交差する時点から放つ放物線を指し示せ【前編】




声が聞こえる。
自分を呼ぶ、自分だけを呼ぶ声が。

『青峰っち』

ああ、この声は、アイツだ。
アイツだけだ。

「……黄瀬」

ねえ、青峰っち、と柔らかい声で呼びかけるアイツの声が、耳の奥にいつまでも残っている。







「あー、青峰君、やっぱりここにいた」
「……さつきか」
「さつきか、じゃないよ、もう昼休みになるんだよ」
「そーかよ」
「集合、かかってるけど」
「お前が聞いとけばいいじゃねーか」
「もう、またそんなこと言う」
屋上に寝転んで何をするでもなく流れていく空を眺めていた青峰を覗き込んで桃井が声をかけた。
「かったるいんだよ」
「ワガママ」
「うるせえ」
幼馴染の気安さから、ポンポンと交わされる会話の中に含まれる毒は少ない。そこに少しの針は雑ざっているのかもしれないが。
「まあ、確かに今日はいい天気だもんね」
そう言って桃井は青峰の寝ている真横に座りこんだ。
「行かなくていいのか」
「いいわけないじゃない」
だったら、と言うまでもなく、桃井はからりと笑った。
「いいじゃない、たまには」
私もさぼろー、と気持ち良さそうに両手を上に上げて背筋を逸らしている桃井を見ながら、青峰は呟いた。
「さつき」
「んー?なにー?」
「お前、また胸育ったのか?」
バチン、と良い音がして、数秒遅れて青峰の額にじわじわと痛みがやってきた。
「ってーな!お前何かにつけて俺の顔狙うのやめろ!」
「やめてほしかったら、そういうこと言うのやめてよね!」
青峰君の無神経!と頬を膨らませて怒っている桃井の横顔を眺めつつ、青峰はぼやいた。
「ったく、その馬鹿力はいつまで経っても変わんねえな」
「何か言った?」
「何も」
そのまま会話が途切れる。
暫くすると、二人が見上げている空に二羽の鳥が羽ばたいているのが見えた。先を行く一羽を懸命に追いかけている少し小さいもう一羽が、先導している一羽に向かって小さく鳴いた。
ぴい、と高い声が空にとける。
その後追いついた鳥は、二羽仲良く並んで青空を泳いでいった。
「……ねえ、青峰君」
「……なんだよ」
「きーちゃん、元気かなあ」
小さく落とされた言葉に、青峰は僅かに眉を寄せた。
全く、いつまでも一緒にいるとこういったタイミングまで同じようになってしまうものなのだろうか。
桃井はもう空を見ていない。いつも持ち歩いている資料を挟んでいるファイルの表紙に目を落としていた。
「お前がそんなこと気にすんな」
「だって!」
だって、とその先は言わせない。言うことはない。
青峰は両手を使わずに腹筋だけで起き上がった。
「青峰君?」
立ち上がった自分を見上げる桃井の視線に気付かないふりをして、青峰は制服のポケットに突っ込んだままの携帯を取り出した。
簡単な操作をして、またそれをしまう。
「さつき」
「なに?」
「今日の放課後、俺ちょっと偵察?つーか挨拶に行くわ」
「は?」
何を言っているのか、と桃井が目を開いていると、青峰は不敵な笑みを浮かべて目を細めた。
「まあ、安心しろよ」
ちっとも安心できない顔でそんなことを飄々と言う幼馴染に、桃井は心からの溜息を吐いて、今日の部活に青峰がもう出ないことが決定したことについて、キャプテンと監督にどういいわけをしたものか、と肩を落とした。


