安易な曲線が望む終着地点を擦り抜けろ【後編】



「ここです」
黒子に案内されて着いた火神の家の扉の前に今二人は立っている。永遠にも感じられるくらいに長いと思ってしまった駅からここに辿り着くまでの時間に、黄瀬は想像以上に自分の心臓が疲弊しているのが分かって内心で項垂れていた。
今からこれで、俺は今日一日大丈夫なんでしょうか?
誰に聞くでもない疑問を頭の中でさっきから何度も投げかけているわけだが、当然返答なんて返って来ない。もう、こうなったら自分の意地と度胸と後は運で乗り切ってみせるっス!と気合だけは十分に、いざ尋常に、とドアノブに手を掛けようとしたのだが、そう言えば、と慌てて視線を左に落とす。
「どうしました?」
こちらを見上げている黒子と視線がぶつかる。そのやや下方、左手の先には黒子の手が自分の手と繋がれたままだった。
「あ、あの、黒子っち」
「はい」
「手を……」
「手がどうしました?」
ああ、なんだろう、このやりとり。
黒子は今の現状に対してなんら疑問は抱いていないらしい。それはまあ、そうだろう。きっかけは黒子からだったのだから、今更彼が繋がれた手に対してどうこう言うのは無いだろうけれど、いやしかし。
「黄瀬君、チャイム鳴らしてくれませんか?」
「はいっス」
ああ、もういいや。どうにでもなれ。
自分でも驚くくらいにさっきまでの気持ちとは間逆に半ば投げやりな心地で黄瀬はチャイムを押す。その後家の中からドタドタと慌ただしい音が聞こえてきたと思ったら、目の前の扉が勢いよく開けられた。
「おう、よくきたな、黄瀬に黒子……ってオイ、てめぇ」
「こ、こんにちはっス、火神っち」
「お邪魔します」
「おう、上がれ。ってだから黒子!お前その手は!?」
「手ですよ」
「ああ、手だな。紛う方なし手だ!そんくらい俺でも分かるわ!」
「火神っちって、ちょいちょい言い回しが古風なんスよね」
「帰国子女の割にアレですよね」
「アレってなんだ!?いいから離せよ!」
火神が手を伸ばして黒子と黄瀬の手を離そうとすると、黒子がサッと黄瀬の手を引いて火神から遠ざけた。そのまま黄瀬の腰に手を回して火神に勝ち誇った様な顔を見せ付けるに至って、火神の背後にドス黒い何かが見えそうになったのだが、黄瀬の慌てた声にそれもかき消された。
「く、黒子っち!ちょっと待って下さいっス!一度離してくれないっスか?」
羞恥の為かうっすらと目に涙を溜めつつ、黒子に向き合う黄瀬に、火神は我慢ならなくなって手を伸ばした。黒子が掴んでいない方の黄瀬の右手を掴むと自分の方に強引に引き寄せる。ポスン、と火神の懐に凭れかかった黄瀬は、間近に見える火神の顔に息を飲んだ。
「ちょ、火神っち!近い!近い!顔が近い!つか離して!」
「何でだよ、黒子だってお前のこと離さねえじゃねえか」
「黒子っちはいいの!」
「何で俺は駄目なんだよ!?」
「なんでも!」
「二人とも、ちょっと五月蠅いです。火神君、早く入れてくれませんか」
「ご、ごめんなさいっス、黒子っち」
「黄瀬君が悪いわけじゃないですよ。悪いのはそこのバ火神君ですから」
「……お前、本当にいい性格してるよな」
「有り難うございます」
「いや、褒めてねぇし!?」
「お、お邪魔しまーす……」
このままここで騒ぎ続けていて良いことは先ず無い。さっさと中に入ってしまった方が得策だ。その事は三人の中で意見は一致している。そそくさと移動して玄関に上げて貰い、靴を脱ごうと黄瀬が姿勢を屈めた時、火神が黄瀬の顔を見て口を開いた。
「お前、メガネなんてかけるんだな」
珍しいものを見た、という風に火神が言うのに、黄瀬は得意満面で答えた。
「いいっしょ!このフレームお気に入りなんスよね」
「伊達か?」
「そっス。変装ってほどじゃないけど、あればあるで結構周りの視線も違うから」
「そんなもんか」
「そんなもんスよ」
似合う?とそう背の差がない顔を僅かに見上げてみれば、いいんじゃないか、と返事が返ってきた。
「へへ、これね、緑間っちに選んで貰ったヤツなんス!」
「「緑間(君)に?」」
黒子と火神の揃ってあげられた疑問に黄瀬は笑顔で答えた。
「うん、この前、っていってもそんなに前じゃないんスけどね、二人で買い物に出掛けた時に、変装するんで俺結構大きめのサングラスかけて行ったんスよ。そしたら緑間っちになんなのだそれは、って怒られちゃって。駄目っスか?って聞いたら、そんなものをかけていたら逆に悪目立ちするのだよ、ってそのまま有無を言わさずに手掴まれて引きずられて。そんで、まあ色々言いたいこともあったんスけど大人しく緑間っちについていったら緑間っちの贔屓にしているっていう眼鏡屋さんに連れてきて貰って。で、そこで選んで買って貰ったのがこの眼鏡なんスよ」
自分でお金出すって言ったのに、金は要らんから代わりにこれをかけておくのだよ、とぶっきらぼうに言われてしまったあの時のことを思い出して黄瀬は笑った。今日のお前のラッキカラーは深緑なのだよ、とか、形はこれの方がいい、とかなんとか、このフレームに決定するまでには恐ろしく時間が掛かったのだが、なんとか決まったメガネを黄瀬がかけて見せた時に緑間が見せてくれた満足そうな笑みはとても貴重なものだったので。結局その日は買い物には行けずに眼鏡を買ってもらっただけで終わってしまったのだけれど、それだけで黄瀬にはおつりがきたくらいだったのだ。
