼だけだった。







頬を撫でていく風が少し冷たく感じるようになってきた。短い秋が終わればあっという間に冬がやってくる。それまでのつかの間、学校の屋上の給水塔の影になっているフェンスとコンクリートの壁の間が青峰の特等席だった。
その日も、いつもの様に退屈な授業をさぼって青峰は一人、そこで寝転がって目を瞑っていた。

「お前は、またここにいるのか」

珍しい声を聞いた、と思った。
青峰が眉を顰めながら見上げると、太陽を背にこちらを見下ろしている影があった。
「……なんだよ、お前がここに来るなんて、珍しいな」
そう言ってそのまま開けた目をまた閉じようとすると、腹部に非常に重い衝撃がやってきて、青峰は思わず呻く。
「……っ!てめえ、何載せてやがんだっ!」
「本日のおは朝のラッキーアイテム、『世界珍獣百科事典』なのだよ」
無駄に分厚いハードカバーのその本は、事典と言うだけあって中々の重量があった。それを油断していた腹部に急に載せられたのだから、青峰は不機嫌さを隠さずに起き上がった。
「ったく、人が折角良い気持ちで寝てたっつーのに、邪魔すんなよ」
威嚇するように睨んでも、緑間は飄々として青峰の視線をかわしてしまう。
正に暖簾に腕押し状態の今、青峰の機嫌はすこぶる悪い。久しぶりの晴天の中で、面倒な授業を抜け出してこの特等席で堂々と昼寝をしていたというのに。
要件は何だ、と視線で促せば、緑間は百科事典を軽々と持ち上げると脇に抱えた。
「別に、お前に用など無い」
「お前な、じゃあなんで俺を起こした」
「腹が立ったのでな」
「俺はお前のストレス解消のサンドバックか、何かか」
「お前の様な口煩いサンドバックなど、こちらから願い下げなのだよ」
一々癇に障る言い方で返してくる緑間に、青峰は青筋を額に何個も浮かばせながら深々と溜息を吐き出した。
「じゃあもういいよな。俺は寝る」
そう言って定位置に寝転び、緑間に背を向けた青峰だったが、直ぐに殺気を感じてその場から飛び退いた。すると、さっきまで自分が寝ていた位置にまた百科事典が叩きつけられる。
「てめぇ……緑間!何だってんだよ!?」
叩きつけてきた張本人である緑間に向かって青峰が叫べば、緑間は眉間に皺を寄せて青峰を凄味のある視線で睨みつけていた。
「お前は、馬鹿だと、俺は常々思っていたが」
そしていっそう冷ややかな眼差しで青峰を見やる。
「ここまでの大馬鹿だとは、思っていなかったのだよ」
驚く程冷たい声だった。
青峰はその場に立ちあがって緑間と向かい合う。その距離一メートル。穏やかな日差しが二人の身体に注がれて、足元の影が給水塔の影にのまれている。
じゃり、と上履きの下で踏みしめた音がした。青峰が瞬時に緑間の襟ぐりを掴もうと手を伸ばすが、緑間はそれを避け、逆に青峰のシャツを乱暴に掴んだ。
まさか避けられるとは思っていなかった青峰が緑間に驚いた視線を向けると、緑間は掴んだシャツを呆気なく離す。
「どうして、という顔だが、今の腑抜けたお前に俺を捕まえられる訳がないだろう」
テーピングで巻かれた緑間の手がひらりと振られた。

「青峰、お前はこのままでいいのか」

端的過ぎる科白に、青峰は言葉が返せない。大体何に対してのことなのか、緑間は明言していないのだ。どうとでも捉えられる、そんな言葉を投げて、それで満足したのか緑間は踵を返して去って行こうとした。
「……待てよ」
呼びかけに、緑間の足が止まる。こちらを振り返ることはしないまま、ただその場に止まった緑間の胸中など、青峰には知る由もない。
それでも自分の知っている緑間という男は、自分の益にならないことは自ら進んでやる様な人間では無かった。
だが、そんな彼の唯一の例外と言ってもいい人間を青峰は知っている。
脳裏に浮かぶのは向日葵の黄色。鮮やかな笑顔。
「……なあ、」