***


皆が思い思いに昼ご飯を食べている合間に、黄瀬はスマートフォンを開いて今日届いた分のメールの確認をしていたところだった。マネージャーから届いていた次の撮影のスケジュールの確認をしていた丁度その時、メールが届いたことを知らせる振動がしたので軽い所作でそのメールを開くと、思わず声が漏れた。
「あれ?」
「どうした?」
「あ、うん、メールきて」
「メール?」
「……」
「おい?」
「……」
「大丈夫か?」
クラスメイトの呼びかけに黄瀬は顔を上げた。
「……どうした?」
心配げな声に、大丈夫だ、と笑ってみせる。
「ちょっと、珍しい人からのメールだったんで」
それだけ言って、黄瀬は立ち上がった。
「喉、乾いちゃったから自販行くけど、ついでにある?」
「あ、じゃあ俺、玄米茶」
「相変わらず渋いっスね」
「うるせ―よ、立花は?」
「俺はいい」
「ん、分かった。じゃちょっと行ってくる」
背を向けて手を振る。廊下を出て暫くしてから、黄瀬はさっき届いたメールをもう一度呼び出した。最初から読み返す。読み返すと言っても、三行にも満たない短い文だ。
「……青峰っち」
差出人の名前を呟いて、黄瀬は窓に目を向ける。抜けるような青空に、白い雲が眩しかった。


***


ポケットの中で振動している携帯電話を取り出した緑間が、開いた瞬間に眉間に皺を寄せるのを間近で見ていた高尾は、何かあったのか、と緑間に聞いた。
「別に、何でも」
「ないって顔じゃねーと思うんだけど」
さらりと言ってやれば、あからさまに溜息を吐く相棒の姿に肩を竦めてみせる。
「わっかりやすいもん、真ちゃん」
「お前だけだ、そんなことを言うのは」
「涼ちゃんも言ってたよ?」
「黄瀬が?」
緑間の口から出てきた彼の姿を、高尾は頭の中に思い描く。
いつの会話の中でだったか、確か他愛もない話の中でふと高尾が言ったことに返した、黄瀬の言葉のひとつだった。