「……お前、緑間と仲良いのか」
「うーん、仲が良いっていうか。普通に買い物とか行ったり、一緒に勉強したりするくらいっスけどね」
それを仲が良いというのではないか、と火神は思ったのだが口には出さなかった。
「家が近いんですよね」
黒子の言葉に、黄瀬の顔がパッと華やいだ。
「そう!ご近所さんっス」
「へえ、近所なのか」
「って言っても俺が緑間っちの家の近くに引っ越してきたのは中学入るちょっと前だったから、小学は一緒じゃなかったんスけどね」
今思えば惜しいことをした、と黄瀬が言えば、どこか憮然とした表情で火神が黄瀬をのぞき込む。一気に近くなった距離に黄瀬が離れようと一歩後ろに下がろうとすると、それを火神は片手であっさりと止めた。いつの間にか腰に回っていた火神の手は、黄瀬がそれ以上後ろに下がろうとするのをいとも簡単に防いでしまう。
「まあ、悪くはねーけど」
「ちょ、火神っち?」
言いつつ、火神が黄瀬のメガネのフレームを軽く摘んでゆっくりと引き抜いていく。そのまま外されてしまったメガネの行方を心配して黄瀬が声を上げた。
「いきなり何なんスか、もう。メガネ返してよ」
「邪魔なんだよ」
「邪魔って、なに――」
ムッとして言い返そうとした時、背筋を走った悪寒に本能が警笛を鳴らす。黄瀬と火神の視線が交わった刹那、そんな一瞬の間にも満たない間に行われた二人の攻防は今回は黄瀬に軍配が上がった。
「……おい、黄瀬」
「な、なんスか」
「何で止めるんだよ」
「そ、そりゃ、止めるに決まってるっしょ!?」
ぐぎぎ、と音が出そうな勢いで火神の顔を必死の形相で追いやろうとしている黄瀬は、両手を火神の顔に押しつけて何とか距離を保とうと奮戦していた。
「いきなり何しようとしてるんスか!?」
「何ってお前、この距離でしようとすることっつったら決まってんだろ?キ「それ以上は言わないで欲しいっス!!!」
「聞いておきながらそれかよ」
「あああああもう!むしろ聞くんじゃなかった!」
心の底から後悔しながら、なんとか体勢を戻そうとするのだが、純粋な力比べで言えば非常に腹立たしい事に火神の方に分がある。自覚はしていても納得出来ない力の差に、内心で歯軋りしながら押し切られそうになるのを黄瀬が必死で耐えていると、目の前の火神がにやり、と目だけで笑ったのが見えた。
何だ?と思った時にはもう遅かった。
「ぎゃあああ!?」
舐められた。
もう一度言おう。舐められた。
あろうことか、火神は黄瀬が押さえ込んでいる手が自分の口元にあることを良いことに口を開き、その舌で黄瀬の手のひらを舐め上げたのだ。手のひらに感じた感触にぎょっとして思わず押さえている顔から手を離してしまったその隙をつかれて、火神が一気に距離を詰めてきた。
「色気のねえ声だな」
「ちょ、かがみ、」
駄目だ、と思わず目をぎゅっと閉じた瞬間、黄瀬の身体を別の手が引き寄せてくれた。
「そこまでです」
恐る恐る目を開けると、間近に迫っていた火神の顔に自分以外の手が押し当てられていてそれ以上自分に近付かない様にしてくれている。日焼けのしてない白い手をぼんやりと眺めながら、背中から抱き留めてくれている存在を黄瀬は振り返って確認した。そして名前を呼ぶ。
「黒子っちいいい」
「てめ、黒子」
「抜け駆けは、容認出来ませんね」
はっきりとした声でそう黒子が言えば、渋々といった表情で火神の手が黄瀬から離される。その際名残惜しいのか、火神の手が何度も黄瀬の近くをさ迷っていた。一度だけくしゃりと黄瀬の髪を梳いた火神の手は、さっき黄瀬から外した眼鏡をそっと耳にかけてやると、それでやっと黄瀬から離れていった。
「大丈夫ですか?黄瀬君」
「うう、黒子っち……」
優しい声にうっかり涙腺が脆くなってこぼれそうになった涙を意地で引っ込めて、黄瀬は黒子の肩にすがりついた。よしよし、と後ろ頭を優しく撫でられて、ほっと息を吐いていると、黒子が目の前でお預けをくらった顔をしている火神に向かってほら、と急かせた。
「一応僕らはお客様ですから。ちゃんとしたおもてなしなんて君に期待していませんが、飲み物の用意くらいはしてくれるんですか?」
「お前な、俺を何だと……」
「火神君ですね」
「あー、もう分かったよ。おら、上がれ。茶……はねーな、スポドリかミネラルウォーターくらいしかねえけど」
「君らしいです」
「悪かったな、次は用意しておくよ。黄瀬、お前何飲む」
「え、と、じゃあミネラルウォーターで」
「おう。黒子は」
「僕もそれで」
「じゃ今用意すっから、早く靴抜いて上がれ」
後頭を掻きながら火神の背中が離れていくのを見送りながら、足元に視線を落とす。そう言えば靴を脱ぐ途中だったのだ。
黒子の手が黄瀬の身体をそっと離す。
そうして間近で見つめ合う事になった黒子の顔を見て、黄瀬は小さく息を飲んだ。
少しだけ暗い玄関先で黄瀬を見上げている黒子の瞳の光が煌めいて見えた。
「……あ、」
「黄瀬君」
「黒子っち」
「……すみません」
「え?」
「僕も、まだまだです」
