狐疑




例えば、愛というものが目に見えて形作られるものであったのならば、
今、僕とあなたの間に浮かぶ形は、どんなものであっただろう






ぽかり、と。
湖面から身体を浮き上がらせたように、濃密な夜の気配が満ちている部屋の中で、ひとり目が覚めてしまった。
黄瀬は隣に眠っている人を起こさない様に細心の注意を払って、ゆっくりと身体を起こした。
「……」
枕元に置いてある時計の針は、まだ今が目覚めるような時間では無いことを教えてくれたが、どうにもそのまま横になっていることができずに、小さく息を吐き出す。
朝まではまだ遠い。少しの肌寒さに、震える肩を軽く擦って、ベッドの下に落ちているシャツを手に取った。袖を通すだけでボタンは止めない。袖口から覗くのは、いつもと変わらない自分の手だが、ふと、ギリギリ隠れるかどうかの位置、手首の内側の部分に小さい赤い花が咲いているのに気付いた。
行為の最中のことは、頭の中に霧が掛かってしまったようになって、鮮明には覚えていない。だが、確か二人で上りつめようとしたそのときに、彼が自分の手を取ったことは、それだけはおぼろげながら覚えていた。
きっとそのときだったのだろう。
日焼けのしていない白い肌に、頼りなく、けれど確かにそこに咲いている小さな痕。
黄瀬は目を伏せて、シャツを伸ばしてその痕を見えなくした。
嫌なわけじゃない。
それだけは確かなのに、揺れるのは自分の心の何処なのだろう。
眠っている彼をそっと上から見下ろしてみる。色素の薄い髪は寝ぐせが付きやすく、今ももう髪のあちこちが器用に跳ねてしまっている。その髪に触れたい、と黄瀬は思って、そして手を伸ばすのを止めた。伸ばしかけた手はそのまま握りこんで、膝の上に戻す。
そうしてただ、寝ている彼を見ていることにした。
目は閉じられているから、彼のあの全てを見透かす視線は無い。どこかあどけなさを残したまま、だけど彼は、――そして自分も、大人になった。
彼との出会いは中学から。あれから確かに時間は過ぎてしまったけれど、それが何十年以上も経ってしまったようにも感じてしまう。それが感傷なのか、それ以外の何かなのか、黄瀬には分からない。
だが、今この場においては、それは大した問題ではないようにも思えた。


「黄瀬君」


視線を彼から外してしまっていた所為で、呼びかけに対して反応が遅れてしまった。
突然の呼びかけだったが、肩は跳ねなかった。ただ、気付かれないように細く息を吐き出してから、黄瀬は自分を呼んだ彼を呼んだ。


「黒子っち」


隣を見れば、しっかりと目を開けてこちらを見上げている黒子がいた。寝起きだと言うのに、視線に揺らぎは見られない。
彼のそういうところが堪らなく好きで、そして、その反対の感情も浮かんでしまう自分が何故彼の隣にいるのか、疑問に思ってしまう。
「眠れませんか」
「……うん、ちょっと目が覚めちゃって」
「何か飲み物でも持ってきましょうか」
「要らないっス」
「寒くないですか?」
「シャツ着てるから、平気」
そうですか、と黒子の声がして、居た堪れずに少しだけ離れようと身体を動かそうとしたのだが、その動きは右手を掴む彼の手によって阻まれてしまった。
「黒子っち?」
「なんですか?」
「いや、その、手が」
「手が、どうかしましたか」
黒子に掴まれている手に込められる力は、そんなに強いものではない。なのに、外せないのは、


「黄瀬君」


そんなふうに、よばないで


目を閉じて、耳を塞ぎたい。今直ぐにこの部屋から飛び出して、そうして黒子の視線の届かない場所で、ひとりで泣いてしまいたい。
それなのに。
爪が食い込むほど握り込んだ手を、解かせる様に開くのは、どうしたって、彼なのだ。

「傷になります」

ゆっくりと開かれた手のひらに、少しだけ赤い爪の痕が残っている。その痕を見つめた黒子は、黄瀬の手のひらを自分の口元まで運び、そうしてその温かい舌で傷を舐めた。
ちろちろと、子猫が水を舐めるように爪の痕を辿っていた黒子は、黄瀬の顔を見つめながら、今度は指の方へと舌を這わせていく。指の一本一本を丹念に舐め上げていく濡れた音が部屋の中に落ちて、黄瀬は羞恥に頬を染め、視界に入れないように顔を逸らそうとするのだが、黒子が無言のまま、その動きを封じてしまう。

「……っ」

は、と熱い息を吐いて、黄瀬はうっすら涙で滲む視界を持ち上げて、黒子を見た。
黒子は黄瀬の手を掴んだまま、そこで黄瀬を見ている。
黒子は動かない。触れているのは、黒子が掴んでいる黄瀬の手のみ。そこからじっとりと、背筋を這うような抗いがたい熱が、黄瀬に伝わってくる。
唇が震える。
手に力が入らない。
視線は、黒子から外せない。
どうしたって、自分は、彼から逃げることは叶わないのだと、黄瀬は頬を濡らした。

「泣いているんですか」

答えることはできない。

「痛いんですか」

違う、そうじゃない。

「ああ、君は」

そう、自分は、どうしたって、何を代わりにしようとしても、

「ねえ、黄瀬君」


そう、何をしても、



急に身体を引かれて、黄瀬の身体はベッドに沈む。目を開いて黒子を探そうとするより先に、視界を埋めたのは黒子の顔で、気付いたときにはもう口を塞がれていた。
隙間から入り込む舌が、堪らなく熱い。
息継ぎさえできないくらいの執拗さで求めてくるのは目の前の彼なのだ。
その事実を受け入れるために、何度零れる涙を拭っただろう。


「……黒子っち」

呼べば直ぐに返ってくる、彼の声は聞こえない。
代わりに答えるように、脇腹を撫で上げていく彼の手のひらが冷たいことを、黄瀬は泣きたいと思った。






20121107





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