燃犀








人を観察することが得意だ、というのははたして特技と言っても差し支えないことだろうか。
そんなことを考えながら自分の元相棒が言うところの『何を考えているんだか分からない』目で、端から見ればぼんやりと、だが内面化では一途な視線でもって眺めているのは、中学時代に同じ部活で汗を流し、一からバスケットボールのいろはを教えた自分にとっての唯一の教え子である彼――黄瀬涼太のことだ。
今彼は自分の現相棒である火神と二人でバスケットボールに興じている。
尊敬、憧憬、そんな感情を自分やキセキの皆に隠す事なく直向きに向けてくる彼は、現相棒の前ではそれとはまた別の感情を見せている。
ライバル、と。そう言えば二人揃って眉を顰めるのではないか。
ただ、そんな言葉で括るには生易しいものでもない。お互いがお互いを刺激し合い、より遥かな高みに上りつめる為に、切っても切れない、切り離せない相手。真正面から向かい合って唇には笑みを乗せて、そしてぶつかる視線の激しさと言ったら。

――まるで、恋をしているようではないか。

そんなことを考えてしまう自分が可笑しい。
彼の白く、伸びやかな手がボールを操る。出会った当初から天才の名を欲しいままにあっという間にレギュラーを勝ち取った彼は、誰よりも輝いていた。
それは自分の欲目もあるのだろうとは思うのだが。
欲目、そう欲目だ。
何故なら、自分は。

「……全くもって、面倒ですね」

ふと呼ばれた様な気がして顔を上げると、黒子っち、と彼だけが呼ぶ自分のあだ名で、彼が自分に向かって手を振っている。
それに対して軽く頷いてからゆっくりとベンチから立ち上がった。
一歩一歩、彼に向かって歩み始める。この距離を詰めていくことに、こんなにも胸が締め付けられるのは。
――自分は、黒子テツヤは、黄瀬涼太に、恋をしているのだ。





初めてこの感情を自覚したのは、彼と出会ってから一年が過ぎた頃だった。自分の観察眼は対自分自身に向けても有効であったのだと、そのときになって気付いたのも可笑しな話なのだが。
忘れることのない、あれは中学三年の春のこと。
咲いたばかりの桜の並木の中で、突然の突風にあおられ思わず目を瞑った自分に、隣で歩いていた彼は大丈夫か、と声をかけてくれた。
それに大丈夫だ、と返そうとして閉じていた目をうっすらと開いたそのとき、目の前で自分の顔を覗き込んでいる彼がそこにいた。
今までに無い近い距離で彼を見た瞬間、ごとり、と。胸の奥が動いた音が確かに聞こえたのだ。
咲き誇る桜を背景に、絹糸の様な彼の髪が悪戯に揺れていた。少しだけ伏せられた視線は自分だけに向けられていて、その濡れたように艶めく唇が呼ぶのは自分の名。
――ここだけ世界から切り取って、自分だけのものにしてしまいたい。
そんな感情を自分が抱えることになるなんて、あのときまでは考えたこともなかったのだ。
あの後、どう彼と会話をしたのか思い出せない。多分、失態はおかしていないはずだと、言い切れないことが情けなくも思う。
けれど確かにそれをきっかけに今まで以上に彼に目を向けるようになった。このときの彼には、もう教育係の自分は必要なかったのだが。自分の影が薄い、という特徴がバスケ以外で役に立つとは思わなかった。
彼の視線。彼の仕草。彼の言葉。彼そのものに対して。何故今まで気付かなかったのだろう、と思うくらいに、想いを自覚してからの自分が彼に向けている感情には限界が無かった。
好きだ、と言葉にするには容易く、だがそれ以上に制御できない自分の感情は、生易しくもなく。
だから、中学最後の夏、全中の後に自分が姿を消すきっかけは、確かに彼らとのバスケに対する向き合い方が相容れない、と思ったことも要因にあったが、一番には彼とこれ以上一緒にいることに対して、自分自身を押さえこめる自信が持てなかったからだ。
このままでは、自分は彼にとって良くない存在になってしまう。
彼に何かしてしまいそうな自分が怖い。
何より、彼に嫌われてしまうことが怖い。
だから離れた。
それを後悔したこともある。だけど、それ以上にあのときの自分には心に安穏が欲しかったのだ。
無防備な笑顔を向けてきてくれる彼の顔を、曇らせたく無かった。そんなことは望むことではないのだから。
そう思って離れたはずなのに、高校に上がった途端、彼は今まで必死で隠れていた自分を見付けてしまった。
そしていつの間にか、こうして少なくない回数でお互いに向き合うようになった。
離れたことで薄れるか、と思った自分の想いは、薄れるどころかいっそうの重さ、熱さで自分の中に渦巻いていた。彼と会う回数が増える毎にそれらがむくりと首を擡げる。自らのポーカーフェイスがこんなところで役に立つとも思わなかった。もし内面の想いが全て顔に出ていたとしたら、二度と見ることのできないくらいの醜悪さであっただろう。
止めると。好きなことを止めればいいと。思ったところでそうなる訳が無いのは自分が一番分かっている。それくらいに深く、心の中に根を張ってしまった想いは刈り取ろうにも容易ではなかった。
見上げた先には眩しい彼の笑顔がある。
その顔を曇らせるようなことは絶対にしない。それが自分自身に課した最後の砦であったから。