苦く黒子が笑うと、黄瀬が何かを言う前に黒子が淡々と口を開いた。
「でも、やっぱり、やられっぱなしは性に合わないので」
もう一度黒子の名前を呼ぼうとした黄瀬の口に人差し指一本を当てる事で止めた黒子は、ふに、と弾力のある黄瀬の唇の柔らかさに目を細める。その後、直ぐに離れていった黒子の指を黄瀬が視線で追いかけていると、次にその指が触れたものを見てしまって、黄瀬は思わず声を上げそうになった。
黒子は黄瀬の唇に当てていた人指し指を、自分の唇に押し当てたのだ。目の前でそれを見て呆然としている黄瀬に向かって、にこり、と目だけで笑んで見せた黒子は、
「間接、ですね」
と一言そう言ってまた笑みを深めた。目の前の黒子の起こした行動について、黄瀬はもう言葉にならない。黒子は自分の靴を脱いで、更には黄瀬の靴も脱がせた後、真っ赤になった黄瀬の手を引いて部屋まで連れていってくれた。
「おせーぞ、お前ら。始めるぞ」
「誰の為だと思ってるんですか」
「俺ら二人の為だろ?」
「そうですよ」
「自慢げに言うな!」
「すみません」
二人の軽快なやりとりを聞きながら、黄瀬は顔の熱を何とか納めようと両手でぺちぺちと頬を叩いたりしてみるのだが、それくらいで治まるわけが無い。さっき黒子が見せた笑みが頭から離れないのだ。
(ううう、黒子っちの天然タラシ〜)
「黄瀬君、どうしました?」
「・・・・・・ナンデモナイッス」
何より、黒子本人がまるで何でもないという様に涼しい顔をしているのが悔しくて堪らない。
黄瀬は気合いを入れる為にモデルで鍛えた表情筋をフル活用して、動揺を悟られない様に自然な声を出してみせた。
「さ!時間も無いし、とっとと勉強始めるっスよ!」
そうだ、勉強だ。自分が今日ここに来た理由はこの二人に勉強を教えるためなのだから、目的を忘れてはいけないのだ。
黄瀬の言葉にバスケットコートに立った時とは一転して、憂鬱という言葉を張り付けた二人の顔に僅かに溜飲を下げる。眼鏡を外し、ケースにちゃんと仕舞ってから黄瀬は鞄から参考書を引き出した。


***


「……あのさ、火神っち、そこ、さっきも間違えてたっスよ?」
「え、どこだよ?」
「ここ、どうして途中までは出来るのに、最後の代入で間違っちゃうんスかね」
「え〜と、あ、ここか」
「そうっス。ほら、さっきの公式覚えてる?」
「……あ、あれか」
「そうそう。……落ち着いてやれば解けるんだから、応用問題になった途端に躓かないでよ」
「だって、さっきの問題とは数字が違うじゃねーか」
「……当たり前でしょーが」
黄瀬は溜息を吐きながら火神が必死な顔でノートに計算式を書き込んでいくのを見つめている。今さっき間違ったところは火神一人でも何とか解けそうだった。よし、と内心で頷いて、黄瀬は黒子に視線を向けた。
「黒子っちは数学はもう大丈夫そうっスね」
「黄瀬君のおかげです」
「黒子っちが飲み込みが早いからっスよ」
黒子は既に練習問題を終わらせていた。今は火神が数学、黒子は英語に取りかかっている。
「だけど、意外だったな」
横で計算問題に頭を悩ませながら火神がぽつりと呟いた言葉を拾って、黄瀬と黒子が火神に揃って視線を向けると、火神が問題用紙を睨みつけながら口を開いた。
「お前、見た目チャラいのに、勉強も出来るなんて、どんだけだよ」
褒められたのか、けなされたのか、いまいち判断の付き難いことを言われた当の黄瀬は、苦笑した。
「まあ、見た目云々はね、俺イケメンだしそう見えるかもっスけど?外見だけで勉強出来ないって思われるのは心外っスね、火神っち」
「悪い、けなしたわけじゃねーんだ」
黄瀬の言葉に顔を上げた火神が素直に謝ったことに瞳を瞬かせる。真っ直ぐな火神の気質は黄瀬も好むところで、こんなところが火神が人を惹きつける理由なんだろうな、と黄瀬は思っていた。
「いいっスよ。……ま、なんて言うか。俺さ、こんな髪色してるから、そういうのちゃんと認めて貰う為にも、勉強とかしっかりしておかないといけなかったし。モデルを続ける為にも、勉強も落とすわけにはいかなかったんスよ」
「やっぱり、お前の髪、地毛か」
「あ、分かってた?」
「睫毛まで同じ色に染めるなんて、聞いたことないからな」
良く見ている、と感心しつつ、睫毛の色まで見える様な位置に彼がいた時の事をうっかり思い返してしまいそうになって黄瀬は慌てて首を振った。
「これ、遺伝なんス。俺の母さん、ハーフなんスよ。じいちゃんがイギリス人で、ばあちゃんが日本人なの。じいちゃんが仕事で日本に来てた時に偶然出会ったばあちゃんに一目惚れして。二人とも実は歳が割と離れてたんだけど、じいちゃんすごい勢いでばあちゃん口説いたんだって。で、めでたくゴールインした二人から生まれた母さんはばあちゃん似で真っ黒な髪色なんだけど、一代飛んだ俺がじいちゃんの血を濃く受け継いだんスよ」
この目も、この髪も祖父譲りなのだ、と黄瀬はどこか誇らしそうに笑う。