その先の言葉は、分かり切ったことだった。







「そろそろ上がるぞ」
緑間の声に軽く返事を返してから、黄瀬は空になった籠に向かって次々とボールを投げ入れていく。緑間程の長距離はまだ無理だが、これくらいの距離なら外さずに入れられる。的が大きい、というのはこの際黙っておく。
「緑間っち、そっちのボールくださいっス」
「横着するな」
「えー、いいじゃないっスかー」
「黄瀬」
「ちぇー、はーい」
ゴールをしまっている緑間に黄瀬は素直に返事を返して転がっているボールを拾いに走った。引退した自分たちの為にと桃井が特別に作ってくれたトレーニングメニューは、これから成長していく身体に負担を掛けないように細かく調整されている為、ここ最近は練習が終わった後でもそこまで疲れるようなことはない。身体を動かし足り無い、と思わなくもないが、無理は禁物である、という桃井の言葉に背く訳にはいかない。軽い足取りでボールを片付けていく黄瀬に、緑間はモップに手を掛けながら声をかけた。
「お前、今日はどうする」
「んー、昨日は緑間っちの家にお邪魔したから、今日は俺ん家だと思って母さんにももうそう話してるっスけど。あ、緑間っちは大丈夫だった?」
「ああ、いつもすまない」
「それ、俺がいつも思ってることっスからね?母さん緑間っちのこと気に入ってるから寧ろ喜んでるくらいだし。試験対策に付き合ってもらってるんだから、これくらいさせてよ」
「おばさんの料理はいつも美味しいから感謝している」
「それは母さんに直接言ってほしいっス。多分次にはすんげーご馳走作ってくれるから」
母を褒められたことが嬉しくて、黄瀬は柔らかく笑った。ボールを用具室に片付け終わると、黄瀬もモップを手に掴んだ。体育館の端から始めている緑間に追いつくため、黄瀬も反対の端から急いでモップをかける。バッシュが床を擦る音がキュ、と体育館に響く。今日も二人だけだった。やはり音が響くなあ、と黄瀬は考えながらモップを握る手に力を込める。前は、こんな音を気にすることも無かったのに。

「黄瀬」

緑間の声に顔を上げると、いつの間にか目の前にモップを持った緑間が立っていた。
「……あれ、早いっスね、緑間っち」
「お前がぼーっとしていたからな」
「ごめん」
即座に謝った黄瀬に、緑間は手を伸ばす。くしゃくしゃと頭を撫でられて黄瀬は目を細めた。
「帰るぞ」
モップを持って歩き出す背中を追いかけて、黄瀬は今夜のデザートは緑間の分を奮発して貰おう、と考えていた。



「忘れ物は無いな」
「大丈夫っス!」
ちゃんと戸締りを確認してから、二人で鍵を職員室に返しにいく。これも最近の恒例だった。
季節はもう直ぐ冬を迎えるため、日が沈んで辺りはもう薄暗い。校舎の中ではいくつか残っている部活があるようで、教室に明かりが見えた。残って勉強している生徒もいるのだろう。黄瀬は暗い校舎の中でぼんやりと浮かぶ明かりに目を向け、直ぐに首を横に振った。
ノックして職員室を開けると、残っていたのは緑間のクラスで副担当をしている教師だった。
「鍵を返しにきました。有り難うございました」
「ああ、お前らか。他のバスケ部員はまだやってんのか?」
「今日は自分たちが最後です」
壁に掛かっている体育館の鍵を確認した教員は、一つ頷いた。
「よし、お前らも早く帰れよ」
「はーいっス!」
元気な返事を返した黄瀬に気をつけろよ、と声をかけた教員に最後に頭を揃って下げて職員室を出る。廊下を戻りながら、下駄箱に向かい、靴を履き替えると校門に向かった。
「お前はスリーにいくとき、身体の重心が右寄りにかかる癖がある。それを直せばもっと精度が上がる。あとはここだ、という決定的なチャンスの際にダンクに持ち込む頻度が高過ぎる。それを押さえろ」
「それはそうなんスけど、なんかどうしても身体が勝手に動くっていうか」
「だからそれを直せ」
「それはその通りなんスけど……」
「攻撃パターンが単調だと、相手に簡単に隙を突かれるのだよ」
「むー、もっと練習しないとだなぁ」
二人で並んで歩きながら、練習中に気付いた点について指摘しながら会話をしていると、校門の近くに近付いたとき、誰かがそこにいることに黄瀬は気付いた。
こんな時間に誰を待っているんだろう?と思いつつ、シルエットだけのその人物に段々と近付いていくにつれて、黄瀬は目をまんまるに開いた。
「……あ、青峰っち?」
「よぉ」
校門に背を凭れて立っていたのは、青峰だった。いつもの不遜な態度が少しだけ形を潜め、何となく気まずそうに見えることに黄瀬が首を傾げていると、青峰は先に歩き出した。
「青峰っち、今から帰るんスか?」
「おー」
「誰か待ってたんじゃないんスか?」
「あー」
「いいんスか?帰っちゃっても。まだ学校に残っている人、他にもいたけど」
「だから、今帰ってるんだろーが」
「え?」
「だから」
先を行く青峰の背中に向かって黄瀬は慌てて質問を投げかけていると、青峰は立ち止り、こちらを振り返って言った。