――しかし、そんな自分の想いとは裏腹に、彼は簡単にこの砦を壊してしまうのだけれど。


「黒子っち」
休憩の合間、彼が自分を呼んだ。
横に座っている彼に視線を向けると、彼は思っていたどの表情とも違う顔をしていた。
案じるような、そんな顔。
「なんですか？」
黄瀬君、と彼の名を呼ぶ度にことりと動く心臓が五月蠅い。
額の汗を拭う素振りで心を平穏に保とうとすると、彼の手が先に動いた。
「……きせくん」
自分の頬に、彼の手が触れている。
それを自覚した途端に、心臓が有り得ない音で跳ねた。
不味い、と。咄嗟に胸を押さえようとしたのだが、それは間に合わなかった。
「黒子っち、あのね」
彼の唇が動くことが夢の様に思う。

「……泣かないで」

――泣かないで、なんて。
自分は今どんな顔を彼に向けているというのだろう。
ああでも。
他ならない彼のやわらかな声。
あたたかなてのひら。
やさしい温度が。
自分の中を押し上げる感情が、酷く焼けつくように辺りを焦がしていく。

頬を伝っていくのが涙だと、自覚したのは随分と経ってから。その間彼の腕の中に抱き締められたまま、ひたすらに零れる水を止める術が浮かばずに、彼の前で自分はただ俯いていた。
離して欲しい、と切実に思った。
けれど同じくらい、いやきっとそれ以上に離して欲しくないとも思っていた。
愚かしいと思うだろう。
彼の首筋から香る匂いに目も眩む様な心地を得る。
この手を伸ばして、彼を抱き締められたら、縋りつけたらどんなにか。
ぼやける視界では彼の表情を見ることも叶わない。彼が何を思って自分を抱き締めてくれているのかも分からない。人間観察が得意、だなんて科白は、これから彼の前で言えやしないだろう。けれど今このときだけは、彼は自分の為だけにいてくれるのだと分かった。
それだけは、分かったのだ。
それが自分の都合の良い浅はかな考えであったとしても構わなかった。





「それじゃ、またね。黒子っち」
笑顔で手を振って去っていく彼の背中を見送る。駅の改札に吸い込まれていく見慣れた黄色が見えなくなってから、ようやく後ろを振り返った。火神は先に帰っている。気を利かせてくれたらしいことは直ぐに気付いていたのだが、礼は明日言えばいいだろう。
一人になった帰り道を歩いていく。
あんな醜態を晒したというのに、彼は泣き終わった後の自分に対していつも通りだった。
ただ傍にいてくれた。何度も背中を擦ってくれた。膝の上で握り締めていた手が優しく開かれて彼の手が握りこんできてくれたとき、このまま死んでもいいとすら思った。
キレイな彼の手に傷を付けるのが恐ろしく、力の限り握り込みそうになる自分の手から力を抜くためにどれだけの気力が必要だったか。彼は知らないだろう。
泣き腫らした顔なんて、見れたものではないだろうに、冷やしたタオルで優しく顔に当ててくれた彼は、その間もずっと何も言わなかった。
手の中にはそのときに彼から渡されたタオルがある。洗って返す、と言った自分に、彼はうん、と小さく頷いた。
そのときのことを思い出して、胸に疼く甘い感情に溜息を吐いた。
好きだと、その想いだけを抱えていけたら良かったのか。
だがもう、それだけでは足りないくらいに今の自分は欲深になってしまっている。
きっかけは今日の彼だ。
どこまでも、きっと際限なく自分のことを受け入れようとしてくれる彼は、この距離以上を自分が望んだとき、どんな反応を返してくれるのだろう。
そんなことまで考えるようになってしまった。

重症だ、と自嘲に顔が歪む。
しかし、それもいいかもしれないと思ってしまう。
それならば、いっそ。このまま、一生想いを抱えたままでいるよりも、彼に自分の想いを断罪して貰ったほうがいい。
他ならない彼からの答えならば、自分はどんなものでも受け入れようとするだろう。
望んだ結果が返ってくる確率なんて計算するのも馬鹿馬鹿しい。だけれど。もしも僅かでも叶うのであれば。
君がこの手を選んでくれると言うのであれば。

ポケットから携帯を取り出す。素早く操作して着信履歴から直ぐに探せる彼の名を選択した。
何回かのコール音の後、彼の声が聞こえてくる。
『黒子っち？』
「黄瀬君」
『どうしたの？俺なんか忘れ物しちゃった？』
「そうですね、忘れ物というか、僕が君に渡したいものがあるんです」
『なに？』
「それより、もう電車に乗ってしまいましたか？」
『ううん、まだ。先に行っちゃった電車で急病人が出たとかで後続が続いて来ないんス。まだホームで待ってるとこ』
「それじゃ、今渡しに行ってもいいですか？」
『今から？構わないっスけど、黒子っちは大丈夫なの？』
「大丈夫です。だから黄瀬君」

逃げないで欲しい。
そしてできることならば、

「そこで待っていてください」

返事を待たずに通話を切る。ポケットに携帯を無造作に突っ込むと、来た道を急いで戻った。
流れていく街並みを横目に真っ直ぐに走っていく。
この先に待っている結果がどうであれ、きっと後悔はしないと、誰でもない自分はそう信じている。
だから、どうか。
どうか、君が。












「何を笑っているんスか？」
真横から覗き込んで自分を見下ろしている彼に、視線を真っ直ぐに向けた。
「少し、今より過去のことを」
「楽しいこと？」
小さく笑いながら首を傾げた彼に向かって手を伸ばす。
「そうですね、楽しいと思ったこともあったけれど、苦しい、と思うことの方が多かったかもしれません」
「……苦しかった？」
「はい」
彼の頬に触れている自分の手の上に、彼の手が添えられる。
「今は？」
一途な瞳は、今真っ直ぐに自分の元に。
言葉以上に明確で真摯な想いが腕の中にある。
これさえあれば、他には何も。

「今は、」

彼以外は何も。

「ただ、幸せだと言うのでしょう」

……そう、何も。






20121216
黒井和志様！リクエスト有り難うございました！