「じいちゃん、俺がじいちゃんにそっくりな色してるのが本当に嬉しいみたいで。そんな風に喜んでくれるじいちゃんが俺、大好きだったから。だから中学で髪染めろって何度も言われたけど、俺、絶対に染めたりしなかった。黒髪ばかりの中で黄色ってそりゃ目立つし、それが普通じゃないって言われるのも腹立ったけど。それ以上にこの色は俺のものだから。俺を変えるのは、俺自身が認めてからじゃないと誰に言われてもそんなの関係無い。でもそれって結局ワガママみたいなもんだって、言われちゃったらさ、しょうがないって思わなくもなかったけど、でも認めさせたかったから、俺が髪染めない代わりに勉強頑張るから、試験では絶対に学年十位以内は守るから、って約束してさ、中学はそれで先生たちを納得させたんスよ」
きっぱりと言い切った黄瀬は髪の色の所為だけでは無くてキラキラと輝いて見えた。
「黄瀬」
「何スか?」
「お前、すごいな」
彼が彼らしくある為に、その為の代償としてどれだけの努力をしてきたのか。火神は初めて知った。ありきたりな言葉しか言えない自分が悔しい。だから足りない分を手のひらに込めて伝えた。
「か、火神っち?」
「何だよ」
黄瀬の小さい頭をなるべく優しく撫でる。彼自慢の金色の髪がサラサラと手の中を流れていった。力加減が出来ているかあんまり自信は無いが、黄瀬の顔を見ている限り、大丈夫そうだ。
「……へへ、なんか、照れるっス」
そうして、嬉しそうに頬を染めながらそんな風に笑ってくれるから。火神は黄瀬の頭から手を離すのに苦労した。このままずっと触れていたいと思ってしまった。
――それを止めてくれたのは黄瀬の隣に座って冷ややかな視線を向けてくる黒子に他ならなかったのだが。撫でただけじゃねえか、と視線で文句を言えば、それだけで終わったか怪しいですね、とこれも視線で嫌みが返ってきたので火神は押し黙るしかない。
「でも、中学二年の途中からは、緑間っちに赤司っちもいてくれたから、俺、仕事で授業に出られなかった時とか二人のおかげで結構楽出できたんスけどね」
あの二人の教え方は本職の教師たちの授業が霞んでしまうんじゃないかと思うくらいに分かり易くて、抵抗無く頭に入ってくるので直ぐに理解出来たのだ。
「でも黄瀬君は元々頭がいいじゃないですか」
黒子が言えば黄瀬は首を振った。
「俺は要領が良いとこもあるから。頭良いって言うのはあの二人みたいな人を言うんだと思うっス」
「あの二人、というか赤司君は規格外だと思いますが」
「……あー、うん、そうかも」
渇いた笑いをしながら黄瀬が何か思い出したのかえらく遠い目をしているのを黒子がこれもまた遠い目で見詰めている。
「赤司ってやつはそんなにすごいのか?」
火神の質問に、黒子と黄瀬は一度視線を合わせた後、二人揃って頷いてみせた。
「すごいって言うか」
「それを通り越していると言いますか」
「なんかもう勝てないって言うか」
「恐れ多くて迂闊な発言は出来ませんでしたね」
「俺、中学の時、本当に赤司っちが同い年なのか信じられなかったスよ」
「僕は彼が本当は宇宙人ではないかと思った事もあります」
「え、地球飛び越えちゃうんスか!?」
「冗談ですけどね」
「……とりあえず、お前らの話から赤司がすごいヤツだって事は分かった」
火神が何と言ったものかかなり悩んで取り敢えず口にした言葉に、黒子と黄瀬はまた揃って頷く。
「後は本人に直接会って確認した方が早いですね。百聞は一見に如かず、です」
「そうっスね」
「……なんか、あんまり会いたくねえよ、俺」
思わず本音を漏らしてしまった火神だったが、実はこの後、うっかりトラウマになりそうな強烈な出会いが火神を待ち受けているのだが、この時の火神には知る由もない。
それから暫くは三人とも集中して勉強に向かった。時計の針が何度も回り、ふと気付くと、ここで勉強を始めてから随分な時間が経過しようとしていた。途中で三人で昼食を作ったり(厳密に言えば作ったのは火神と黄瀬の二人で、黒子は大して役に立っていない)、合間に休憩を挟んだりしていたのだが、思っていたよりも捗った事に黄瀬は安堵して息を吐いた。
「……さて、と。結構進んだっスね。今までのところで何か分からないとこあるっスか?」
「多分、大丈夫です」
「俺はもう数字を見たくねえ……」
テーブルの上に項垂れて呻いている火神の広い背中を黄瀬は二、三度軽く叩く。
「お疲れ様っス。この公式覚えちゃえば、後はなんとかなるから。忘れないようにね?」
念を押して言えば、俯いていた顔を持ち上げて火神が黄瀬を見た。
「火神っち?」
何となく不穏な気配を感じて黄瀬が火神と距離を取ろうとしたのだが、火神の手が黄瀬に伸びる方が早かった。
「黄瀬」
「な、何スか」
「充電させてくれ」
「は?」
言うが早いが、火神は黄瀬を少し強引に引き寄せた。いきなり引っ張られて、黄瀬の身体がテーブルに当たってガタン、と音がする。と同時に、べしり、という鈍い音もした。
「――おい、」
「……はい?」
「何なの、さっきからお前」
「何なのって、」
火神の低い声に負けじと黄瀬も声を出した。くぐもった火神の声とは違って黄瀬の声は明瞭で。その理由は二人の間に挟まった英語の教科書の所為だった。
火神に手を引かれた瞬間、黄瀬は咄嗟に手元の教科書を掴むと迫る火神の顔に向かって押し付けたのだ。
「あ、あのね、火神っち。ここをどこだと思うっスか」
「あ?どこって、俺の家だろ」
「そうだけどそうじゃないっス」
「何か違うのかよ」
