潜熱




「暑いね」
と、返されれば、
「暑いです」
と、返す。
「雲が大きいね」
と、返されれば、
「大きいです」
と、返す。
「ねえ、黒子っち」
と、彼が呼べば、
「なんですか」
名前も呼べずに素っ気なく返すしかできない自分に、彼は、
「夏だねえ」
と、ただ一言。そういって、抜ける様な青空を背景に、眩しそうに目を細めた。
「夏ですよ」
ぽつんと落とした自分の言葉にさも嬉しそうに鸚鵡返しだ、と彼が笑えば、それだけで自分の視界はきらきらと輝いて、まるでそこだけ切り取られた完璧な世界の中に迷い込んでしまったような、そんな気持ちになった。
あの暑い夏の日の、自分と彼の二人だけの、二人しか知らない会話の中で。
僕は何か途方も無いものを前に立ち尽くした。


***


部活の終了を告げる声と解散の合図の後、いつもだったら青峰に向かって1on1をせがんでいるはずの彼が、どこかぼんやりとした顔でバスケットボールを掴んだまま体育館の真ん中近くに一人佇んでいた。そう遠くない場所からそんな彼を見付けてしまったのはどうやら自分だけの様だった。
表面上は普段通りに見える。その明るさが消えてしまったわけではない。だけど、置いてけぼりをくらった子犬の様な、寂しいけれど寂しいと伝える術を持たないから何も言葉にできない、そんな目をしている彼を放っておけるわけもない。
胸の奥が少しだけつきりと痛んだけれどそれを無かった事にして。だから、別にこれは深い意味は無いんだ、と自分にいいわけをしながら黒子は黄瀬に声をかけた。

「――黄瀬君」

それが、彼と自分の短い夏休みの始まりになるとも知らずに。


***


「ねえ、黒子っち」
もう何度かの呼びかけに、黒子は小さく溜息を吐きながら横を見た。
「黄瀬君、何度目ですか」
「だって、」
「だってじゃないです」
にべもなく言い切れば、うう、と言葉に詰まった顔をした黄瀬が目尻にうっすらと涙を溜めてこちらを見てくるので勘弁して欲しい、と黒子は思う。
「気にしなくていい、と言ったでしょう」
「でも、折角黒子っちのおじいちゃんとおばあちゃんに初めて会うのに、手ぶらで行くのは……」
「そんなこと、まだ子どもの僕らが気にするようなことじゃないんです」
きっぱりと言い切れば、はい、と小さく返事が返ってくるのだが、これももう何回も繰り返した問答なのだ。いい加減そろそろ腹を括れ、と言いたいが、彼のそういった気遣いには少し感心してしまうところも無いわけでは無いので。
自分たちよりももっと早くにモデルという仕事について大人の世界に身を置いている彼だ。大人に囲まれて仕事を続けている彼がこういったときに手土産を持参してこようとする気持ちが分からないでもないが、お互いまだ中学生なのだ。子どもなのだから、そんな気遣いは無用だ、と昨日から何度も告げているというのに、黄瀬はまだ不安そうだった。
「ほら、見えてきましたよ」
だから、少しだけ視線を逸らせてやる。今ここにいる彼は、自分と何ら変わらないただの子どもであるのだと、そう思っていてほしい。バスケをしているときや、学校でくだらない話をしている時の様な屈託ない顔で笑う彼を見たい。そう思うことは悪いことではないはずだ。
黒子の声に黄瀬が顔を上げる。道が悪い為にグラグラと揺れるバスの中で、木々から零れる光が黄瀬の顔に射した。きらりと瞳が煌めいて、そうして黒子に視線を向けた。なるべく自然に見えるように笑ってやれば、きっと彼もいつもの様に笑ってくれるはずなのだ。
「わあ……」
黒子に促されて視線を向けた先、目の前に広がる田園風景を見て、バスの立て付けの悪い窓を思い切り開けた黄瀬が感嘆の声を上げて綻ぶように笑うのを黒子は隣で眺めていた。