「俺は、お前を待ってたんだけど」

ここで、何で?とでも聞けたらよかったのかもしれないけれど、この会話の流れでそんなことを聞いた日には、青峰はもの凄く不機嫌になるだろう、と予測の元に正しく未来を察知した黄瀬は賢明にも黙っていた。
取り敢えず、自分を待っていたのなら、一緒に帰るべきなのだろう、と黄瀬は青峰の後を歩き出すが、その際に隣で黙ったままの緑間にちらりと視線を投げた。が、緑間は涼しい顔で変わらずに黄瀬の横を歩いているだけだ。
なんとなく、なんとなくだが、現状が誰によってもたらされたものなのか理解した黄瀬は、内心で溜息を吐いていた。
気を使わせてしまったのだな、と思いながら、緑間に向けて苦笑すると、緑間は眼鏡を直しながらふん、と鼻を鳴らす。
「置いてくぞ」
先を行く青峰との距離がいつの間にか随分と開いていた。
「ちょ、待ってくださいっス!」
黄瀬は慌てて叫ぶと、緑間の手を掴んだ。そのまま駆け出そうとすると、緑間が黄瀬を呼ぶ。
「お、おい、黄瀬」
「なんスか?」
「お前、手を」
「え、嫌っスか?」
きょとんと瞬いて聞けば、緑間はそれ以上何も言わずにされるがままになった。緑間のテーピングされた手に触れる機会は、彼から自分に触れてくれる以外には然程無い。滅多にない機会に黄瀬が内心で喜んでいることなんて緑間は知らないだろう。
だが、そんな黄瀬の思いなんて知らない青峰は、黄瀬が緑間と手を繋いで駆けてくるのを苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけていた。
「おい、黄瀬ぇ」
「なーんスか?青峰っち。つか青峰っち歩くの早いよ」
俺たちを待ってくれてたってのに、先に行ってどうすんの、と黄瀬が笑えば、青峰と、それを聞いていた緑間は途端に嫌な顔をした。
「……てめぇ、誰がこの陰険メガネを待ってたって言ったよ?」
「訂正しろ、馬鹿峰。誰が陰険メガネだ」
「誰がバカだってぇ?」
「お前以外にいるか」
「ちょ、ちょっとストップ!何でスか!何でケンカが始まるんスか!?」
「「お前の所為だ」」
「なんでそこでハモるの!?」
黄瀬が困惑しながら二人の間で叫ぶと、青峰はふいと視線を逸らした。
「あ、青峰っち?」
下から覗き込むようにして、青峰を見上げれば、頭の上に青峰の手が乱暴に乗せられて掻き混ぜられた。もう部活も終わって、後は帰るだけだし、別に髪のセットが乱れても困らないとは言え、この仕打ちはなんだろう。
黄瀬が青峰の手を避けずにそのまま大人しくしていると、青峰がぽつりと呟いた。
「黄瀬」
「はいっス」

「お前、まだバスケ楽しいか?」

黄瀬は青峰の顔を見ようとした。だけど押さえられているままの頭では動かせないのでそれは叶わない。
彼は、今彼は、どんな気持ちでそんなことを言うのだろう。
「……微妙っス」
「なんだ、それ」
かはっ、と青峰が渇いた声で笑った。なんでこんな声で彼は笑うのだろう。

「だって、あんたがいない」

黄瀬は必死に青峰を見つめた。知らず詰めていた息を細く吐き出して、視線を向ける。黄瀬は青峰に伝えることがある。夏の全中を終えてから、青峰は部活に顔を出さなくなった。そして、それは黒子もだった。黒子は青峰が来なくなるよりも先に部活を辞めて、そして自分たちの前から消えてしまった。最初から何もいなかったかの様に、彼の痕跡は残されなかった。
どうして、どうして、と疑問の言葉は胸の奥でふつふつと湧く。手を伸ばしても、その先に彼はいない。それが悔しくて、それ以上に悲しくて。
だけどそれから時間をかけて、黄瀬はちゃんと向き合おうとした。自分の中の考えを最初から紐解いて、結び直して。そうして気付いた、途中で解れてしまった分岐点。どうしようもなく理解してしまった彼と、彼の思い。
「ねえ、青峰っち」
だから黄瀬は伝えないといけなかった。
彼と、彼の為に。
「俺はね、あんたに憧れてバスケを始めたんだよ。ていうかさ、本当はバスケでなくても、例えばサッカーとか野球とかでもさ、あんたがやってたら、多分それだけで俺は飛びついたのかもしれないって思う」
「……」
「でもさ、でも俺はバスケで良かった。あんたや皆がやってたのがバスケで良かったって、本当に思うんスよ」

「バスケが好きか、とかそういうの考える前に、磨り込みみたいに俺はあんたに、皆に魅せられた。それで気付いたら、もうどこにも行けないくらいに夢中になってた。あんたのバスケ、緑間っちのバスケ、紫原っちのバスケ、赤司っちのバスケ、桃っちのバスケ、……そして、黒子っちのバスケ。皆のバスケが俺は好きだ。バスケそのものじゃなくて、それを介して皆が好き。だから俺は続けてる。俺の一番の大切な『好き』を教えてくれたのはバスケだったから」
黄瀬は一つ息を吸い込んだ。そしてしっかりと青峰の目を見つめる。
「ねえ、青峰っち」
これは、『彼』の為の宣言でもある。