「いいスか、火神っち。ここは火神っちの家でもあるっスけどね、それだけじゃなくて」
「何だよ」
「日本っス」
「は?」
「ここは日本なんスよ」
「……それくらい知ってるっつーの」
それがどうした、と除けた教科書の横から呆れた視線を向けてくる火神に黄瀬はだから、と続ける。
「アメリカとは違うんスよ」
「そりゃそうだろう」
「……本当にそう思ってるっスか?」
「何。何が言いたいの、お前」
「だから!」
黄瀬は叫んだ。
「ここは日本で!アンタはスキンシップ過多なアメリカに長いこといたんだろうけれど!あっちの常識をこっちに来て当てはめようとしないで欲しいって事っスよ!」
「何だよ、あっちの常識って」
全く分からない、という顔をする火神に黄瀬は吐き出したい溜息を飲み込んで、幼い子ども言い聞かせるような気持ちで諭す様に言葉を繋げる。
「だ、だから、ところ構わずにそのキ、キスをするとか、そういうのをやめろ、って」
「したいからするのに、禁止される法律でもあんのかよ」
「日本人はね!オクユカシイんスよ!ほいほいと道端で、とか人前で、とか、兎に角そんな簡単にキスなんてしないの!」
「ここは道端じゃねえぞ」
「んなの分かってるっスよ!だから、ほら、えーと、何だっけ、なんとかに入っては、なんとかに従うって、」
「郷に入っては郷に従うですよ」
「そう!それっス!」
黒子の助け船に黄瀬は顔を輝かせ、だから、と火神に向き合った。
「アメリカとは違う土地に来たんだから、その土地の風習っていうか、文化っていうか、そういうものについてちゃんと考えて欲しいんスよ」
そこまで言い切ると、黄瀬は火神の顔をじっと見つめた。ここで火神が折れるとは限らないし、何か良く分からない理屈を出されて押し切られてしまう可能性も消えていないのだ。隙を見せては駄目だ。
二人の間の沈黙はそう長いものでは無かったのだが、黄瀬には何十分も経っている様に感じた。
「――分かった」
すると、火神がそう一言口に出して神妙に頷いたではないか。
分かってくれたのか、と黄瀬は感動の余り火神に抱き付きたくなるくらいに喜んだのだが、それはやはり甘い考えであった様だと気付いたのはその後に続いた火神の科白を聞いた瞬間だった。
「じゃあ、ご褒美って事なら良いよな?」
「はい?」
ご褒美って、ナニソレ、むしろそれを貰うのって、教えてあげてる俺にじゃないの?っていうかいつの間に両手掴まれてんの俺?とか思う前に火神の顔が直ぐ傍まで近付いていて。黄瀬は混乱しながらも最終手段に出ることにした。

ゴスッ

「〜〜ってええ!」
「い、痛くないっス」
「嘘吐け!お前涙出てるじゃねーか!」
「これは涙じゃないっスよ!」
「じゃあなんだってんだよ!」
「汗っス!」
「汗が目から出てくるかあああ!」
火神の突っ込みに自分の額を優しく撫でながら黄瀬は胸を張った。
「俺は出るんスよ!」
「アホか!」
火神の額が赤くなっている。きっと自分の額も同じ様な事になっているんだろうな、と考えながら、暫く撮影とかが無くて本当に良かった、と胸を撫で下ろした。
つまり、何が最終手段なのかと分かり易く言えば、と言うか分かり易くも何も至ってシンプルに、黄瀬は火神に頭突きをかましただけだ。両手を塞がれている状態で出来る抵抗と言ったら、それくらいしか思い浮かばなかったわけなのだが、思ったよりも効果が(お互いに)あったので、次回もまたこの手でいけそうだ、と黄瀬が内心で考えていた事を火神が気付かない事を祈るばかりだ。
「そう易々とモデルの唇を奪えると思ったら、大間違いっスよ!」
「いいじゃねーか、キスくらい」
「あのね!」
不貞腐れた顔で火神が言うのに黄瀬は軽くキレた。駄目だコイツにはちゃんと言わないと分かってくれない。
「アンタにはくらい、かもしれないけど、される方の身にもなって下さいっスよ!心臓がいくらあっても足りないくらいにバクバクするし、息が止まるんじゃないかってくらいに緊張するし、相手の体温とかそういうのをもの凄く間近に感じたりなんかしてそれだけで恥ずかしくて死にそうになる俺の気持ちにもなって!手だって震えるし!涙腺だって脆くなるし!本当にもう、俺二人のおかげで全然格好良くない……」
そこまで言って黄瀬は後半の科白は寧ろ言わない方が良かったんじゃないか?と思ったのだが、それはどうにも遅かった様だった。
「「黄瀬(君)」」
二人から同時に呼ばれて、黄瀬は勢い俯いていた顔を上げた方がいいのか、そのままの方がいいのか悩んで、結局そろそろと顔を持ち上げてみると、その場で逃げ出したくなった。
何故って、火神と黒子の二人がそれはもう嬉しそうな顔で自分を見ているからであり、その顔を見た瞬間に黄瀬は今直ぐに二人から離れないと不味い、と本能で悟り自慢の反射神経を駆使して椅子から急いで立ち上がったのだが、いつの間にか右手を黒子に、左手を火神に掴まれた状態では中腰のまま逃げることもままならない。
思考が纏まらないでいた黄瀬は、二人と最後に会った時に自分から掴んだ手を二人が掴んでいることに気付く事は無かった。
「黄瀬君」
「っは、はいっ!?」
右手を掴んでいる黒子が黄瀬を呼ぶ。甘い、蜜が滴る様なそんな声だった。
「黄瀬」
「な、何スか?」