***


夏休み、残り三日間を残して、帝光バスケ部は新学期前の短い夏休み期間を取る。与えられた期間の中で、全力の遊びに講じるもよし、手付かずのままの終わらない宿題に励むもよし、何もせずに夏の間部活で扱かれた日々を思い出しつつ、新学期から始まる新たな練習メニューに顔を青褪め引き籠るもよし、まあ兎に角として短い夏休みを各々が満喫できる機会に誰が何をしようと羽目を外し過ぎさえしなければお咎めは受けないのだから、未だじりじりと眩しい日差しが照りつけるアスファルトの上に広がる目の前の夏を謳歌せんと諸手を上げて体育館から駆け出した皆の背中を誰も責めたりはしない。それが昨日の午後の話だ。いつもの黄瀬ならば、そんな群の中に一目散に駆けこんで直ぐに混ざってしまいそうなものなのに、彼はただそんな皆の背中を眺めながら体育館の中で佇んでいた。ただ一人で。黒子が声をかけなければいつまでもそこにいたのかもしれない。黄瀬に声をかけたのは、初めて見た揺れる瞳にどうかしたのかと理由を聞きたいと思ったからだ。
「明日から三日間、皆と会えないんスね」
ぽつりと落ちた言葉に黒子は黄瀬を見上げた。
「夏休み始まる前に、赤司君がミーティングで言っていたでしょう?」
確認の為そう言えば、忘れてたっス、と眉を下げた彼に、この場に赤司がいないことを素早く確認して黒子は溜息を吐いた。
「赤司君の言った言葉は、全てもれなく忘れずに覚えていて下さいね」
「……はいっス」
黄瀬も自分の発言の危うさに気付いたのか、慌てて周りを見渡して黒子と同じ様に溜息を吐いた。
「……それで、君はなんでそんな顔をしているんです」
本題に入ろうと黒子が黄瀬の目を見ると、黄瀬は睫毛を少し伏せて、はは、と小さく笑った。
「俺、そんなに変な顔してたっスか?」
無言で頷いてやれば、黒子っちには隠し事できないっスねえ、とぼやきつつ気まずそうに口が開いた。
「……母さん、今家にいなくて。じいちゃんの実家に帰ってるんス。毎年俺もついていくんだけど、今年から俺バスケ部に入ったし、夏休み中も練習や合宿がずっと続くから、今年は母さんだけで行ってきてってお願いしちゃった。だから明日から、俺家に一人なの、ちょっと寂しいなって思って」
それだけっス。変なこと言ってゴメンね。
苦笑した黄瀬は黒子に向かって素直に謝った。だが、黄瀬の言葉を聞いていた黒子はもれなく怒っていた。
何故そこで謝るのか、黄瀬のたまに見せるこういった遠慮が黒子は堪らなく歯痒く感じる。寂しい、と言いながら、同じ口で直ぐにごめんね、と謝ってしまう。
もっと素直になればいい。素直になって、そうして受け入れることを知ればいい。
春に彼がバスケ部に入部してから教育係として傍にいてずっと思っていたことだ。直接伝えたことはないので、黄瀬が知ることはないのは知っていてもそれでも納得ができないのは自分もまだ子どもだからだろう。
黒子は黄瀬の手を掴んだ。
黄瀬が驚いた様に目を開いて黒子を見る。真下から見上げた黄瀬の瞳は、夏の太陽の光のようにきらきらと輝いていた。
「黄瀬君」
誰も、この手を取る人がいないと君が言うのなら、
「君の三日間、僕に下さい」
それなら、遠慮なんてしている自分が馬鹿らしいじゃないか、と開き直るくらいはできるのだ。


***


黒子は毎年夏に、父方の祖父母に会いに田舎に一人で行くのが恒例行事になっている。初めて一人で祖父母の家に出掛けることになったのは小学三年生の時で、あの時はうっかり電車を乗り過ごしてしまって大変な目にあったりもしたが、それ以降も毎年一人で祖父母の家に向かうのは、早く世に慣れろ、という父母の願いもあったのか無かったのか。聞いたことはないので自分には分からないが、何にせよ黒子はこの日を毎年楽しみにしている。
滅多に会えない祖父母の元気な顔を見るのも好きだし、都会では見ることのできない田舎の風景は、いつまでも眺めていて飽きることがない。なにより静かな田舎は黒子にとって落ち着くことができる数少ない場所のひとつだった。
去年もこの最後の三日間に祖父母の家に訪れた。今年もそうすることは夏休みが始まる前に連絡して伝えていたのだが、友人を一人連れていくと出発の前日になって話すことになったのは、あちらの都合も構わないで頼む為に申し訳なさが先に立った。だが、祖父母の是非連れておいで、という温かい言葉に素直に甘えることにした。
翌日の朝、早い時間に駅で待ち合わせをして合流した時、黄瀬はそんなに大きくないボストンバッグ一つを肩にかけて落ち着かない視線を左右に向けていた。挙動不審なそれにどうしたのか黒子が聞けば、二人に渡すお土産は何がいいのか、と尋ねられるに至って、黒子は黄瀬の頭を軽く叩いたのだ。
だって、と追いすがる黄瀬に早くしないと電車に間に合わない、と無理矢理手を掴んで引っ張っていったのは二時間くらい前のことだ。
今黄瀬は目の前に広がる田舎の風景に心を弾ませて満面の笑顔を外に向けている。年相応のその顔に黒子が内心で安心しながら笑っていると、黄瀬が急に振り返ったので、黒子は顔に出さずに少しだけ驚いた。
「黒子っち、すごいね、キレイだね!」
頬を僅かに染めて、嬉しそうに笑う黄瀬を間近で見ることになった黒子は、滅多にないその距離にうっかり、本当にうっかり無意識に、君の方がキレイです、などとどんな少女漫画だ、とつっこみを入れたくなる科白をぽろりと言いそうになって慌てて視線を運転席の方に向けた。
「そろそろ、着きます」
「はいっス!」
網棚の上の荷物を下ろそうと立ち上がる黄瀬の背中を見ながら、黒子は気付かれない様に溜息を吐いた。
彼は無邪気に自分に笑いかけてくれるが、自分にはそれを素直に受け入れることが難しい理由があるのだ。
「はい、黒子っちの荷物」
「ありがとうございます」
荷物を手渡してくれた黄瀬の手に自分の指が触れないように細心の注意を払う。昨日までは周りに自分たち以外の人がそれこそウザいと思うくらいに沢山いたが、今は自分と黄瀬の二人だけだ。そのことで箍が外れないように、黄瀬に気付かれないようにしなくてはならない。
「黒子っちの鞄は軽いっスね」
「そうでも、ないですよ」
黄瀬の髪がさらさらと風に流れていく。
「ほら、降りますよ」
「あ、はいっス!」
自分の直ぐ後ろをついてくる黄瀬に気付かれないように、黒子は鞄を握る手に力を込める。
この距離が嬉しい。
だけれど同じくらいに苦しい。