「俺はバスケを辞めないよ」

青峰が息を吸った小さな音を耳が拾った。
「絶対に。それだけは誓って言える。今、あんたがどんだけ絶望してても、俺は諦めないし、俺はバスケを辞めたりなんて絶対しない。そんでさ、……そんで、今直ぐは無理でも、いつかあんたの横っ面を引っ叩いてあんたを、……あんたが大好きなバスケに、ちゃんと正面から向き合わせてくれる人が現れるって、俺は信じてるから」
「……それ、お前じゃないのかよ」
青峰の言葉に黄瀬は笑った。自嘲ではない、自然な笑みで。
「あんたさ、俺がバスケ始めてまだ二年も経ってないっての、分かってる?それこそ生まれた時からバスケやってるようなあんたに二年やそこらで追いつけるわけねぇよ。いくらなんでも、そこまで俺も自惚れてない。それに、あんたは多分俺とも、緑間っちとも、他のキセキの皆とも全力でぶつかってそれで例えば負けたとしたって、きっと本当に満足はできない。特に俺は駄目でしょ」
「なんでそう思う」
「だって、俺はあんたの線の内側に入ってしまったから」
青峰が目を開いて黄瀬を見た。
「なんで」
「分かるよ」
分かっちゃったんだよ、と黄瀬は苦笑した。
「あんた、本当は優しいから。俺をあんたの内側に入れちゃったのも、あんたにとっては無意識だったんだろうけど」
黄瀬はゆっくりと手を伸ばした。青峰の頬に手を添える。
「……でもさ、嬉しかったんだ。それは本当だよ」
「黄瀬」
「だけどさ、あんたが望むように満足させてあげられなくても、俺はあんたを楽しませることくらいはできる。その自負はあるよ」
「……よく言うぜ。俺より弱いくせに」
「だって、弱くて嫌なら、あんた俺と1on1をあんなに毎日やってくれる理由がないじゃないっスか」
青峰の顔が見えない。俯いてしまっているからだ。黄瀬は黙り込んだ青峰の頭を腕を伸ばして抱きこんだ。
「ねえ、青峰っち、俺は信じてるよ。あんたが信じられなくても、俺は信じてる。バスケの神様にどうしようもなく愛されてしまったあんたを、きっと神様は本当に見捨てたりなんて絶対にしない。きっとそう遠くない先で、あんたはちゃんと立ち上がる。またバスケを心から楽しくできる。俺は信じてる」

「……ねえ、だから」

「あんたは、泣いて良かったんだ」

青峰の両手が黄瀬の背中に回った。制服に皺ができるくらい力強く握り締められて抱き寄せられても、黄瀬は何も言わない。ただ、青峰から零れるそれがどこにも流れていかない様に、優しく頭を包み込んでいた。
――緑間はそんな二人をずっと見ていた。ここからだと黄瀬は背を向けているので表情は見えない。頼りなげな黄瀬の背中に回った青峰の手が、言葉に出すよりももっと雄弁に、今の青峰の心情を表しているようで、緑間はそっとそれから視線を外した。





そんなに時間は経っていなかったと思う。だが人によっては何十分も経っていたかの様に感じたかもしれない。
青峰の身体がゆっくりと黄瀬から離れていった。顔は俯いたままで表情までは分からない。暗がりの中でも口元が笑みの形に歪んで見えた。
「……黄瀬」
普段の声とは全然違う、掠れたような声。そんな声で名前を呼ばれて、黄瀬は青峰を見上げようとする。
「っわ」
すると青峰は乱暴に黄瀬の頭を撫ぜた。揺れる視界の先で、青峰の顔が良く見えない。名前を呼ぼうと口を開くと、その前に青峰が黄瀬の耳元に顔を寄せた。
「――、」
何か、青峰は伝えたのだろう。だが、二人から離れていた緑間には何も聞こえて来なかった。傍にいる黄瀬には届いたのだろう。黄瀬の目が答えるようにゆっくりと瞬いていた。
「……青峰っち」
青峰の手が離れてから今度こそ黄瀬が顔を上げると、青峰はもう身体ごと自分から離れていた。三歩程の距離の先、青峰は二人に背中を向けていた。
「じゃーな、気をつけて帰れよ」
それだけ言って、もうそれから青峰がこちらを振り返ることは無かった。黄瀬は去っていくその背中をずっと見ていた。視界から消えて見えなくなるまで、ずっと見ていた。





「……ごめんね、緑間っち」
「何がだ」
「帰るの、遅くなって」
「別に、気にしていない」
「……うん、ありがと」
「だから、気にしていない」
「うん」

青峰と別れてから、立ち尽くす黄瀬の肩を叩いたのは緑間だった。振り返った黄瀬にただ一言「帰るぞ」とだけ言って、黄瀬の返事を待たずにその手を引いて歩き出した。
黄瀬は何も言わなかった。ただ緑間の後を付いていった。
電車を降りて、家までの道すがら、黄瀬の謝罪を聞きながら、緑間は別のことを考えていた。それは黄瀬に尋ねればいいのだろうが、今のこのタイミングで聞いていいものなのか、緑間はそこを悩んでいた。