その日、偶然に街中で出会った黄瀬に、折角だからストバスでもしないかと持ちかけて、三人でコートまで移動して暫くバスケを楽しんだ。休憩、とベンチに向かい、飲み物を買ってくると二人から離れた緑間の背中を眺めつつ黄瀬と二人で話していたときだった。
『真ちゃんってさ、本当に分かりやすいから、からかいがいがあるっていうかさー』
『ね、カズ君』
『んー?なに?』
『緑間っちってさ』
『うん』
『緑間っちって、確かに分かりやすいけど、』
少しだけ俯いていた顔が高尾の顔を正面から見た。
『でもそれって本当に緑間っちのこと分かってくれてる人じゃないと気付かないくらいのものなんスよ』
『そうなの?』
『そうなんスよ』
そういって微笑んだ黄瀬は、だから良かった、と高尾に柔らかい視線を向けた。
『カズ君が緑間っちの隣にいてくれて、良かった』
間近で見たその顔に、高尾は顔が徐々に赤くなっていくのが分かった。慌てて取り繕うとしたのだが、何も言えず、気付いたら黄瀬に抱きこまれていた。
『涼ちゃん?』
いい匂いのする黄瀬の腕の中。伝わってくる相手の熱に驚く程安心できた。
『……あーあ』
『カズ君?』
思わずぼやくと、黄瀬は高尾を腕から解放した。ごめん、苦しかった?と慌てて黄瀬が聞いてくるのに、高尾は首を真横に振って今度は自分から黄瀬に抱き付いた。
『……カズ君?』
黄瀬の胸の辺りに額を当てて、黄瀬の心臓の音を聞く。規則正しく流れる音に、高尾はもう一度ぼやいた。
『真ちゃんが心底羨ましいって思っちゃった』
『何で?』
『だってさー、こんなに優しい涼ちゃんにあんな風に言ってもらえるなんてさー、もうお前どんだけ恵まれてるんだよっていうかさー』
言いながら、我ながら恥ずかしいことを言っているな、と自覚していたのだが、高尾の口は止まらなかった。
『それを本人があんまり自覚してないってとこがさー』
むかつく、とは言わずにそのまま押し黙って黄瀬を抱きこむ力を少しだけ強めると、頭の上から黄瀬の小さな笑い声が落ちてきた。顔を上げると、とんでもなくキレイな顔で黄瀬が笑っている。
『カズ君、可愛いっスね』
『……涼ちゃんの方がカワイイよ』
や、可愛いというより、キレイだ、とか。友だち相手に何考えてんだよ俺、と高尾がぶつぶつ呟いていると、黄瀬が高尾の頭を撫でた。
その優しい仕草に、また顔に熱が集まりそうになる。止めてほしいけど、止めてほしくない。二律背反に唸っていると、頭を撫でてくれている黄瀬の手が止まったことに気付き、それと同時に即座に黄瀬から離れようとしたのだが、少し遅かった。
ゴツン、と脳天に落ちてきた衝撃。痛さの余り目尻に涙が溜まる。ぶつかったものが何なのか衝突の寸前に気付いていたのだが、どうにも黄瀬から離れがたくて反応が遅れてしまった。
『いい痛てっえええええ〜〜っ!』
『何をやっているのだよ、お前らは』
『緑間っち』
緑間の感情の読めない声が上から落ちてきた。その手にあるのは、確か今日のラッキーアイテムのガラスの灰皿だ。
『〜〜っていうかさ!真ちゃん!今日のラッキーアイテムのそれ!よく推理ドラマものとかで結構な頻度で被害者の殺害に使われた凶器ですってアナウンスされるヤツでしょ!どうすんの!本当になったらさ!』
『安心しろ、手加減はした』
『ちっとも安心できないんですけどっ!?』
痛い。半端なく痛い。絶対に明日になったらでっかいコブができている気がする。ヒリヒリする頭をどうにか撫でつけながら緑間を見上げれば、不機嫌、という感情が駄々漏れの顔をして高尾を見下ろしていた。
うわ、ヤバイかな、と内心で焦っていると、黄瀬が高尾の頭に優しく触れた。
『だ、大丈夫っスか?カズ君。今何か冷やすもの持ってくるから』
慌てて駆けていこうとする黄瀬の腕を掴んで高尾は黄瀬を引き寄せた。
『カズ君、そこにあるコンビニ、直ぐに行ってくるから』
『涼ちゃん』
『何スか?』
『さっきのことだけど』
『さっき?』
『涼ちゃんもだよ』
『え?』
『真ちゃんのことを、涼ちゃんが大切に思っているように、真ちゃんも涼ちゃんのこと大切に思ってるんだよ』
俺をあんな凶器で頭殴ってくるくらいにはね?と言ってやると、黄瀬の顔が緑間に向いた。緑間は何も言わずに眼鏡のフレームを押し上げている。その手が黄瀬に伸びると、黄瀬の頭を撫でた。無造作に見えて、そのくせどこまでも優しさしか見られない所作で。
『余計なことを言うな、高尾』
『本当のことじゃん』
『五月蠅い』
『ツンデレ』
もう一度当てられたいようだな、と緑間が振りかぶろうとするのを即座に避けて、高尾は黄瀬の掴んだままの手を引いた。
『あとは、俺も!俺も涼ちゃんが笑ってくれるとめちゃくちゃ嬉しい。モデルのときの顔も嫌いじゃないけど、俺や真ちゃんに向けてくれるような笑顔がめっちゃ好き!』
勢いで叫び、黄瀬の両手を引っ張ると、黄瀬の顔が自分の顔の近くに寄った。自分にできる一番の笑顔で黄瀬を見れば、その顔が花開いた。
本当にそんな風に、黄瀬の顔は笑顔で輝いたのだ。
『俺も、カズ君大好きっス!』
そんな笑顔でそんな言葉を言って貰っちゃったら、しょうがないと思うんだよね、と誰に言うでもなく高尾は納得して黄瀬を引き寄せた。
『涼ちゃん!』
『カズ君!』
二人して思い切り抱き締めあっていると、背後にいたはずの緑間が、凄い勢いで高尾と黄瀬を引き剥がした。
『ふざけてないでさっさと行くぞ』
『え、ちょ、緑間っち?』
そのまま黄瀬の手を掴んで歩いていく緑間に、黄瀬が引き摺られる形になって、長い足が縺れそうになるのを慌てて立て直そうとしているのを高尾は含み笑いで見る。素直じゃないなあ、と笑っていると、黄瀬が高尾に手を伸ばした。
『カズ君!行こう!』
伸ばされた黄瀬の手。モデルをしていると手の先までキレイになるんだろうか、と考えてしまうくらい滑らかな黄瀬の手を高尾は掴んだ。三人並んで手を繋いで、高校生の男三人が揃って何をやっているんだか、と笑ったのもいい思い出だ。