何故なら、黒子は黄瀬が好きなのだから。


***


久しぶりに会った祖父母は、黒子と黄瀬の来訪を心から喜んでくれた。特に祖母の喜びようは凄まじく、黒子が初めて連れてきた友人である黄瀬にあれこれと話しかけ、黄瀬がそれに対してひとつひとつ丁寧に返事を返していることが余計に拍車をかけ、黄瀬は早々に祖母のお気に入りとなったのだった。
まあ、確かに自分は余り口数の多いわけでもなく、存在感が薄い所為でうっかり忘れ去られそうになったりしたことも片手では足りないくらいなわけなのだが、それにしてもここに来てまで黄瀬が自分から離れた場所で笑っているのを眺める羽目になるとは、黒子は思ってもみなかった。なんとなく腑に落ちない。けれどそれを顔に出すのはできなかった。
「テツヤ、とうもろこし、食べんか」
縁側に座って祖父の持っている古い本を読んでいた黒子に祖父が声をかけたのは、昼を過ぎて三時になる時間帯だった。
「涼太君も連れて、庭のとうもろこし取っておいで」
祖父の言葉に一つ頷いて、黒子は家の中に上がった。
「黄瀬君」
「あ、黒子っち」
祖母に頼まれたのだろう、さやえんどうの筋を器用に剥いていた黄瀬が黒子の声に顔を上げた。
「なんスか?」
「おじいさんが、とうもろこしを食べないか、と」
「とうもろこし?!食べるっス!」
「それじゃ、一緒に取りに行きましょう」
「え?取りに行くんスか?」
「そうです」
奥にいる祖母に、黄瀬ととうもろこしを取りに行く旨を伝えれば、一緒に胡瓜とトマトも取ってきてくれ、と頼まれて、大きめの籠を一つ持つと黒子と黄瀬は家を出た。



「……黄瀬君」
「なーに?黒子っち」
「その帽子、どうしたんです?」
「あ、これ?」
黄瀬の頭の上に被さっているのはつばの広い麦わら帽子で、それは妙に黄瀬に似合っていた。
「出掛けるときに、おばあさんが被っていきなさいって渡してくれたんス。俺がモデルやってるから日焼けとかにも気をつけてるって話をしてたもんだから、それならこれって」
似合うっスか?と照れたように笑う黄瀬に、素直に答えるのができなくてまあまあですね、と素っ気なく返した。自分は祖父が渡してくれた手ぬぐいを何となく首にかけているだけなのだが、やはり帽子があった方が違っただろうか。とはいえ、黒子は実は帽子が苦手であるので、その辺りを祖父母も知っていて考慮してくれたのだろうけれど。
「黒子っち、とうもろこし!」
目の前に見えてきたとうもろこし畑に目を輝かせた黄瀬が走り出した。
「早く!黒子っち!」
少し離れたところで黄瀬が自分を呼んでいる。黒子は手ぬぐいで汗を拭うふりをしながら、笑みの形に崩れる口元をそれとなく覆って、黄瀬を追いかけた。