「ねえ、緑間っち」
「何だ」
黄瀬の家に着いて、帰宅が遅くなったことを二人して母に謝ってから夕食を共にした後、黄瀬の部屋に向かった二人は、テーブルに参考書を広げて勉強を始めた。それから暫くして黄瀬が自分を呼ぶ声に顔を上げた緑間の目の前で、黄瀬は両手の上に顎を乗せた状態で笑っていた。
「なんか俺に聞きたいことがあるっしょ」
「……別に」
「別にって顔してないっスよ」
「……」
黄瀬の指摘に緑間は眼鏡を押さえる。それから息を吐き出すと、観念して黄瀬に向き合った。
「今日聞くこともないと思っていたのだよ」
「そういうと思ったっス」
「聞いてもいいのか」
「俺で答えられることなら」
黄瀬の声に促されて、緑間は抱えていた一つの疑問を黄瀬に伝えた。
「青峰との会話の中でお前が言った、青峰の線の内側、の意味を考えていた」
素直に緑間が告白すると、黄瀬は何度か目を瞬かせてから、それかあ、と小さく声を落とした。
「答え辛いなら言わなくてもいい」
「あ、いやそういう訳じゃなくて、……俺も上手く説明できるか分からないから」
何と言うべきか、と黄瀬が悩んでいるのを緑間は待っていた。それから暫くして、黄瀬は姿勢を正して緑間の顔を見る。
「ちょっと抽象的過ぎるかもしれないけど、いいっスか?」
「構わないのだよ」
頷いた緑間に促されて、黄瀬はゆっくりと口を開いた。
「多分、誰にでもあると思うんスよ。その、自分の中の境界線ってやつ。緑間っちにもあるでしょ、ここまでは入れるけど、これ以上は誰も入れられないって線。目に見えないけど、はっきりと区切られてる自分の中の、自分と他人を区切るための線。俺が青峰っちに言ったのは、この線のことなんス」
「その青峰の引いた線の中に、お前がいる、と言うのか」
「うん。俺もはっきりと分かってた訳じゃなかったんスけどね」
でも、今日のでやっぱりそうだった、と黄瀬は苦笑した。
「桃っちを見ているときの青峰っちの目がさ、俺見てるときのとなんとなく同じっていうか、近いなあ、って思ったのが最初。それからそれとなく注意して見てたら、多分そうなんだろうなあって」
「それは、」
「うん、青峰っちが優しいからだと思う」
優しい、と黄瀬は呟く。
「だけど、本当は、……俺はこの線の中に入るべきじゃなかった」
「何故、そう思う」
「だって、」

「だって、本当は、ここには黒子っちがいたんだ」

黄瀬の顔に涙が浮かんでいる。零れそうなそれを緑間は見つめていた。
「お前が探していたのは、青峰では無かったのだな」
「……うん」
それだけで、緑間には答えになった。
「……俺ね、あれからずっと黒子っちを探してるんス。でも、俺じゃ黒子っちは見付けられない」
「何故あいつを探す」
「黒子っちがバスケ部を引退する前に辞めちゃった理由が、俺、なんとなく分かった気がしたから」
黄瀬の両手が力を込めて膝の上で握り込まれる。
「あの夏、全中のあの試合の中で、最初は青峰っち、その後に皆が続いて、扉を開けた。緑間っちも分かるでしょ。皆はなんていうか分からないけど、俺には扉に見えた。多分、あの扉は皆それぞれ似ているようで、でも違くて。……俺は目の前の扉に手を伸ばすのを、止めなかった。そうするのが当たり前だと思っていたから。でも、その扉は開けてしまったら、もう閉じた側へは行けなくなってしまうものだった。もし、その事を知ってたら……ううん、知ってても、あのときの俺は開けてた」
黄瀬の目に浮かぶ涙は零れそうなくらいなのに、まだそれは零されない。
「黒子っちは、閉じちゃった扉の反対側に一人でいる。きっと今も。俺たちは黒子っちを置いて行っちゃったんだ」
どんな思いだっただろう、と考える。
「やっとそれに気付いたのに、……でも、もう俺には黒子っちが見付けられない」
そうして、自分は彼の居場所までも奪ってしまった。
「……青峰っちの線の中には、本当は黒子っちがいたのに、俺がそこをとっちゃった」
「お前がそうした訳じゃないだろう」
「でも、でも、結果はそうなった」
「それを決めたのは青峰だ」
「でも、だから俺は、……俺は、青峰っちを助けてあげられなくなった」
緑間は黄瀬の頭を引き寄せた。むずがる黄瀬をそのままに、ただ頭を撫でる。
「俺が、青峰っちの線の中にいる間は、きっと俺が青峰っちに本当に勝つことなんてできない……。黒子っちは自分から青峰っちの線の外に出られるひとだけど、俺は無理だよ、出られない。……出られないんだ」
悔しいよ、と黄瀬は声を上げずに泣いた。憧れたただ一人の人を掬いあげる手が自分には無いことを、黄瀬はきっと本人よりも誰よりも先に理解してしまった。
そんな黄瀬が今日青峰に向かい合って伝えた言葉は、……あれをどんな思いで。
「すまなかった」
「……どうして、緑間っちが謝るんスか」
「お前の為だと思ったのだよ」
「うん、知ってるっスよ」
緑間っちも優しいから。
黄瀬の声が緑間には痛かった。
「言い方は悪いかもしれないけどさ、俺がね、今日あんなこと言わなくたって、きっと青峰っちは一人でも勝手に立ち直るって思ってるんスよ」
「それはない」
緑間は、それだけは言い切れる。
「今日のお前の言葉は、今のあいつには必要不可欠なものだった」
それだけは、傍で聞いていた緑間にはそれだけは確信できた。
「きっと桃井には無理だった。あいつはそれこそ青峰に近過ぎる。だからお前の言葉が必要だった」
「……俺、黒子っちの役目果たせたかなあ」