左手を掴んでいる火神も同じ様に黄瀬の名を呼んだ。舌の上でゆっくりとなぞられて味わわれているような気分になる熱い声。黄瀬の肩が跳ねて二人の手を離そうとするのだが、二人の動きの方が早かった。黒子は黄瀬が立ち上がろうとした際に引いた椅子をあっさりと退かし、その間に火神は黄瀬の腰に腕を回して黄瀬を抱え上げると、テーブルから少し離れたところに置いてあるソファーの上に優しく下ろした。こんな時にも息の合ったコンビプレーを見せる二人に黄瀬は心から泣きたくなる。ソファーに座らされた黄瀬の前に黒子と火神が立っている。見上げようにも、見下ろされている今の自分を二人がどんな顔で見ているのか確認するのに勇気が持てなくて視線を床に固定したまま固まっていると、二人が膝を屈めて逆に自分を見上げる体勢に変えてきたので、意図せずに二人の顔が良く見えてしまった。
そして息を飲む。ジリジリと焦げ付く様な、夏の日差しよりもなお熱い二人の視線が自分に向けられていたのだ。
「……っ」
「黄瀬君」
黒子の手が黄瀬の頬に触れた。
指先が固くなっているのが触れられた皮膚から分かる。手品師の様にボールを扱う黒子の手が、黄瀬は好きだった。その手を、その手から繰り出される様々なボールの軌道をずっと見ていたいと思った最初がいつだったか、もう思い出せないのが何となく悔しい。
黒子はそれ以上何も言わない。きっと今の自分の顔は真っ赤だ。でも、それ以上黒子は何もしようとしないから、黄瀬は少しだけ自分も勇気を振り絞ろうと思った。
「あ、の、黒子っち」
「はい」
「火神っち」
「おう」
「俺、俺は……」
だけど言葉が出て来ない。喉が渇いた。唾を飲み込む。二人の視線がなお熱い。繋がったままの手のひらも、同じ様に熱かった。
「黄瀬君」
「な、に?」
「触れても、いいですか?」
「も、もう、触って、るっス、よ?」
「もっと、ちゃんと、です」
「いいか?黄瀬」
黄瀬が返事を返す前に、二人の手が黄瀬に伸ばされた。頬をゆっくりと撫でた黒子の手が、焦らす様に耳の裏をなぞっていけば、火神の手は肩のラインを辿った後に脇から腰にかけての緩い曲線をやわく撫でていく。
触れているだけだ。本当にそれだけなのに。
だからこそ余計に二人の気持ちが伝わってきてしまう。好きだ、と。声にならない言葉が、二人の手のひらから直接身体に流れ込んでくる様で、黄瀬は落ち着かずに何度も視線を彷徨わせた。
「黒子っち、おれ、」
「いいから、そのままで」
「大丈夫だからよ」
何が大丈夫なのか、火神に視線を向ければ、溶けそうな程に優しい目で自分を見ていた。また顔の温度が上がったと思う。これ以上は無理だ、と黄瀬が泣きそうな視線を向けると、二人同時に息を詰めた。
「黄瀬、なあ」
「なに、火神っち」
「駄目か」
「だめって、」
「駄目ですか、黄瀬君」
「どうして、」
どうして、と戸惑いに軸がぶれる。
「最初の時は、そんなこと言わなかったのに」
「ああ、最初はな。だけど今は違うだろ」
「君の返事が欲しいんです」
「黒子っち」
「僕は、君と」
「俺は、お前と」

「「キスがしたい(んです)」」

重なった二人の声に、黄瀬はもう本当に駄目だ、と思った。二人が触れてくれているところから全身に甘く行き渡る痺れにも似た感覚に震えが止まらない。
足りないんだ、きっと。
もっとちゃんと触れて貰えればこの感覚も納まるのかもしれない。
だから黄瀬は二人に視線を合わせながらゆっくりと頷いた。
それを見て頬をなぞっていた黒子の手が、黄瀬の前髪を掻き上げた。そうして現れた少し赤くなっているだろう額に、黒子は軽くキスを落とす。瞬間黄瀬は身体中の温度が一気に2度くらい上がった様に思った。きっと今の自分は情けない顔をしている。思わず首を振って、黒子のキスから逃げようとするのだが、それは火神の手で止められた。火神の手が黄瀬の首筋を辿る。その動きに背筋を走っていく何かに黄瀬が戸惑うよりも、火神の口が黄瀬の耳を食んだ事の方が黄瀬には衝撃だった。
ピアスをしている方の耳を火神が舐る。濡れた音がダイレクトに耳から伝わって、黄瀬は顔を引こうとするのだが、身体に回っている腕のおかげでそれも出来ない。
「や、め」
「やめません」
「やめられねーよ」
止めて欲しいと言葉にしようとするも、吐息で途切れて言葉にならない。それなのに二人には黄瀬が何を言いたいのか分かって、その上で逃げ道を閉ざす様に言葉の先を奪っていくのだ。
うっすらと開いた視界の先に、自分を見ている黒子がいる。少しだけ辛そうな顔で、でも目の力は強いまま。その目が閉じられた、と思った時には口を黒子に塞がれていた。温い相手の温度。黒子の唇だ。
「ん、んん、」
唇をじっとりと舐められて腕が震える。押し返そうと手を伸ばしても、力が全然入っていなくて添えるだけに終わってしまう。思い通りにならない自分の身体が歯痒くて泣きそうになっていると、いつの間にかソファーに乗り上げていた火神が黄瀬の身体を引き寄せて、自分の足の間に黄瀬の身体を背後から抱き込む様な体勢を作っていた。さっきまで耳を舐っていた火神の口はそこからゆっくりと下降して首筋を辿りTシャツの隙間から僅かに覗いていた鎖骨に噛み付いた。その衝撃に黄瀬が思わず口を開くと、僅かの隙をついて黒子の舌が口の中に侵入してくる。蠢く黒子の舌が黄瀬の隠そうとしているものを全て暴こうとするように強引に吸い上げてくるのに逃げたくても逃げられない。