あれはまだ今ほどに緑間と黄瀬を知らなかったときのことだ。緑間は、高尾が黄瀬に対してどういう立ち位置になっていくのか見極めようとしていたのだろう。
そんなに前の話でもないのだが、そのときのことを思い出して笑っていると、緑間が高尾の頭を叩いた。
「気持ち悪い顔をするな」
「ちょっと気持ち悪いって!?ひどくね!?」
「知らん」
ああもう、こいつのこういうところは本当に改善されないな、と高尾が項垂れていると、緑間がメールを打っている音が聞こえていた。
眉間に皺を寄せたままのしかめっ面で打つメールの内容とはなんだろう?俄然好奇心が湧いてしまった。これは是が非でも聞きたい。
パタンと携帯が閉じられた。無言でそれをポケットに仕舞う緑間を机の上に肘をついて見上げると、緑間の眉間の皺が更に寄った。
「……何だ」
「何だと思う?」
「知らん」
「嘘吐け」
「高尾、お前が関わると、余計にややこしくなるからやめるのだよ」
「そんなこと言われて、俺が素直に引き下がるとでも?」
暫く無言でお互いの顔を眺めていると、緑間が大きな溜息を吐いた。勝ったな、と高尾は内心でにやついていると、緑間が重苦しく口を開いた。
「……何が聞きたい」
「さっきのメールは誰からで、真ちゃんは誰に宛ててメールを送ったの?」
眼鏡のフレームを指で押し上げた緑間は、高尾から視線を外した。
「俺がメールを送ったのは黒子に宛ててだ。そして、」
緑間の口がゆっくりと動く。
「俺に届いたメールの送り主は、……青峰だ」


***


黒子は、携帯の画面を凝視していた。何度見ても、何度読んでも書いてあることは同じである。それはそうだ。そうなのだが。
「……いくらなんでも、このタイミングで、ですか」
「おい、黒子、お前昼飯食ったのか?……って、おい、大丈夫かお前」
すげー顔色悪いぞ、と火神が黒子の顔を見て声を上げるのを呆然と見上げていると、火神の眉間に皺が寄った。
「おい、黒子?」
「火神君」
どうしようもないのは今更だった。
逃げるなんて事は最初から考えてない。スタートラインからはとっくに離れている。自分も、目の前の彼も。
その先にいるのは、彼だ。
「なんだよ」
「今日の放課後、時間ありますか」
「あるけど?何かあったのか?」
火神は黒子の正面の椅子を引いて座る。黒子は一つ大きく息を吸い込んでから、火神の目を見据えて言った。
「ついさっき、緑間君からメールがありました」
「緑間から?」
「彼には、いくつかお願いしていることがありまして。今回のメールもその一環です」
「お願いって言うと、」
「黄瀬君に関することで、ですよ」
「黄瀬に何かあったのか?!」
「違います」
ガタン、と椅子を蹴倒して立ち上がった火神を、黒子は冷静な目で見上げた。
「まあ、正確に言えば、これから起きるというか」
「何だよ、それ」
「火神君、はっきり言います」
「おう」

「今日、青峰君が黄瀬君に会いに行きます」

黒子と火神の間に重たい沈黙が下りた。気の所為か、まだまだ暑いはずなのに妙に背筋が冷たく感じる。
「……おい、それって」
「不味いですよね」
「だから、放課後……」
「そうですよ」
黒子は手元に置いてあるジュースのストローを咥えて一口飲み込んでから、また口を開いた。
「まあ、直接会って話してみないことにはなんとも言えませんが、先を越されたのは確かです」
宣戦布告はあちらからのようですよ、と黒子が言うのに合わせて、火神は試合中のときでも見れない様な真剣な眼差しを作った。
「時間は」
「黄瀬君の練習が終わった後に落ち合うようです」
「じゃあ、遅くても八時か」
「そうですね」
「……行くんだろ?」
火神が左手の拳を向けてくる。
「勿論です」
その拳に自分の拳をぶつけて、黒子は立ち上がった。