「どれがいいっスか?」
「そうですね、黄瀬君の頭の横にあるそれなんかちょうどいいと思います」
「これっスね!」
そういうと黄瀬は両手でしっかりととうもろこしを掴み、一息にもぎ取った。
「取れた!取れたっスよ、黒子っち!」
「はい、取れましたね」
「次、黒子っちと、黒子っちのおじいちゃんとおばあちゃんの分っスね」
「僕の分はもう取りました」
「早っ!」
「あと二本、ああ、そこのがいいです」
「これっスか?」
「はい、お願いします」
「任されたっス!」
こうして人数分のとうもろこしを収穫した二人は、次に祖母に頼まれた野菜を取りに隣の畑に向かった。
「次いでにナスももらっていきましょうか」
「ナス!黒子っちはナスはどうやって食べるのが好きっスか?」
「そうですね、普通に焼くだけのも好きですが、ナス味噌炒めも美味しいですね」
「俺も!……でも味噌汁にナスが入るのだけはダメっス」
眉を下げた黄瀬に黒子は黄瀬の眉間に指を軽く当てて口を開いた。
「僕もです」
黒子の言葉に黄瀬が驚いたように目を開き、そして笑みの形に顔が崩れた。
「一緒?」
黄瀬がほにゃりと笑って言えば、
「一緒です」
と簡潔に返す。それだけでも黄瀬はもっと嬉しそうな笑顔を見せてくれた。
もっと見ていたいと素直に思う。だけれど顔には出さないし、言葉にもしない。できないわけじゃなく、それが自分自身で決めたことだ。黒子は黄瀬の前を歩き出した。簡単な接触ならできる。だけどそれ以上は駄目だ。
両手にとうもろこしを四本抱えた黄瀬はにこにこと笑顔で黒子の後ろをついてくる。
「黄瀬君、とうもろこしも籠に入れていいですよ」
「だって、もう籠にはトマトと胡瓜とナスが入ってるじゃないっスか。だったら俺はとうもろこしをしっかり預かってるから黒子っちはその子たちをお願いするっス!」
「はあ、まあいいですけど」
少しだけ歩調を緩めて黄瀬が自分の隣に自然に並ぶようにスペースを作る。間もなく隣に並んだ黄瀬を横からちらりと見上げた。麦わら帽子の陰になっている顔には汗が浮かんで見えた。両手でとうもろこしを抱えている為にそれを拭うことができないだろう黄瀬に、黒子は呼びかけた。
「黄瀬君」
「何スか?」
立ち止まって向かい合った黄瀬に、首にかけていた手ぬぐいの端の部分で黄瀬の顔をさっと拭ってやる。その際に指が黄瀬の頬に触れてしまって、黒子は心臓が大きく跳ねたのを何でもないようにやり過ごした。
「黒子っち」
「汗、が。目に入ったら痛いだろうと思って」
これくらい、部活の時でもたまにやっていることだ。なのに、何故だろう。普段なら大丈夫なはずなのに、今は上手く取り繕えていない自分がいた。黒子は自分を見ている黄瀬の眼差しを感じながら視線をそっと持ち上げる。
「ありがと」
そこで見つけた黄瀬の顔は、今まで見たことが無い種類の笑顔だった。どう、と上手く言葉にできない。言葉にできる単語があるとも思えない。彼の内面の本当に奥の方、柔らかい場所にある感情の波を上手にすくい上げることができたら、きっとこの顔が見れるのだろう。
黄瀬の顔が黒子に近付いた。それを黒子はただ見ている。唾の広い麦わら帽子の陰に自分が入ったのを頭の隅で認識しながら、黒子は動かなかった。黄瀬の長い睫毛の一本一本までが見える位置で、黄瀬は黒子に向けて微笑んだ。
「日陰。俺、今黒子っちの汗拭ってあげられないから、代わりに日陰あげる」
身長的には確かに黄瀬の方が自分よりも大きい。だからこうして太陽を背に黄瀬が立てば黒子の身体なんて黄瀬の作る影に入りきってしまう。
それくらい分かる。それくらいが、何だ。悔しいとも、切ないとも、やるせないとも、そんな感情がごっちゃになって黒子は目が眩むように感じた。
「黒子っち、だいじょうぶ?」
柔らかく聞いてくる黄瀬の声に、秘めていた感情が破裂して表に出てこようとする。
駄目だ。
黄瀬に他意は無い。それぐらい分かる。自分だけだ。自分だけがこんなに振り回されて、理不尽だ。だけど、黒子の想いを知らない黄瀬にそんなことを言うわけにいかない。だから黒子は目を閉じる。黄瀬の姿を視界から外しても、彼の気配は間近にあって自分から離れる気配はない。それが嬉しい。
だけど苦しい。
温い風が頬を撫でていくのを、黒子は目を閉じたまま感じていた。



祖父母の育てたとうもろこしは美味しい。茹で上がったばかりのそれを頬張りながら黄瀬は何度も美味しい、美味しいと連呼して、祖父母をいっそう喜ばせた。こういった感情表現を素直に表に出せる黄瀬という存在はやはり特別なのだな、と祖母と黄瀬の会話を聞きながら黒子はぼんやりと考えていた。
夕飯を終えて部屋に蚊帳をはると、物珍しさからか黄瀬はさっきからずっと蚊帳を指で触っていた。
「黄瀬君、お風呂、どうぞ」
「あ、いただくっス!」
祖母には黄瀬と二人で入れば、と言われたのだが、上手く理由をつけてなんとか回避した。こんな状態で共に風呂にでも入った日には、自分でも何をしでかすか分からない。
タオルを抱えて黄瀬が風呂に向かうのを眺めながら、黒子は改めて今夜の自分たちの寝床を眺めて、そして固まった。
布団が二つ、並んでいる。
まあ、それはそうだろう。当たり前だ。蚊帳だってそんなに大きいわけではないし、そうなれば必然的に二人の布団が近付くのも分かる。分かるが、これは、
「……試練ですか」
今夜、自分は何事なく眠れるだろうか。
ちりん、と縁側の風鈴がからかうように鳴った。


