「アメリカに行く」

そう、火神が言った。
言い切った後じっと俺のことを見て、火神はその場を動かなかった。
その口が次に何を伝えようと動くのか見極めようとして、けれどそう思う先から、俺の口は勝手に開いて音を出した。

「俺も、行く」

何も考えていないわけじゃなかったけれど、多分頭の中は真っ白に近い状態で、そんな中で導き出した俺の答えは、それが一番本心に近いものであった。
だから、火神。
お前が驚くことはないし、俺が笑うのはそういうことだよ。

「……先に言われちまったな」

目を丸くして、それから子どもみたいな笑顔を作った火神は、俺の左手を強い力で掴むと何時の間に取り出したのか銀色に輝く指輪を俺の左手の薬指にはめてくれた。

「一緒に行こう」

……ああ、ほら、な。思った通りだ。
大丈夫だよ、火神。
これから何があったとしても、俺は今この瞬間の思い出があれば何だって乗り越えてやるって気持ちになる。

「当然っスよ」

自分にできる最高の笑顔を愛しい人に向けて贈れば、火神はそのあたたかな手で俺を精一杯抱き締めてくれるのだから。






for better or for worse, for richer, for poorer, in sickness and in health, to love and to cherish; and I promise to be faithful to you until death parts us.






進路を決めたのは、高校三年のWCが終わる少し前の話。そのときからもう俺の膝は爆弾を抱える様な状態になっていた。高校生活を最後にバスケを止めないと日常で歩くことすらままならないことになるかもしれない。そう医者から言われた俺は、ああそうか、と思ったのだ。
泣くと思った。本当は。でもそのときは感情がはっきりとしなくてぼんやりとしたまま、ただこれからの話しを聞いていた。自分のことのはずなのに、まるで他人のことみたいで。部活の皆や、監督にどう話そうかと、そんなことを考えて歩いていた帰路で、火神と偶然会ったのは自分にとっては僥倖だったろう。
ぽつりぽつりとその日に医者から言われたことを説明していると、火神が急に立ち止まって俺を引っ張って歩き出した。あっという間に火神の家に連れて行かれて、俺はそこで火神に思い切り抱き締められたのだ。玄関先の狭い空間で力一杯に、愛情も、友愛も、寂寥も、そういった一切の感情を全て込めて俺を抱き締めてくれた火神に触れて、俺はそのときやっと泣くことができた。
悔しいと、呟いたかもしれない。
寂しいと、呟いたかもしれない。
そして、離れたくない、と最後に言ったあと、火神にキスをされた。触れ合うだけのものから徐々に深く。息継ぎもままならないまま気がついたら寝室に移動していて。
その日は朝まで火神は離してくれなかった。俺たちは付き合っていて、いわゆるそういったことも何度か経験していたけれど、あのときの火神は今までで一番優しくて、そして温かかった。
そんなこともあって、迎えた最後のWCで俺は完全燃焼できて、すっぱりとバスケから離れる決意をしたのだ。
俺が怪我が原因でバスケを止める、と言ったのは全てが終わってからだったので(火神と海常の皆はもう知っていたけれど)、その分その後の皆の反応は本当にすごくって、あの黒子っちが俺に抱きついて泣いてくれるなんて一生ものの思い出だし、青峰っちに、緑間っち、赤司っちに紫原っち、キセキの皆もたくさん俺を抱き締めてくれた。
俺、結構ちゃんと皆から愛されてるなって思って嬉しかったんだ。
辛いって思って、泣きたいって思ったとき、一番傍にいてほしかった人が俺の傍にいてくれたから、俺は皆の前でも泣かなくてすんだんだって、後で火神に言ったら、すごく顔を真っ赤にさせて俺に優しいキスをくれた。
大学は行かないことにした。年齢を理由に引き延ばして貰っていた、もう随分前からオファーが来ていた海外でのモデルの仕事をこれから本気で取り組んでいこうと決めたから。
そうなると拠点をどこにしようか、と悩んでいたときに、火神がアメリカに行く、と俺に伝えてくれたのだ。火神が行くなら、俺も行く。そんなこと悩むまでもなく当然の結果だったのだから、俺も相当だ(でも火神と一緒にアメリカに行くことになったって話を黒子っちを含むキセキの皆にしたときは、それはもうものすごい反対を受ける羽目になって二人揃って大変な思いをしたのだけれど)。
そうして訪れたアメリカの地で、最初こそ異文化の坩堝故の余りの違いに混乱もしたけれど、変わらず傍にいてくれる火神と、適応力の高い自分のスキルのおかげで何とかやってこれている。モデルの仕事も軌道に乗って、今度もっと大きい仕事も貰えそうだとつい最近マネージャーから連絡を貰った。
火神も地元の大学に通いながら相変わらずバスケ三昧の日々だ。別の大学との強化試合ではスタメンで起用されることになったと興奮して教えてくれたのはここに来てから割と直ぐの話だった。日本にいたときから半同棲の様な生活だったから、アメリカに来てもそこは変わらず、ただ、日本にいたときよりも火神のスキンシップが分かりやすくなったのが心臓に負担になっているのは秘密だ。
だって、言うとなんか負けた気になるから。余裕をもって、相手を愛してやりたいって思うのは俺だって男だから。甘やかして、甘やかされて、お互いにとって必要不可欠の存在になりたい。
仕事終わりに買い物をしながらそんなことを考えたのは、あのとき貰った指輪が目に入ったからだ。仕事以外では外すことのないそれが、左手に煌めいているのが見えて、思わず頬が緩む。早く家に帰って火神に美味しいご飯を作ってやろう。
足取りも軽く家路を急ぎ、たどり着いた玄関前で鍵を出そうとポケットを探っていると、いきなり目の前のドアが開いて俺は目を開いた。そのまま身体を強引に家の中に押し込められて、俺は俺にそんなことをした相手の名を呼ぼうと口を開いたのだが、それより先に言葉は出てこなかった。
まるで、迷子の子どもの様な、頼りない顔。
目の前で俺を抱き締めている火神はそんな幼い顔で、俺に必死に抱きついている。
何かあったのは分かる。けれどそれが何かまでは分からない。ただ背中に回った手のひらが小刻みに震えているのが言いようのない不安を俺に伝えてきた。手を伸ばして火神を抱き締める。何度も背中をさすって落ち着かせようとしたけれど、火神は何も言わない。言わないまま、俺の身体を持ち上げた。無言のままソファーに運ばれて、そこに下ろされてから俺は火神の顔を見ようと手を伸ばす。頬に触れて、瞼の上を親指で優しくなぞる。濡れていないのが不思議なくらい揺れている視線に俺の心臓は不安定に跳ねた。
こんな、こんな火神を俺は知らない。
「かがみ、」
辿々しく呼んだ俺の声は掠れていた。
火神の目が俺を見る。いつもあたたかい手が温度を感じさせないくらいに冷たいことに、俺が泣きそうになる。
「かがみ」
それしか言葉を知らないんじゃないかって思うくらい、俺の口からは火神の名前しか出てこなかった。
なあ、火神、俺はどうしたらいい?こんなお前を、俺はどうしたら救える?
伸ばした手で火神の頭を抱き込んで、俺は火神の顔に何度もキスを落とした。音も立てないで、触れるだけのキスを何回も贈る。
そうしていくうちに、火神の手がゆっくりと動いて俺に向かって伸ばされた。
「りょうた」
それが俺の名前だと分かっても、その声の余りの切なさに、俺は本気で泣きたくなった。
「りょうた、りょうた、俺は、おれ、」
泣けばいいって、思った。
お前は泣いていいって、そう思って、だから俺はそう伝えようとしたんだけれど、それは叶わなかった。
「ダニーが、死んだ」