キスの時の呼吸の仕方は前回に教わって知っているので、呼吸の確保はできている。なのに、呼吸はできても苦しくて仕方ない。心臓が有り得ないくらいに早鐘を打つ。背中を火神の背に当てているので、きっと火神も黄瀬の鼓動が早い事は気付いているのだろう。
「は、……ふ、ぁ、」
ゆっくりと糸を引いて離れていく黒子の濡れた唇を涙で滲む視界で見ていると、火神の手で顔を横に向けられた。至近距離で交わる火神の視線に自然と目を閉じると、今度は火神の口が黄瀬を覆った。呼吸の為にうっすらと開いていた口の中に、最初から火神の舌は差し込まれた。ぬるりぬるりと動く舌に黄瀬の指先が縋る様に目の前にいる黒子のシャツを掴む。掴まれているシャツから慎重に黄瀬の手を離した黒子は、いわゆる恋人繋ぎで黄瀬の両手の自由を奪った。火神とキスをしながら横を向いている黄瀬の、ピアスをしていない右耳が目に入る。黒子はその円い貝殻の様にキレイな耳に狙いを定めて舌を伸ばした。耳朶を銜えると、黄瀬の身体が思い切り跳ねる。その際に火神の口から離れた黄瀬の口が通常よりも僅かに高い声を上げた。その声が心地好くて、黒子はもっと聞きたいと思った。その欲求を満たすために黒子はもう一度黄瀬の耳を銜えた。
「ゃ、ん、ふっ」
だが今度は火神と口が離れた所為で黄瀬は自分でこれ以上声を出さない様にと唇を噛んで食い縛ってしまうので、掠れた声しか聞こえない。
「噛むな、傷になる」
「うあ、ぁ」
火神が黄瀬の唇をまた覆うと、黄瀬の目尻から涙が一筋零れた。それがキレイだ、と黒子は心から思いながら、その零れたものを掬おうと黄瀬の頬を舌で舐め上げる。繋いでいる手がぴくりと反応する。繋いだままの手を目線まで持ち上げて、手の甲にキスを落とした。反対の手にもキスを贈る。三人の息遣いだけが部屋に満ちて、息苦しさとそれを勝る感情の波がひたひたと押し寄せてきた。
「きせ」
火神の声が問いかける。
「きせくん」
黒子の声が呼びかける。
駄目だ、と頭の奥で何かが叫んでいる。だけど黄瀬にはもう届かなかった。
震える手を伸ばす。左手で火神の頬を撫で、右手で黒子の頬に触れた。同じ様で、違う熱が目の前にある。手を伸ばして簡単に届く距離に。
何が、怖かったんだろう。
何が、不安だったんだろう。
何が、戸惑わせたんだろう。
胸の中で浮いては沈んで波紋を立てる言葉が薄れていく。
単純で、簡単なのかもしれない。
ただ、お互いを認めて、ライバルとして競い合う今の関係が、これをきっかけに壊れてしまうんじゃないかと、思っていた。だってどう考えたって、黒子と火神の二人がそろって自分に手を伸ばすなんて、有り得ないと。
二人から告白されて嬉しかったけれど、それと同じくらいに言いようのない不安に振り回されることになった今日までの日々。
『当たって砕けろ』
背中を押してくれた緑間の言葉を思い出して黄瀬が二人に向けてゆっくりと口を開いた、まさにその時だった。
それまでの静寂をあっさりと壊す軽快なメロディーが部屋の中に突如響き渡った。三人揃って音の発信源に視線を向けると、テーブルの上に置き去りにされていた黄瀬のスマートフォンがけたたましく着信を知らせている。無視をしよう、とは誰も思えなかった。それまで積み上げた密な空気が根元から折られてしまって、気まずいったらない。
「ご、ごめん」
黄瀬が取り敢えず謝りながら立ち上がる。手を伸ばして急いでスマートフォンを手に取ると、軽い所作で通話に切り替えて、もしもし、と声を出した。
『黄瀬か?』
「み、緑間っち」
果たして電話の向こうから聞こえてきた声は緑間のもので。意外に思いつつもどうしたのか要件を聞くと、だからお前は駄目なのだよ、といつもの科白を電話越しに貰うことになった。
「え?な、何が駄目だったんスか?」
『昨夜、俺がお前に宛てて送ったメールを読んだか?』
「昨日?あの後に?」
『その様子だと気付いてもいなかったようだな』
呆れた様な声と一緒に溜息も聞こえて、黄瀬は急いで謝った。
「ご、ごめんなさいっス。あの後家に着いたら、風呂入って直ぐに寝ちゃって……」
『そんなことだろうとは思ったのだよ』
「待って、今メール確認するから、」
『それよりも今俺が要件を伝えた方が早いと思わないのか』
緑間の冷静な声に、それもそうだ、と黄瀬は背筋を正した。
「それで、メールの要件って、」
『勉強は終わったのか?』
「え?え、えと」
一先ず終わったと言えなくもない。一通り最後まで通してはいる。二人に視線を向けるとなんとも言えない顔をしながら頷いているので、黄瀬も肯定することにした。
「一応、終わったっス」
『そうか、ではこれからコートに出て来れるか?』
「コート?って、緑間っち、勉強は?カズ君としてるんじゃないの?」
『その勉強を昨日中に終わらせたのだよ。高尾がバスケをしようと五月蠅いのでな。それでお前たちも終わっているのなら、丁度良いから高尾の相手をしてくれと思って』
ちょ、真ちゃんその言い方無くない!?