***


「黒子っち、大丈夫っスか?」
黄瀬が心配だ、という声で自分に呼びかけているのが分かるのだが、それに対して直ぐに返事が返せない自分に情けなさが募る。
「家までもうちょっとだから、頑張って」
黄瀬の背中におぶわれたまま、黒子は小さく頷いた。



昨夜は、やはりというか何というか、黒子は眠ることができなかった。明け方近くまでまんじりともしないで夜を明かすことになったのだ。直ぐ隣で寝ている黄瀬は、寝相が良くて特に動く様なことは無かったのだが、たまに寝返りを打ったりしたとき、うっすらと開いた口から覗く赤い舌や、襟ぐりの広いTシャツの隙間から覗く肌なんかが視界に入ってしまうとそれだけで、もうなんか駄目だった。結局布団に入ったのは黄瀬が寝付くまでの僅かの間で、黄瀬が寝てからはずっと月明かりが差し込む部屋の中で正座をしたまま必死に庭を眺めていた。縁側の直ぐ傍に置いてある植木鉢にある朝顔がゆっくりと咲いていくのを眺めているうちに気が付いたら朝になっていた。
そんな状況で、祖父に連れられて黄瀬と共に近所の子どもたちに雑ざって参加した朝のラジオ体操の途中で、黒子は寝不足やら、精神的な疲労やらが祟ってその場で倒れたのだ。
黄瀬は半分以上泣きながら、黒子を支えて抱き起こしてくれた。そのまま横抱きで家まで運ぼうとした黄瀬をなけなしの体力を振り絞って辞退し、おんぶする、という形で納得させたのがついさっき。祖父には先に家に帰ってもらい、今は黄瀬の背中に背負われて黒子は家に帰る途中だ。
あまりの情けなさに呆れて何も言えない。隣で寝る、くらいなんでもないと思っていたのに、距離と、なにより周囲の影響がないと、こうも自分に耐性がないのか、と黒子は頭を抱えたくなった。
部活で合宿していたときにも黒子は黄瀬の隣で眠っていたのだが、あの時は黄瀬を挟んで向こう側に緑間がいて、自分の隣には青峰もいたりして、それに大部屋の中で全員の布団を並べるという状況だった。滅多にない距離に多少の動揺もあったりしたのだが、いざ夜になると皆大人しく寝るどころかいつの間にか始まった枕投げ大会の所為でそんなことを気にする余裕も無かった。昼間の運動で疲れているはずなのに、一度火が付くと皆が皆負けず嫌いの集まりの所為で簡単に闘志を燃やしてしまい、レギュラー含め、一軍から三軍まで入り乱れての大乱闘は、騒ぎを聞きつけた赤司と紫原の登場で鎮火するかと思いきや、
「なんだ、面白いことをしているじゃないか」
と、赤司が良い獲物を見付けた、と言わんばかりの壮絶な笑顔を見せ、その顔にその場にいた全員が背筋を震わせたのだが、続いた黄瀬の、
「赤司っちと紫原っちもまざらないっスか?」
という能天気な言葉ととびっきりの笑顔に赤司があっさりと、
「いいだろう」
と返し、その後第三勢力的な立場を取った赤司と紫原の情け容赦ない、いっそ非道とも言える遠慮ない攻撃が繰り出されるに至って、皆一丸に赤司組に立ち向かわんと、数で勝負に出ようとしたのだが、徒党を組んだ二軍、三軍に対して、一軍はと言えば赤司の無言の圧力に逆らえずに赤司組の後方支援に必然的に回ることになり、さらに収拾がつかなくなりそうだったところに、タイミング良く見回りでやってきた警備員の一括でなんとか納まることになった。その後は布団も枕もあって無いようなもので、皆雑魚寝同然で事切れてしまい、気付けば朝、という様なことが合宿中はほぼ毎晩続いたために、気にする余裕も無かった。
そもそもなんで枕投げを始めたのかと言えば、黄瀬の「俺、今までに枕投げってやったことないんスよね」という純粋な興味の言葉がきっかけであった。
普段から黄瀬に甘い赤司始めレギュラーメンバーは黄瀬が喜ぶなら、と割と何でも直ぐに平気で行動に移してしまう。その結果がこの毎晩続いた枕投げ大会だったわけだが、心底から楽しそうに笑う黄瀬の顔が可愛くて、結局皆自重することはない。それが自覚してならいいのだが、無意識の方が多い連中が多いのが悩みの種でもある。
そんなことを思い出しつつ、黒子は黄瀬の背中で漏れそうになる溜息を飲み込んだ。
「黒子っち、大丈夫っスか?もう少しで着くから、もうちょっとだけ我慢してくださいっス」
ゆったりと、なるべく安心させるように黄瀬が声をかけてくる。背中越しに声が響いて、それがあまりに優しい音だったから、黒子は黄瀬のTシャツにしがみ付く指を少しだけ強めた。
黄瀬は優しい。
その優しさが自分だけに向けばいい、だなんて。
――思い上がりも甚だしい。
黄瀬の見えない位置で、黒子は自嘲した。