息が、文字通り止まった。

「死んでた、俺、一年近くも……」

それから先は言葉にならなかった。火神の無言の慟哭が、無音の部屋に静かに落ちていった。





ダニーは、火神のアメリカでできた友人だった。日本に来るまで、氷室さん以外にも火神に親しい友人がいたことが俺には素直に嬉しいことだと思って何度か話を聞いたことがある。
気さくないいヤツで、俺のことも日本人だと一度も馬鹿にしたことがなかったと、ダニーのことを火神はそう教えてくれた。生まれつき足が悪かったダニーは自由に運動ができなかったが、その分目が良く、火神のバスケの練習中にはシュートフォームについて色々と意見をくれて参考になったのだ、と火神は笑っていた。
日本にいる本当に親しい友人以外には伝えていない俺と火神の関係も火神から聞いて知っていたダニーは、俺がモデルだと知ると直ぐ様情報を集めて、お前には勿体ない人だ、と異国の地から散々火神のことをからかってくれたらしい。
俺と火神が二人でアメリカに来ることが決まったとき、心から喜んで祝福してくれたのだ、と聞いた。アメリカでのリョウタのファン第一号は俺だからと伝えてくれ、とそんな話を聞いたときは、写真でしか見たことのないダニーに直接会ってちゃんとお礼を言おうとずっと思っていたのだ。
だが、ここに来て半年が過ぎても、ダニーと会うことはできていなかった。火神が何度か連絡をしようとしても、いつも都合が悪い、とメールでの連絡が来るだけで、火神が心配そうに携帯を見つめていたのを何度も見ていた。
……そのダニーが、死んでいたのだと。今日火神は彼の両親から直接話を聞いたらしい。
大学の授業が早めに終わったので、直接ダニーに会いに行こうと決めた火神は彼の家に向かった。そうしてそこで会ったのは、ダニーの両親だけで、もう彼の姿は無かったのだ。
「あいつ、俺たちがここにくるって決まった直ぐ後くらいに、事故にあったんだ。俺とお前の新居に何かプレゼントを贈りたいって、不自由な足引きずって出掛けた先で、大型トランク同士の大きな事故に巻き込まれたらしい。両親が病院に駆けつけたときはもう意識もあんまり無い様な状態で、そんなアイツが最後にこう言ったんだと」