***


「お疲れ様でしたっ!」
放課後の練習が終わって、皆で大声で挨拶を交わす。今日の連携は上手くいった、あの時のパスはもうちょっと早い方がいい等、今日一日の成果を皆で話し合いながら黄瀬は体育館に散らばったボールを片付けていた。
「おい、涼太」
隣にいつの間にかやってきた加藤が黄瀬に声をかけた。
「なに?キチロー」
「……」
「キチロー?」
呼んだわりに押し黙ってこちらを見ている加藤の眉間の皺が濃い。黄瀬は人差し指でその皺を突いた。
「キチロー、あんまりここに皺寄せてると、笠松先輩みたいにとれなくなっちゃうよ?」
「うるせえ。誰の所為だ」
「……誰のって、俺の?」
「まあ、半分くらいは」
「多いっスね」
「自覚しろよ」
腕を組んでふんぞり返っている加藤だが、身長の所為でいまいち迫力に欠ける。
「キチロー、お疲れさま」
同学年にこんなことを思うのも何だが、その様子が微笑ましくなってしまってつい頭を撫でてしまったら、すごい形相で手を掴まれた。
「撫でんな!縮んだらどうしてくれる!」
「えー、可愛いと思う」
「よし、分かった。お前覚悟しろ」
手の骨をいい音で鳴らしてくる加藤に慌てて謝りながら黄瀬は手を合わせた。
「冗談!冗談です!」
今度やったら、覚えてろよ、と怖いことを言われたが、多分同じことをやってしまうだろうな、と加藤には大変失礼なことを思いながら、とりあえず黄瀬はこくこくと頷いておいた。
「で、お前、どうしたんだよ」
「何が?」
ぽかん、とした顔で加藤を見れば、なんだか溜息を吐かれた。
「え、なに?」
「お前なあ、」
身長の割に大きな手で加藤は黄瀬の頭を掴んだ。
「い、痛っ!なに、急に!」
「そういうの、ちゃんと自覚しろよ」
だから、何が、と黄瀬が顔を上げれば、思いの外真剣な顔をした加藤がそこにいた。
「俺じゃまだ頼りないだろうけどな、俺じゃなくても笠松先輩や、小堀先輩、森山先輩に頼りになる先輩は他にもいるだろ」
くしゃりと黄瀬の頭を撫でた加藤は、不器用な声を出した。
「溜めんな。吐き出せ。それくらいここにいる皆は受け止められる」
ああ、心配されていたのか、と黄瀬は思った。
「キチロー」
「なんだよ」
「ありがと」
黄瀬は手を伸ばした。ギョッとした顔をした加藤に気付かないふりをして、その自分よりも低い頭を抱え込んだ。
「ちょ、おま、涼太!」
「ふーふーふー、キチロー、捕まえたー」
「やめろよ!お前、ふざけんなあっ!」
さっきの仕返しだ、とぐりぐりと頭を撫でてやる。自分の胸元に抱きこんでいるから、どれだけ怒っていても顔が見えない分怖さが少ない。
背が大きいって、こういうときに便利だよなあ、と加藤が聞いたら烈火の如く怒りだしそうなことを呑気に考えていたそのとき、廊下の方からバタバタと慌ただしい音が駆けてくるのが聞こえて黄瀬は視線を入口に向けた。
「黄瀬っ!」
はたしてそこにいたのは、二年の早川だった。
「早川先輩、どうしたんスか?」
肩で息をしながら早川が黄瀬の元に急いで近付いてくる。加藤を抱えていた両手を離して、早川に向き合うと、何やら只事ではない事態が起こっている様な真剣な瞳をした早川が口を開いた。
「お前、今日はう(ら)からあが(れ)」
「ええ?なんでっスか?」
首を傾げて黄瀬が言えば、早川は言い淀んだ。
「早川先輩、何があったんです?」
黄瀬の隣にいた加藤が早川を見上げて聞けば、早川は頭を掻き毟って答えた。
「来てんだよ」
「来てるって、」
誰が、と黄瀬が尋ねようとしたとき、唐突に今日の昼に届いたメールを思い出した。あの後直ぐに返信したあのメール。内容は、確か。
「……桐皇の、青峰だ」
早川の言葉を最後まで聞かずに、黄瀬は急いでその場から駆け出した。