家に着くと、祖母が用意してくれていた氷嚢を頭に乗せられて、黒子は昨日一度も寝付けなかった布団の上に寝かしつけられた。
「きっと疲れも出たんでしょう。今日一日くらいは、ゆっくりしてなさいな」
そう祖母が黒子の頭を撫でながら言うのに黒子は大人しく頷いた。
そのまま素直に目を瞑ると、あっという間に睡魔がやってきて黒子の意識は深く沈んだ。



ひたり、と冷たい何かが頬に当たる。それが何か確かめたいと思いこそすれ、目は自分の意思に反して開こうとしない。そのことをもどかしいと思いながらも、開けられない視界の先で、何かとても優しいものが自分に触れてくれているのが分かる。触れようと伸ばした手に、その何かが触れた。
「……もうちょっと、寝てたほうがいいっスよ」
優しいものは、優しい声をしている。
いつも傍で聞いていたその声に、泣きたくなるほどに安心した。



次に黒子が目を覚ました時、陽はもう天頂を過ぎていた。外の日差しと家の中の影との境目がくっきりと分かるくらいの明暗の差に少しだけ目が眩む。瞳を眇めて後、ふと横に視線を向けて黒子は目を開いた。
黄瀬が隣で寝ていたのだ。布団の上にいる自分とは別に、畳みの上で横になっている黄瀬の手元には桶と、手ぬぐいが置いてあった。桶の中には溶けかけの氷が浮いていて、藍色の手ぬぐいが所在なさげに浮いている。自分の額に手を当てる。少しだけひんやりとしていて、暫くするとじんわりと熱を伝えてきた。
黒子は黄瀬を起こさないように静かに立ち上がる。寝ている黄瀬の額に汗が見えた。桶にかかっている手ぬぐいを取って、なるべく音が出ないように絞り、黄瀬の額に乗せる。
ちりん、と風鈴が鳴った。
黒子は足音を立てずに黄瀬から離れた。



「おばあさん」
「あら、起きたのね。もう大丈夫?」
「はい、心配かけてすみません」
「あらあら、いいのよ、そんなこと」
台所にいて昼の用意をしていた祖母に声をかけた。ざぶ、と水が流れている。
「お昼はお素麺にしようと思って。テッちゃんも好きよね」
「はい」
「涼太君も好きなんですって」
祖母の口から出た名前に、そうですか、と声を落とした。
「涼太君は?」
「寝ています」
「あらまあ、テッちゃんの看病している間に疲れちゃったのかしら?」
「看病って、」
「涼太君、テッちゃんの傍にずっといてくれたのよ。私たちが代わるわ、って言ったんだけど、自分に看させてくださいって」
優しいお友達で良かったわね、という祖母の声を遠くに聞きながら黒子は頷いた。
もう直ぐでできるから、涼太君を起こしてきてくれる?と祖母が言うのにも無言で頷いて、黒子は部屋に戻った。
布団の隣で、さっきと同じ格好のままの黄瀬の隣に膝をつける。良く寝ている。頬にかかる前髪をそっとはらってやると、黄瀬の睫毛が震えてうっすらと目が開いた。
「……黒子っち?」
「はい」
ぼんやりとした寝起きの声に、返事をすると、黄瀬の目がぱちりと開いた。がばりと身体を起こす。そして目の前にいる黒子に改めて目を向けて、黄瀬は安心したように微笑んだ。
「良かった、黒子っち、もう大丈夫っスか?」
「はい、黄瀬君」
「なに?」
「看病してくれてありがとうございました」
「大したことしてないっス」
「いいえ、僕には大したことです」
「黒子っち?」
首を傾げた黄瀬に、黒子はただ笑った。
「お昼、素麺です。おばあさんが用意できたと」
「え?!もうそんな時間っスか?」
慌てる黄瀬に、黒子は手を差し出した。黄瀬はその黒子の手を見つめる。
「行きましょう」
黒子の声に頷いて、黄瀬はその手を取った。触れた熱に心臓が跳ねても、黒子は表情には出さない。ただ目の前で笑う黄瀬が堪らなく好きだと思った。


