Why need I go through the escape?



この場から逃げることも案外簡単にできるだろうけれど、それ以上に動けないこの現状に思わず舌打ちしたくなる気分だってことを理解しろとは言わないが、切れ端くらいは察して欲しいと願うのはいけないことだろうか。



「なあ、」
顔の直ぐ傍、耳元近くでの甘ったるい声での呼びかけに、黄瀬は眉を顰めてみせた。
「……なに」
ぶっきらぼうに聞こえるように、故意に声をそっけなくしているというのにどうにも相手には伝わっていないことが雰囲気で分かってしまって非常に頭が痛い。
「逃げねぇの?」
どの口が言うか。
黄瀬は笑いたくなった。
「逃がしてくれんの?」
「さあ、」
どうしようか、と言外に付け加えて笑う目の前の男が非常に腹立たしい。思わず握り込んだ拳でその顔を殴りつけてやろうか、と考えながら、黄瀬は小さく息を吐いた。
乗っては駄目だ。相手の思う壺になるのは自分のプライドが許さない。それでなくても気が付いたら不利な体勢にいつの間にか持ち込まれていたのだから、これ以上の失態は晒すわけにはいかない。
鼻から吸い込んだ空気を口から吐き出す。それから睨みつけるように視線を合わせてやった。
「俺、もう帰りたいから、そこどけよ」
「帰んのかよ」
「そりゃあね、まさか泊まるわけにはいかないっしょ」
「泊まってけばいいじゃねえか」
お前な。
背中は壁。両脇には相手の腕が檻の様に自分を囲っている。至近距離には憎たらしい顔で笑う男――火神の顔がある。深夜とまではいかないまでも、それに近い時間帯だ。そんな時間に何が悲しくて、友人の家のそこまで広くもない廊下の壁に俺は身体を押し付けられた上身動きとれなくなっているんだか。
現状を嘆きたいが生憎そんなことをしている場合でもない。このままでいれば自分にとって宜しくない事態になるのは目に見えている。
……既に起きているのかもしれないけれど、それは気付かないふりだ。
「いいから、離せよ」
目の前の身体を右腕で押して、左手で進路を確保しようとしたのだが、それが逆に仇となってしまった。
「ちょ、なに」
壁から背を離したことで開いた隙間に火神が手を差し込んできた。そして腰を抱き込まれていっそう引き寄せられる。そこまで差のない身長の所為で顔が近い。というか近過ぎる。唇までの距離があと数センチもない。ぎょっとして顔を引こうとしたが、それよりも火神が顔を傾ける方が早かった。
ちゅ、と音を立てて唇が触れた。直ぐに離れたと思ったらまた触れて、そして今度は軽く吸われた。思わず肩が跳ねると、火神が笑ったのが分かって顔に熱が集まる。
「ばっ、かやろ、離、」
離せ、と言おうとしたのだが、それは途中で遮られた。なんとか腕を火神と自分の身体の隙間に挿し込んで火神の身体を引き離そうとしたのだが、その際に離れた口から無意識に飛び出した罵倒が火神にちゃんと伝わる前に、今度は舌が口に潜り込んできた。
口の中に火神の舌がある。そう気付いたのはその舌に自分の舌がすくわれたときだったのだから、既に遅すぎた。
「ふ、んんっ!」
自分の舌で押し返そうとしても、逆に絡めとられてしまう。耳が拾うのは火神と自分の口の隙間から零れる濡れた音で、居た堪れないったらない。このままでは相手の思う壺だというのに、身体から勝手に力が抜けていくし、いつの間にか両腕は火神の二の腕にしがみ付くようになっているし、どうにか逃げ出そうにも思考は霞んでしまって纏まらない。
「っ!」
その内、好き勝手に自分の身体を辿る火神の手がいきなり臀部を揉み込んできた。驚き目を開くと、いつの間に開いていたのか、火神がうっすらと目を開けてこちらを見ていた。
カッとなった。男の尻なんて揉んで楽しいものか、となけなしの力を振り絞って不埒な手を叩き落そうとしたのだが、火神の二の腕を離してしまった所為で、火神は自分の尻を掴んだまま、あろうことかこの身体ごと抱え上げたのだ。
足が宙に浮く。その不安定さに咄嗟に火神の首に腕を回してしまった自分は迂闊の一言に尽きた。
そのまま悠々と運ばれた先は、火神の寝室のベッドの上で、ゆっくりと下ろされた上に覆い被されたまま、いっそう舌が潜り込んできて身体から勝手に力が抜けていく。押しやろうとしても両腕に火神の身体を撥ね退けるだけの力はもう残っていなかった。
火神の昂りが衣服ごしに擦り付けられる。その熱に背筋がぞくりとなった。
「……なあ、」
ここにきて久しぶりに火神の声を聞いた。涙で滲む視界の先で、こちらを見下ろしている火神は、瞳の中に消えない熱をチラつかせている。その名に冠している火よりも、きっともっと熱い熱を言葉に乗せて差し出してきた。

「逃げねぇの?」

最初の問答と同じ言葉。なのにその熱は比べるまでもない。
馬鹿だ。
目の前で余裕があるように見せつけている癖に、自分を抱き締めている腕は決して逃がさない、とでも言うように力を込めている目の前の男も、そんな男の熱に中てられて、浮かされるようにその先を望んでしまっている自分も。

「……ほんとう、すくいようがない、ばかだな」
「黄瀬?」
「あーあ、」

もうなあ、しょうがないよなあ。

両足をそろりと持ち上げて、火神の腰を挟み込む。火神が驚いた様に目を開いたと思ったら、その次にはどうしようもないくらいに喜色を浮かべて俺の名前を呼んだ。
甘ったるい、胸焼けしそうな声で。

ああもう、ほんとうに。

カチャ、とベルトが外される音が聞こえた。多分それが最後にちゃんと認識できた、耳が拾った音だった。








20121003





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