***


「だから、いねえって言ってんだろ」
「嘘吐かないでくれよ、センパイ」
「何でそれが嘘だって分かんだ」
「俺に隠せるとでも?」
小馬鹿にしたような顔で笑う二年も下の他校の後輩に、笠松は苦虫を噛み潰した顔をした。
「ちゃんと正面から来たってのに、なんでここで足止め食わされるんだよ」
「相手がお前じゃなけりゃ、俺らも文句は言わないんだけどな」
森川が軽く息を吐きながらそう言って、青峰に鋭い視線を向けた。
「ひでえな」
「どっちがだよ」
ロッカールームの入り口前の廊下で、青峰に対して笠松、森山、小堀の三人が道を経ち塞いで暫く経つ。突然現れた青峰に驚いた二年が慌てて笠松たちに報告して、ミーティングの為に先に上がっていた笠松たちが急いで廊下に飛び出し、それから青峰がそれ以上先に進むのを食い止めていた。
「って、何時までもここにいても話が進まねえからさ、さっさと出せよ」
「断る」
「いるんだろ?黄瀬」
いない、と笠松が言い切ろうとしたそのとき、廊下の先から声が響いた。
「青峰っち!」
あの馬鹿、と笠松が心中で罵倒しながら振り返ると、黄瀬がこちらに向かって急いで駆けてきた。現場の状況をさっと確認すると、黄瀬は大きく息を吐いた。
「先輩、スンマセン!」
そしてその場で頭を下げた黄瀬に、笠松を始めその場にいた三年、二年は急に謝った黄瀬に頭の上に疑問符を飛ばした。
そして黄瀬は笠松と青峰の間にさっと身体を割り込ませた。
「ちょ、黄瀬っ」
焦って森山が黄瀬の肩を掴もうとしたのだが、笠松がそれを止めた。
「青峰っち」
「よお、黄瀬」
悪びれもなく青峰が薄く笑うのに、黄瀬はがくりと肩を落とした。
「今回は、まあ俺がうっかりしていたからっスけど、次からはもうちょい早めに連絡くれると嬉しいっス」
「あんだよ、我儘言うな」
「俺のこれがワガママって言うなら、普段のアンタのなんて暴言もいいとこっスよ!?」
大げさに嘆いてみれば、どこ吹く風、というように青峰は明後日の方を向いている。普段の桃井の心労を思って、黄瀬は額に手を置いた。
「ああ、もう、桃っち、本当にいつもお疲れさまっス……」
「なんでそこでさつきが出てくんだよ」
「自分の胸に手を当てて考えてみて下さいっス!」
「俺が俺の胸触っても、楽しくもなんともねえ」
「アンタ本当にしょうがないな!」
呆れたように黄瀬は言って、くるりと回って今度は笠松たちに向き合った。
「本当にスンマセン、先輩。俺今日青峰っちと約束してたんス。迎えにくるって言われてたんだけど、なんかうっかり忘れてて……」
ああ?忘れてたのかよ!?と青峰が背後で叫んでいるが黄瀬はさらりと無視をした。
「直ぐに連れていきますから、ホント、お騒がせしてスンマセン」
「それは、いいけど、黄瀬お前、」
小堀が心配げに黄瀬に手を伸ばそうとしたとき、黄瀬の背後にいた青峰の手が先に伸びて黄瀬を捕まえた。
「ちょっ、」
「ま、そーいうわけで、コイツ借りてきますんで」
黄瀬の脇から両腕を出した青峰は、黄瀬の腹の前で緩く腕を組む。黄瀬の肩に顎を乗せてにやり、と嫌な笑みを見せた青峰に、笠松たち三年を始め、その場にいて事の成り行きを見ていた海常の皆は一様に青峰に対して殺気だったのだが、次の黄瀬の行動でそれらは雲散してしまった。
「こら、青峰っち」
「いてっ、なんだよ」
自分の顔の真横にある青峰の顔に向かって、黄瀬が右手で叩いたのだ。奇しくも昼間に桃井が叩いた場所と同じ額に当たったのだが、黄瀬はもちろんそんなことは知らない。
「いくら青峰っちでも、俺の先輩たちに対してその態度は頂けないっス」
怨めしそうな顔をする青峰に、黄瀬は至近距離で小言を言った。
それに対して青峰が口を開く前に、黄瀬は青峰の手を離そうとした。
「そんじゃ、俺着替えてくるっスから、ちょっと待ってて」
「おい、黄瀬」
「?なんスか」
着替えに向かおうとした黄瀬をもう一度引き留めて、青峰は黄瀬を引き込んだ。
「急げよ、シャワーなんていいからよ」
「ちょ、アンタ、どんだけ横暴なんスか!シャワーぐらい浴びさせてよ!俺ほら、汗臭いし!」
そういって離れようとする黄瀬に向かって、青峰はそれはそれは悪い顔で笑った。
あ、ヤバイ、と黄瀬が思ったときにはもう遅かった。