……こんなときでも、お前は。

自分を置いて去っていってしまった男の名前を、今でもこんなに優しく呼べるのはお前だけだ、と緑間は言いたかった。
「黒子以上の役目を、お前はやり遂げたのだよ」
そっか、と黄瀬は呟いた。
よかった、とは言わなかった。
だか、それだけで十分だった。


***


「……なんていうかさ、涼ちゃんって本当にすげーなーって思うんだよな」
緑間の話を聞き終えた高尾がそう言って空を見上げた。
部活の後の帰り道、緑間と高尾は並んで歩いている。空はもう暗く、星がいくつか煌めいて見えた。緑間は、今日の昼に青峰から連絡を貰ったメール書いてある場所へ向かう為に、それとなく行き先を変えたのだが、高尾は何も言わずについてきた。帰れ、帰らない、の問答を何度繰り返したか。結局折れたのは緑間の方で、駅へ向かいながら緑間は高尾に強請られて中学時代の話をしてやり、高尾はそれを静かに聞いていた。
青峰がどういう人物なのか聞きたい、と高尾に言われた緑間は、中学時代の彼のことを訥々と話してやったのだ。
「あいつは、……黄瀬はな、人の機敏に聡過ぎるのだよ。望まれなくてもその役目を自然と果たそうとしてしまう。そしてそれができてしまうから問題なのだよ」
「……でもさ」
それは仕方ないよ、と苦笑しながら、高尾は言った。
「それ以上に、涼ちゃん、優しいから」
俺もそう思う、とは緑間は言わなかった。が、恐らく高尾には伝わっているだろう。
「俺にはさ、青峰みたいな、絶望?とかそういうの経験したことないけどさ、心底しんどいときにそういう言葉くれる子が傍にいてくれるのって嬉しいっていうかさ、もう絶対に離せないって思うよなー」
しみじみと言う高尾に、緑間の歩調が止まった。
「あれ?真ちゃん?」
「……正に、その通りなのだよ」
「へ?何が」
緑間は眼鏡のブリッジを押さえると、思い出したくない、と言わんばかりに溜息を吐いた。
「だから、ここからが本当に大変だったのだよ」
「?」


***


昨夜は結局緑間は黄瀬の家に泊まることになった。あのままの黄瀬を放っておけなかったのが一番の理由でもあるが、それは当人には絶対に伝えることは無い。
朝になり、朝食を貰ってから一度家に戻り、準備を終えてから緑間は黄瀬と学校に向かった。
並んで歩きながら、緑間は黄瀬の様子をそっと見る。目元は赤くなっていなかった。
「緑間っち?」
どうしたんスか?と黄瀬が見上げてくるのに、緑間は何でもない、と視線を前に戻した。
それからお互い無言で歩いていたのだが、横断歩道の前で信号が変わるのを待っている間に、緑間は口を開いた。
「黄瀬」
「なんスか?」
「お前、高校はもう決めたのか?」
緑間の言葉に、黄瀬は瞬きを一つしてから小さく頷いた。
「まだ、確定ってわけじゃないんスけどね、興味があるなあってところが一つあるんス。今度見学に行く約束してるから、そこでまた話してみて、それからかなあ」
監督がね、面白い人だった、と黄瀬が笑う。
「そうか」
それなら良かった、とは内心だけで止めておく。
「緑間っちは?」
「俺は秀徳にした」
「秀徳!さすが緑間っちっスね」
「何だそれは」
「だって、秀徳ってバスケも強いけど、有名な進学校じゃないスか。文武両道の緑間っちらしい選択だなあ、と思って」
すごい、すごい、と自分のことの様に喜ぶ黄瀬に、緑間は苦笑した。
「……緑間っち?」
突然頭を撫でられて、黄瀬は目を丸くする。
「お前と高校が別れたら、もうこうして朝一緒に登校することもなくなるのだな」
「そうっスね」
「寂しいか?」
足を止めてお互いの顔を見る。黄瀬はふわりと笑った。
「寂しくないって言ったら嘘になるっスけど、でもちゃんと俺たちは自分で決めた道を進もうって選んだことなんだから、寂しいけど、でも後悔はしてないっスよ」
「そうか」
もう一度頭を撫でた緑間はまた歩き出した。それに黄瀬も続く。
「でも、なんか意外っス」
「何がだ」
「緑間っちから、そんなこと聞かれるなんて」
ふふ、と笑いながら黄瀬が言うのに、緑間はもういいか、と白状することにした。
「赤司とな、話したことがあるのだよ」
「赤司っちと?」
「お前は初めのうちこそバスケに対してはまるで初心者で、俺たちが一から育てたようなものだろう。だから、まだ始めて二年にも満たないお前を手放すのは育てていた身としては無責任に過ぎないか、ということでな。お前は俺たちの内の誰かと一緒に高校を進学させようか、とも考えたことがあったのだよ」
「え、そんなこと考えてくれてたんスか」
「お前は鍛えがいがあるからな」
「……それは、褒められてるんスかね」
「褒めているのだよ」
「そんな気がしないっス」
拗ねたような顔の黄瀬に小さく緑間は笑う。
「だが、こうしてお前は自分で先を決めたのだ。もうこの話は無効だろう」
「ねえ、緑間っち」
「何だ」
「もし、俺が高校まだ決めてなかったら、誰が俺と一緒にいてくれる予定だったんスか?」
「それは、俺だっただろうな」
赤司は京都、紫原も東北と東京からは離れてしまう。そうなると黄瀬の仕事に都合が悪い。黄瀬がモデルという仕事に対して向けている情熱が分かっているからこそ、それを手放すようなことはさせたくなかった。
「そっか」
その未来を、少しは惜しいと思ってくれるのだろうか。
黄瀬の横顔を見つめながら、緑間はいつもより少しだけ歩調を緩める。あと少しの距離を惜しむ気持ちは同じだといい、と思いながら。