***


ここは時間がゆっくり流れている様で、その逆に急に早く過ぎていく様に思うときがある。昼を食べた後に出された梨を齧りながら黄瀬がそんなことを言うので、黒子は小さく笑った。
「それは、僕にも分かります」
「やっぱり、そう思うっスか、黒子っちも」
「何ででしょうかね」
「不思議っスよね」
黒子は今テーブルに広げている作文用紙と向かい合っている。夏休みの宿題の中で最後に残しておいた読書感想文がまだ終わっていなかったのだ。他の宿題は全部終わらせていたのだが、これだけはどの本を題材にするか最後まで悩んでいたので後回しになっていた。
結局選んだのは、祖父の部屋の本棚の隅に置いてあった本だ。内容は以前に読んだことがある本なのでもう一度読むわけでもない。だが何となくテーブルの上に広げてパラパラとページをめくっていると、黄瀬が縁側に足をぶら下げたまま、身体だけこちらに倒した。逆さまの黄瀬の瞳が黒子を見上げている。
「空がね、広いって思うんス」
「そうですね」
「山があんなに近くに見える」
「はい」
「胡瓜や、トマトも美味しくて」
「ええ」
「黒子っちのおじいさんもおばあさんも優しい」
「はい」
「それでね、黒子っちがこんなに近くにいるんスよ」
「……は、」
黒子が声を出す前に、黄瀬は笑った。
「だから、かなあ」
その時、祖母が黄瀬を呼ぶ声が聞こえた。大きく声を上げて返事をして、黄瀬は直ぐに立ち上がる。そのまま行くか、と思った黄瀬は一度振り返った。
「さっきね、黒子っちが寝ている間に、おじいちゃんと一緒に西瓜採ってきたんスよ。裏の川で冷やしてるの、取ってくるから後で食べよ」
だからそれまで宿題頑張って、とそれだけ言って黄瀬はぱたぱたと廊下を歩いて行った。
残された黒子はテーブルの上に手を置いたまま、風が本のページを悪戯に捲るのを黙って見ていた。

『だから、かなあ』

さっきの黄瀬の言葉が頭の中で繰り返される。
その言葉の意味が何なのか、聞きたい。
けれど聞きたくない。
祖母が置いていってくれた麦茶が入ったガラスのコップが汗をかいて、テーブルの上にじわじわと水が広がっていく。拭かないと原稿用紙がよれてしまう。それが分かっていて、だけれど暫くの間、黒子の身体は動くことができなかった。


***


今夜は花火大会があるのだと、祖父が話してくれた。いつもならもっと早くに開催していたのだが、当初の開催日が悪天候の為に延期になって、それで今日になったのだ、と。それを聞いたとき、黄瀬はそれは喜んで、早く夜にならないか、と何度も空を見上げては祖父に笑われていた。祖母が夕飯は天ぷらにしようと言えば、手伝います、と黄瀬は直ぐに台所に走っていく。トントンと野菜をきざむ音と、祖母と黄瀬の笑い声が家の中を満たしていって、黒子は祖父と縁側に並んで座りながらそれをじっと聞いていた。
「テツヤ」
祖父が呼んだのに顔を上げる。
「涼太君はいい子だな」
「はい」
「一生懸命な、お前の話をしてくれるんだよ。私たちに」
「黄瀬君が?」
「お前は大人しいからあまり自分のことを自分から話さないからな、お前が学校でどんな風に過ごしているのか、部活でどれだけ頑張っているのか、嬉しそうに教えてくれたよ。ばあさんも涼太君の話を聞いて大層喜んでいた」
「……そうですか」
なんと返したらいいのか分からない。ただ、顔が熱かった。
祖父の手が伸びて黒子の頭の上に乗せられた。
「友だちは、大事にしなさい」
はい、とそれだけ返して黒子は立ち上がる。
「二人を、手伝ってきます」
いっておいで、と祖父の優しい声に頷いて、黒子は歩き出した。家の外では蜩が鳴いている。
こんなにたくさんの蝉の声を聞いたのは初めてだ、と黄瀬が昨日の昼間に騒いでいたのを思い出して、黒子は小さく笑った。



夕飯を食べ終わって、祖父が良く冷えた西瓜を切ってくれた。皿に並べて縁側に運んだのだが、さっきまでいた祖母と黄瀬の姿が無かった。どこに行ったのか、と周りを見渡しても二人はいない。
「テツヤ、どうした?」
「あ、二人がいなくて」
「ん?……ああ、大丈夫だ。ここで待っていよう」
楽しそうな祖父の顔に頭の上に疑問符を飛ばしつつも黒子は大人しくその場に座ることにした。夜だというのにまだ鳴いている蝉がいる。それに交じって聞いたことの無い虫の音が庭に満ちていた。
「あら、西瓜ありがとう」
祖母の声が後ろから聞こえて祖父と一緒に振り返った黒子の目に飛び込んできたのは、笑顔の祖母と、浴衣を着た黄瀬の姿だった。
「ほお、似合うじゃないか」
祖父が褒めると、黄瀬が照れくさそうにありがとうございます、と礼を言っている。
「おじいさんのお古なんだけどね、まだ着れると思って。涼太君なら似合うと思ったんだけど、思った通りね」
白地に青い朝顔が良く映えている。帯は濃紺で、それが全体的に落ち着いた雰囲気に纏めていた。
「本当はテッちゃん用に仕立て直そうと思ってたんだけど、男物で朝顔の柄って珍しいから、どうしようかと思ってそのままにしておいたのよ。涼太君が着てくれて良かったわ」
祖父母二人から太鼓判を押された黄瀬は、黒子に視線を向けて小さく首を傾げてみせた。
「どうっスか?黒子っち」
似合う、と。そう伝えようとした黒子の背後で大きな音が響いた。
「あらまあ、始まってしまったわね」
「ばあさんここに。涼太君も座りなさい」
ドン、ドン、と連発して夜空に大輪の花が咲いては消えていく。黒子の隣に素早く腰を下ろした黄瀬は、夜空を一心に見上げては楽しそうに声を上げていた。
「すごい、すごいっスね、黒子っち!」
黄瀬が興奮して頬を染めているのが、花火の灯りに照らされているときだけ分かる。次々に打ち上がる花火に、黄瀬の顔は輝いていた。祖父が渡してくれた西瓜を、浴衣の上で零さないように気をつけながら黄瀬が口に運ぶ。その間も花火は上がるので、黄瀬の手の西瓜は一向に減らない。黒子は黄瀬の手の中にある西瓜に手を伸ばした。
「黒子っち?」
「このままだと、食べ辛いでしょう」
予備に置いてあった皿に手を伸ばして、祖父が切り分けるときに使っていた包丁を手に取った。西瓜を皿の上で一口くらいのサイズに切ってやる。皿ごと黄瀬に手渡すと、黄瀬は驚いた様に黒子を見た後で、はにかんだ。
「ありがと、黒子っち」
キラキラと、黄瀬が笑う。ドン、と花火が咲いて、黄瀬の顔を明るく照らした。
――ああ、本当に、
「黄瀬君」
「ん?」