がぶり。

「痛ってえ!」
「嘘吐けよ、そんなに強く噛んでねえぞ」
「アンタのそんなに、は全然そんなにじゃないっスよ!」
「しかしまー、お前相変わらずキレーな肌してんな」
「ちょっと人の話聞いてくんないっスか!?って、ぎゃあああっ」
「うるせ―よ、叫ぶな」
「叫ぶわ!アンタ何してんの!?」
「何って、舐めた」
悪びれもせずに青峰が言う。弱い耳の裏を舐められた黄瀬は涙目になって青峰を引き剥がそうと躍起になっていた。
「もーやだ!青峰っちの大馬鹿!」
「んだコラ」
黄瀬の手を掴んで更に自分に引き寄せようとする青峰を、黄瀬は渾身の力を込めて押しやろうとした。その時、この前青峰とよく似た体格の火神に同じ様に耳を舐められたときのことを思い出してしまって、黄瀬は一気に顔を赤らめた。
あの時と今では全然違う。何故って、青峰は、

「校門のとこで待っててやるから、急げよ」
さらりと黄瀬の身体を離した青峰はそう言ってその場から去っていった。去り際に黄瀬の頭を乱暴に撫でて。それを誰も止めようとはしない。それよりもついさっきの青峰の行動が皆の動きを止めていた。
「〜〜ったくもう!本当に自分勝手なんだから……」
首を撫でつつ、手櫛で髪を整えながら黄瀬がぼやいている。笠松は声をかけようとするのだが、生憎思考がショートしていて口から何も出てこない。そんな笠松に代わって森山が黄瀬に声をかけた。
「あー、あのさ、黄瀬」
「はい、なんスか?」
「さっきの……」
「さっき?」
「青峰がお前に……」
それ以上を口にするのが戸惑われて微妙に黄瀬から視線を外した森山に黄瀬は、ああ、と軽い声を上げた。
「青峰っち、噛み癖があるんスよ。帝光中でも部活のときとかにふざけてしょっちゅう噛まれてたんス。加減してくれればいいのに、結構本気で噛んでくるから本当に痛くって。歯型とかくっきり残っちゃうから、撮影の前は絶対に止めてくれってお願いしたりして、そしたら見えないとこならいいよな、とかよく分かんないこと言って際どいとことか噛もうとするから、もう本気で逃げたりして」
さすがに高校になったら直ると思ったんスけど、変わってないなあ、青峰っち、とからからと笑っている黄瀬に対して、誰も突っ込めない。
それは確信犯だ、と言いたかったのだが、あの一瞬の青峰の視線を見た笠松は少し違う、と分かってしまった。
さっき、青峰は黄瀬の首筋を笠松たちに見せつけるように思い切り噛んで見せたのだ。その後の二人のじゃれ合いの最中も、青峰の視線は黄瀬ではなく、こちらを向いていた。呆然と目を開く自分たちをからかうように、煽るように。
その試すような視線に気付いた。あれは威嚇だ、と。

