星は案外遠くない
ぼんやりとした月の日に母と二人で見上げた夜空は、なんだか水の中で見ているようにおぼろげで、手を伸ばしても届かない、
そんな気持ちになる様な、ある日の夜のことでした。
「雪、ほら」
母に呼ばれて顔を上げると、母が笑いながら雪の背中に半纏をかけてくれるところだった。
「女の子なんだから、寒い格好はあんまりしちゃダメよ」
母の気遣いに首を縦に振ることで返事をすると、雪は半纏の裾を小さく握り膝を抱え込んで視線を膝の上に埋めた。
「雪、どうしたの?」
母の心配げな声に雪は顔を上げられないまま、また首を今度は横に振った。
「そっか」
それだけ言って、母は何も言わずに雪の横に腰を下ろして座りこんだ。
隣から伝わってくる温かい体温が、雪の心に少しずつ降りてくる。じんわりと、ゆっくりと時間をかけて、でも真っ直ぐに。
こうやって届く何かが、自分の中のどこかに溜まって、いつか別の人に渡せるようになるのだろうか。
雪は少しだけ顔を上げて、隣にいる母の顔を見つめた。
母は、真っ直ぐに夜空を見ていた。
その瞳は今までに見たことのない色をしていた。
「……かあさん?」
拙い声で呼ぶと、母は空から視線を外さないで、雪の名を呼んだ。
「雪」
その声があまりに優しい響きだったので、雪は滲んだ目元を乱暴に拭って何でもないふりをする。
「そんな強く擦ったら、目が赤くなっちゃうよ」
見えてないはずなのに、そんなことを言われてしまうと、雪は素直にならざるを得ない。
「だいじょうぶだよ、わたし、弱くないもの」
でも、多少の憎まれ口は叩いてしまう。視線を手元にさ迷わせていると、母がふと口を開いた。
「こんなね、夜空だったのよ」
未だに空を見上げたままの母が、そういって何かを惜しむように笑った。
それがなんなのか、雪には分からない。だけれど、それはきっと母にとってかけがえのない、大切なものなのだろう、と。雪には分かった。
そして、思ったことを素直に口に出してしまう。
「とうさんの、こと?」
はたしてそれはあっていたのだろう。
言葉にしないで頷いた母の横顔は、今まで見た中でも一等キレイだった。
「とうさん、どんなひとだった?」
雪の問いに、母はふと笑って、そうして言葉を紡ぐ。
「ステキなひとだったよ」
そっか、と雪は呟いた。
娘の欲目を抜いてみても、母は雪にとっては見本にしたい一番の女性だ。そんな母が褒めるひとだったのだ。
父の姿は、あんまり覚えていない。
でも、匂いだけは覚えている。
ここは、父に近い匂いがする。
だから母はここを選んだのだろうか、と雪は思っていた。
「いつか、わたしにも、できるかな」
独り言に近い小ささで呟いた言葉は、母に聞こえていたらしい。
「できるよ」
それが至極当たり前だ、と言う様な呆気なさで言われた言葉に、雪は純粋に疑問に思う。
「どうして?」
そんな雪の疑問に、母は朗らかに笑った。
「だって、私とあの人の娘だもの、雪は」
それがまるで全ての疑問の答えの様に。
雪は頷いて、そして母に倣って夜空を見上げた。
零れて落ちてきそうな星空の下で、あの幾つもある星の様に、地上にいるたくさんのひとの中で、自分を見付けてくれるひとがいるということを思って、雪は笑みを浮かべる。
「……案外、もう傍にいると思うんだけどね」
そんな母の言葉は、空を見上げていた雪には聞こえなかった。