「好きです」

ドン、と一際大きな音が響き、今までで一番の花火がその時に上がった。
「ご、ごめん、黒子っち、聞こえなかった。今なんて、」
「花火がキレイですね、って言ったんです」
黄瀬の目の中に花火の欠片が映っている。それを見上げながら、黒子はそういって笑った。


***


「お世話になりました」
玄関先で頭を下げる黄瀬に、祖父母は土産だ、と庭で採れたばかりの野菜をたくさん持たせてくれた。黒子の鞄の中にもいくつか野菜が入っている。来た時よりも重くなった鞄に少し辟易しつつも顔には出さずに黄瀬に倣って頭を下げる。
「二人とも、またいらっしゃいな」
祖母の声に黄瀬が笑顔で返事を返し、その間に黒子は祖父と握手を交わしていた。
「テツヤ」
「はい」
「頑張れよ」
それが何のことだか聞かずに、黒子は苦笑しながら頷いた。
家の前で手を振っている二人に何度も振り返りながら黄瀬が手を振り返している。太陽がもうその勢いを見せつける様に、足元には濃い影ができていた。
渇いた道を二人で並んで歩きながら、黒子はやっと前を向いた黄瀬に声をかける。
「黄瀬君」
「なんスか?」
「楽しかったですか?」
黒子の問いに、黄瀬は破顔する。
「すっごく!楽しかったっス!」
黒子っちに誘ってもらえて、本当に良かった、と黄瀬が笑う。その顔を見ながら黒子も笑った。
「それは、良かったです」
「お土産に野菜もこんなに貰っちゃったし、お返し何がいいっスかね?」
来る時に散々悩んでいたことをまた引っ張り出されては堪らない。黒子は直ぐに口を開いた。
「君が来てくれたら、それだけで二人には立派なお土産になります」
「俺、お土産っスか?」
「まあ、言葉の綾です」
「それじゃあ、」
「黄瀬君?」
「ちゃんと次も、黒子っちに持ってきて貰わないといけないっスね!」
黄瀬の言葉に黒子が目を開くと同時に、道の先からブレーキの音が聞こえて黒子はそちらに視線を向け、それから急いで黄瀬を呼んだ。
「黄瀬君」
「はいっス」
「バス、きてます」
「え!?」
二人の歩いている道の先、残り三〇メートルくらいの位置に来た時に乗ってきたバスと同じ緑色のバスが、バス停についていた。
「あのバスを逃すと、あと一時間はバスが来ません」
「それ!もうちょっと早く言ってほしかったっス!」
ギョッと目を剥いた黄瀬は、慌てて駆け出した。
「黒子っち!」
黄瀬の手が伸びて、黒子の手を掴む。
「そこのバス!ちょっと待ってくださいっスー!!」
黄瀬の叫ぶ声を聞きながら、黄瀬の掴んだ自分の手を見る。そして走る黄瀬の背中も。
まだ、遠い。けれど、多分、自分が思うよりも遠くもないし、そして案外簡単に手を伸ばせるらしいことを黒子は知った。
繋がれた手を握り返す。必死で走る黄瀬は気付いていない。だが、今はこれでいい。
これから先、昨夜の様に黄瀬に伝えたいと思うときが来るかもしれないし、来ないかもしれない。
だけどきっとこの距離は変わらないと思うから。
「黄瀬君」
「は、はい?なに?黒子っち」
「暑いですね」
黒子の言葉に走る速度を緩めずに目を開いた黄瀬は、くしゃりと笑顔を作った。
「うん、暑いっス!」



それは二人の、短い夏休みの話。
まだ共に並んでいられると、疑いもせずにいられた頃の二人の話。








20120906





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