学校に着いて下駄箱で靴を履き替え、階段を上りながら今日の放課後の練習について話をしていた二人は、廊下の先の黄瀬の教室の前に青峰が立っていることに気がついた。
「……青峰っち?」
引退してからの三年生は放課後は自主練に充てているが、朝練には参加していない。それにそもそも青峰は全中の少し前から朝練に参加すること自体が稀になってしまったので、こんな時間にいることが珍しいくらいだ。こんな早くから、何か教科書でも借りに来たのか?と首を傾げながら黄瀬が声をかける。
「青峰っち、おはようっス!何か忘れ物っスか?」
昨日のことが頭の中を過るが、今更、だからと言って態度を変えるようなことはお互い望むことじゃないはずだ。
黄瀬の姿と声を確認した青峰は、あっという間に距離を詰めると、黄瀬の手を素早く掴んだ。
そうしてぽかんとしている黄瀬に向かって、青峰ははっきりと言い切った。
「おい、黄瀬」
「なんスか?」

「桐皇に一緒に行くぞ」

「「……は?」」
奇しくも緑間と見事なハモりをみせた言葉はその一音のみ。
その後廊下に響いたのは黄瀬の絶叫と、緑間の怒号だった。


***


「……おい、黒子、お前平気か」
「これが、平気だと言えるか分かりませんが、平気です」
「いや、そんな顔面蒼白にさせて言われても、はい、そうですか、とは納得できねえよ」
「今日の練習は特にハードでしたね……」
「そうだな、これからWCに向けて、益々厳しくなっていくんだろうな」
リコのシゴキが骨身に沁みている二人は、揃って身震いをした。
黒子と火神は放課後の練習を終えて重い足を引き摺りながら、急いで電車に飛び乗った。今黒子は降車ドアに寄りかかって、少しでも体力を回復させようと努めている。
窓ガラスの先の暗闇の中で、家々の灯りが光って見えた。じっとそれを見つめている黒子に、火神は声をかける。
「なあ、黒子」
「なんですか」
「黄瀬と、青峰のことなんだけどよ」
外に向けていた視線を火神に戻して、黒子は火神を見上げた。
「お前の話を聞く限り、あいつらって兄弟みたいなもんなのか?」
緑間からの連絡を貰ってからの時間と、放課後の部活の合間を使って火神は黒子から黄瀬と青峰の関係について話を聞いていたのだが、それを踏まえた上での火神の問いに、黒子はそうですね、と視線を落とす。
「多分、その例えが一番近いように思います。あの二人はお互いがお互いの為になくてはならない存在であったから」
黒子は黄瀬が初めてスタメンとしてコートに立ったときのことを思い出していた。
緊張の所為かどこか動きがぎこちない黄瀬に声をかけようとした黒子の前で、青峰が黄瀬の肩に手を回した。ぐい、と強引に自分の方に引き寄せて、青峰は黄瀬の頭を思い切り撫で回し満足すると、呆然とした黄瀬を置いてさっさとコートに入ってしまった。
黒子がそっと後ろから近寄って見上げたとき、黄瀬の顔はさっきまでの強張りが嘘の様に、すっきりとした顔で笑っていたのだ。その視線の先、顎を引いて招く青峰に、挑発的な笑顔を見せて黄瀬は一歩を踏み出す。歓声が響くコートの中央で、黄瀬の背中を叩く青峰が不敵に笑っていた。
その試合で初めて黄瀬が得点を入れたとき、誰よりも喜んでいたのはきっと青峰だった。
「僕がいなくなってから、青峰君の為に黄瀬君が色々と心を砕いていてくれたのを、見ていましたから」
「お前、引退してからずっと、黄瀬たちから隠れてたんだろう?」
「ミスディレクションて便利ですよね」
「……あいつらって、複雑なのか?」
「いいえ、シンプルですよ」
シンプルで、だからこそ放っておけなかった。
「虫が良すぎると、思ったんですけどね」
「何がだよ」
「まあ、こっちの話です」
「お前は、肝心なところを言わないときがあるよな」
少しだけ不満そうな火神だが、それ以上は何も言わないでいてくれる。
信頼されているのだろう、と黒子は思った。