『……タイガと、リョウタの二人には知らせないでくれ』

「馬鹿だよな、アイツ」

ダニーの両親は息子の最後の願いを聞いて、今までずっと火神に黙っていたのだ。息子の携帯にかかってくる火神からの連絡を、息子のふりをして返してくれていたのだと。
「おばさん、泣いてた」
話が終わって、火神が俺を抱き締める力を強くした。
「……なあ、火神」
「なんだ」
「ダニーの今いるとこ、聞いた?」
俺の言葉に火神が目を開いて顔を上げた。俺は火神を見つめて口を開く。
「明日、会いに行こう」
頷いた火神の俯いた旋毛を眺めて、漏れそうな嗚咽を飲み込んだ火神を俺はもう一度抱き締めた。





翌日は良く晴れた。途中の花屋で買ったのは白いカサブランカで、ダニーが好きな色だと聞いてそれにした。
二人並んで墓地の中を歩いていく。男二人、しかもスーツ姿で一人は大きな花束を抱えていると目立ったが、平日の墓地は人も疎らでそこまで人目につかなかった。
白い小さな墓石に、彼の名前が彫ってある。
膝を屈めてその名前に触れた。硬い石の感触に、胸が詰まった。カサブランカの花束をそっと置いてから、俺は一度目を閉じて息を吸い込む。目の前に浮かぶのは、火神から見せてもらった写真でみた彼の笑顔。
「……あなたにこうして会うのは、初めてですね」
俺は彼の名前に触れたまま、言葉を紡いだ。
「大我から、あなたのことは良く聞いていました。俺のファンだということも。ここに来て仕事で上手くいかないことがあったとき、俺のここでのファン第一号であるっていうあなたの言葉が、何度も俺を励ましてくれました。だから、あなたにちゃんと会ってずっとお礼が言いたかった。遅くなってごめんなさい」

「……ありがとう」

名前から手を離してその場に立ち上がると、火神が俺の肩に手を回して引き寄せた。
「……一年、一年だぜ?そんなに長く俺に黙ってるなんて、お前は本当に友達甲斐の無いヤツだよ。俺が、俺がお前がいないことでへこむって思ったんだろ。気にするって思ったんだろ。……お前、馬鹿だろ。いや、馬鹿だ。お前は。……おら、涼太だ。キレイだろ。写真よりも実物の方がもっとキレイだって言ったら、お前爆笑してたけどな、今それ撤回してるだろ。ざまーみろ」
「火神、」
なんだかもの凄く気恥ずかしいことを言われて、俺は咄嗟に火神の名を呼んだが、火神の真剣な目にそれ以上言葉は出てこなくなった。
「ダニー」
それは、火神が。
これから言う言葉が、彼に伝えたい本当のことだって分かったから。
「俺、これからもっと頑張るよ。お前が行けっつったNBAを、今本気で目指してる。いつかお前にMVPの報告しにきてやるから、待ってろよ」
木々の間を風が通り抜けて、俺と火神の髪を揺らしていった。
どこかで鳥が鳴いているのが分かるのだけれど、木が多くてどこにいるのかまでは分かりそうにない。
「帰るぞ」
それから暫くして、火神が俺の手を引いて歩き出した。その後に俺も続いて一歩踏み出してから、後ろを振り返る。
小さなダニーの墓石。それを見てから、俺は火神を呼んだ。

「大我」

滅多に名前で呼ばない俺の声に、火神の足がぴたりと止まる。そのまま振り返らない火神の背中に向かって、俺は口を開いた。

「ここにいるよ」

火神が振り返った。その顔を見る前に、俺はいつかお前に伝えたいって思っていた言葉を贈ることにした。

「おれは、ここに。あんたの隣に。あんたのすぐそばに、おれはいるよ」

その言葉が火神に届いた瞬間、火神の目から幾つもの涙がこぼれていった。ぼろぼろと流れるそれを堪えようとして失敗して、顔を真っ赤にさせた火神に、俺は俺ができる一番優しい顔で笑ってやった。

「大我、そばにいるよ」

必死に伸ばされた手に、自分から身体を寄せた。力の限り抱き締められても、苦しいなんてちっとも思わない。
この手がある場所が、俺の居場所だ。
お前がいる場所が、俺の居場所だ。

だから、大我。

「……りょうた」

今は、俺が胸を貸してやるから。
だから、思い切り泣いて、また明日から元気になろう。
これからも、ここで。

二人で、さ。









20121226
……葉様、リクエスト有り難うございました!