「それじゃ、お先に上がります!」
いつの間にか着替えた黄瀬が笑顔で頭を下げた。そのまま小走りで駆けていこうとする黄瀬に、笠松は叫んだ。
「おい、黄瀬ぇ!」
「はいっス!」
直ぐに立ち止った黄瀬に笠松は練習のときと同じくらいの大声で言った。
「青峰に何かされたら、直ぐに言えよ!」
きょとんと目を開いた黄瀬は、直ぐに笑顔になった。そして叫ぶ。
「大丈夫っス!」
そのまま手を振って去っていく後姿を見つつ、笠松は重い溜息を吐く。
「……大丈夫って、ことはあれだな。黄瀬はちゃんとあれがどういう意味なのか分かってるってことだろう?」
森山が言えば、笠松は仕方なく頷いた。
「……なんだかな」
「本当にな」
隣にいた小堀の声に、笠松は視線を向ける。
「お前も、分かったか」
「そりゃあなあ」
中学時代の彼らの関係は自分たちも詳しくは知らない。だけれど、あの僅かのやり取りの間で、少しは分かってしまった。
青峰が黄瀬に向けて仕掛けるあれは、どこまでも不器用で、がむしゃらで、そして真剣な、拙い守り方だと。
「マーキングみたいなもんなのかな」
「黄瀬に、手を出せるものなら出してみろって?」
片眉を上げた森山に笠松はさあな、と素っ気なく返す。
「中学生のガキが思いつくのはそんなもんだったんだろうけどよ」
分かったところで、だからと言っても面白いわけじゃない。あんな風に黄瀬を振りまわせる青峰が癇に障る。
そんなことを考えつつ、ふと笠松は気付いてしまった。黄瀬は気の許した相手に対してはスキンシップが過剰だ。同年代の男だろうとなんだろうと関係なく平気で抱きついてくる。それはひょっとしてあの青峰とのじゃれあいから発展したものではないのだろうか、と。普段からあんなに過激な、一つ間違えばとんでもない噂が立ちそうなやりとりを毎日の様に受けていたとしたら。黄瀬の周りに対しての線引きが緩んでも仕方ない。
黄瀬の過剰なスキンシップについて日頃から注意している身としては、その理由、というか根本的な原因が目の前で突きつけられたのだ。もうなんとも言えない。
「まあ、多少はお眼鏡に叶ったみたいだな」
小堀が苦笑して言えば、馬鹿言うな、と笠松は吐き捨てた。
「他校の一年に舐められたままで堪るか」
そして直ぐに笠松は携帯を取り出してメールを打ち出した。
「笠松?」
「誰に送ってんだ?」
「黄瀬だよ」
よし、と送信ボタンを押して笠松は満足気に息を吐く。
「なんて送ったんだよ」
「決まってんだろ」
森山の疑問に笠松はあっさりと答えた。
「『青峰に伝えておけ。次に勝つのは俺たちだ』」
「それはそれは」
「分かりやすい宣戦布告だなあ」
森山と小堀が苦笑していると、背後から三人に向かって声が掛けられた。
「先輩」
「何だ?加藤、立花」
普段からよく黄瀬とつるんでいる加藤と立花が三人の傍に立っていた。
「体育館の使用時間ギリギリまで練習しててもいいですか」
立花の声に、笠松は目を開いて、そして直ぐに頷く。
「いいだろう、監督には言っておくから、好きにしろ」
「有り難うございます」
それだけ言って体育館に戻っていく一年生二人の背中を見ていると、何人かが、俺も行きます、と戻っていった。
「あーあー、火を点けられちゃったなあ」
森山がさも可笑しそうに言えば、小堀もそうだな、と相槌を打つ。
「俺らもさっさとミーティング終わらせてやるか?」
森山が笠松に視線を向けてお伺いを立てると、
「当然だな」
と、笠松は不敵に笑った。

「黄瀬がもうあいつらだけのものじゃないってことを、思い知らせてやらないとな」









20120919





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