電車を降りて、並んで歩き出す。駅前を過ぎると人もそこまで多くない。あれから会話が無かった二人だったが、火神が道の途中で急に立ち止まった。
「なあ、黒子」
「何ですか」

「お前、黄瀬が好きか?」

火神の言葉に、黒子は振り返る。気が付くと、二人の間には三メートル程の差が開いていた。
「何でそんなことを聞くんですか?」
多少語気が強まった気がするが、構っていられなかった。火神の顔は真剣なものだったから、余計にその言葉の真意が分からない。
「俺は好きだ。黄瀬のことが。もっと今より近付きたい。傍にいて、キスもしたい。抱き締めたい。それ以上もしたい」
赤裸々な火神の告白に、黒子は目を開く。
「何で今、」
「今だからだ。黒子、お前」
火神が口を開く。
「何で黄瀬に遠慮してやがんだ」
肩にかけた鞄の紐にかけていた手から力が抜けて無造作に横に下りた。
「遠慮?僕が」
「してるだろ」
してない、と何故言い切れないのか、黒子は詰まった言葉の先を口にできずに眉を顰める。
「そのくせ、変なところで振り切れて、自分のことを制御できてねぇだろ」
「……この前のことですか」
火神の家で、黄瀬を押し倒したときのことだろう。黒子は自嘲気味に笑った。
「あれは、不可抗力です」
「そうやって逃げんのか」
淡々と追い詰めるようなことを言う火神の顔が俯いてしまった所為で良く見えない。黒子は息を吸い込んだ。
「逃げてなんていない」
「逃げてる。お前は、黄瀬から」
「なんで、君がそんなことを言うんですか!」
思わず叫んだ黒子の胸倉を、火神が掴んだ。
「じゃあ何で俺の目を見て言えねえんだよ!」
開いた視界の先、怒った顔をした火神がいた。
「お前、負い目があるんだろ。黄瀬を置いて消えたっていう自分がいるから。それから目を逸らそうとしてる。でもお前は黄瀬を忘れられなかった。勝手に何も言わずに置いてったアイツを、お前は」
「……そうですよ」
自分の声だ、と分からなくなるくらい、渇いた声が出た。
「僕は、逃げたんだ。黄瀬君から。そんな僕がまた彼の傍にいられる権利を得たとしても、僕にはそれが怖くて仕方ない。置いていってしまったのは僕なのに、馬鹿みたいに怖い。黄瀬君を好きな自分が。黄瀬君を忘れられなかった自分が。黄瀬君に何をしてしまうか分からない自分が。……怖くて、仕方ないんだ」
火神の手から力が抜けていく。掴まれていた制服はよれて皺だらけになっていた。
「……軽蔑したでしょう」
「あ?んなことしねーよ」
「……は?」
あっけらかんとした声に黒子が呆然と顔を上げると、そこにはいつもの火神の笑顔があった。
「やっと本音言ったな、お前」
「……どういう、ことですか」
「そのまんまだけど」
「だから、何が」
「なあ、黒子。俺はさ、お前とは黄瀬を巡ってのライバルだけど、同じチームの相棒でもあるんだぜ。そのお前が鬱々とした顔してたら、張り合いがねえじゃんか」
火神の手が黒子の頭に乱暴に載せられた。
「俺はお前と正々堂々勝負したい。黄瀬に選ばれるのが俺とお前のどっちでも、絶対に後悔しないように」
だから、と火神は不敵に笑った。
「あっさりと俺に負けるようなお前じゃあ、物足りないんだよ。張り合ってなんぼだろ?」
目の前に火神の拳が突き出される。
黒子は火神の顔を見て、突き出された拳に視線を向けて、もう一度火神を見た。
「……敵に塩を送るなんて、余裕ですね」
「まあ、そうだな」
「相棒だから、ですか?」
「それもあるけど、俺さ、嬉しかったんだよ」
「嬉しい?」
「俺、黄瀬のことを好きだと思ったとき、絶対に黄瀬にも、誰にも言えねえと思った。……だけどさ、お前も黄瀬のことを俺と同じ様に好きだって言っただろう。だから、俺と同じ様に黄瀬を想ってる奴がいるって分かってさ、俺はそれが嬉しいって思ったんだ」
まあ、馬鹿だとは自分でも思うんだけどな、と笑う火神に、黒子は眩しいものを見るように目を細める。
「本当ですね」
「うるせえよ」
「火神君」
「何だ」
黒子は自分の拳を火神の拳に強く当てた。
「今日のこと、後で後悔することになっても知りませんよ」
「しねえよ、言っただろ、黒子。俺は後悔はしない」
一度離して、もう一度互いの拳を突き合わせる。勢いがあって多少痛かったが、それも今の二人には心地良かった。
「さて、さっさと行こうぜ」
「そうですね、行きましょう」
そうして並んで歩き出した二人の足取りは力強く、一切の迷いが見られなかった。





20121028





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