背後で高尾のブーイングが聞こえてきたが、緑間はあっさりとスルーしている。
『場所は○○公園だが、どうだ?』
「あ、うん、大丈夫、だと思うっスけど……」
『おい、黄瀬』
「な、何スか」
歯切れの悪い黄瀬に、緑間が怪訝な声を上げた。
『お前、二人に流されないで、ちゃんと自分の身は守れているんだろうな?』
緑間の言葉に、さっきまでのあれやこれやを一気に思い出してしまった黄瀬は、思い切りどもった。
「ななななななにをいってんスかっ!お、おれが、そんな、おれは、だって、」
『まさか、もう手遅れ』
「なわけないでしょーっ!」
ぎゃいぎゃいと電話越しに騒いでいる黄瀬の背後で、火神は黒子に視線を寄こした。
「相手、緑間だな」
「ですね」
「高尾もいるのか」
「あの二人は大体いつも一緒みたいですから」
「なあ、黒子」
「なんですか」
「お前、何で反応してないの」
その科白と一緒に火神の視線が黒子の下半身に向けられている。黒子は途端に絶対零度の視線を火神に向けた。
「最低ですね、火神君」
「ひでえな!その言い草!……だって、そうだろう、そりゃ、好きなヤツにあんなふうに触って、キスして、反応しない方がおかしい……って、黒子お前まさか、」
「何です」
「不能だったのかごふっ!」
火神の言葉を最後まで聞くことなく、黒子は容赦ない手刀を火神に振り下ろした。
「て、てめえ、黒子……」
「もう一発食らいたいですか?」
据わった目が全く笑っていない。背筋を這いあがるひやりとした悪寒に火神は首を左右に振った。
「……なんでお前は平気なんだよ」
不貞腐れた様な火神の声に、黒子はさらりと返す。
「君と一緒にしないでください」
「どういう意味だよ」
「そのまんまの意味ですよ」
まだ緑間と通話を続けている黄瀬を眺めながら、黒子は独り言のように呟いた。
「年期が違いますから」
「黒子、」
「それより、それ、どうにかしないと不味いんじゃないですか?」
黒子の視線が火神の下半身に嫌そうに向けられる。ばつが悪い顔をして火神はソファーから立ち上がる。もちろん、前屈みで。
「……トイレ、行ってくる」
「どうぞ、ごゆっくり」
嫌みを返して火神が去っていくのを見送っていると、黄瀬が丁度通話を終えたようだった。
「緑間君は、なんて?」
「うえっ!?あ、う、大したことじゃないっス……」
顔が赤い。なんとか熱を冷まそうと形の良い手がパタパタと団扇の要領で風を起こしているのを眺めていると、黄瀬が黒子の視線に気付いて慌てて黒子の傍に近寄った。
「二人の了解をちゃんと得てからまた連絡するっていったんスけど、緑間っちからバスケやらないかって誘われたんス。二人はどうするっスか?っていうか、あれ?火神っちは?」
さっきまでいたはずの火神の姿が見えないことに気付いた黄瀬がきょとり、とした目で室内を見渡しているのを内心で可愛いな、と思いながら黒子はトイレです、と淡々と答えた。
「それで、その、黒子っちは、どうスか?」
ソファーに座っている自分とは逆に、ソファーの下で自分を見上げるような姿勢の黄瀬が小首を傾げつつ聞いてくるのに黒子は頷いた。
「そうですね、ずっと勉強するのも飽きてきましたし、火神君もそろそろ身体を動かさないとストレスが発散できないでしょうから、お付き合いしますよ」
「やった!」
嬉しそうに笑う黄瀬を見て、黒子も笑う。
と、黄瀬が目を開いて黒子を見たので、黒子はどうしました?と尋ねた。
「あの、ね、黒子っち」
「はい」
戸惑うような目で黄瀬は黒子を見る。キレイな琥珀の瞳に映る自分の姿が見える距離で、黄瀬は口を開いた。
「聞きたいこと、あるんスけど」
「なんでしょうか」
「黒子っちは、」
「はい」

「俺のこと、どうこうしたいって思う?」

黄瀬の言葉に黒子は身の中からじわりと何かが這い出てくるように感じた。
「どうして、そんなことを聞くんですか?」
努めて何でも無いような声を出す。そんなことを、もう何回繰り返してきただろう。自分の想いを自覚してから、決して伝える様なことはしないと決めて、それがこの前までは叶っていたというのに。
鉄よりも固いと思っていた決意は、唐突に突きつけられた現実にあっさりと決壊してしまった。
「怒ったなら、ごめんなさい」
「怒ってませんよ」
「うん、顔見れば分かるっス」
「それで?」
「うん」
「どうしてです?」
「……怒らないでね」
「努力します」
うろうろと足元に視線をさ迷わせていた黄瀬は、ついと顔を上げて黒子の顔を正面から見つめた。
「俺さ、男でしょ」
「そうですね」
「黒子っちと同じです」
「ええ」
「キスは、できる。でも、」
「でも?」
「でも、それ以上って、なったら、黒子っちも、火神っちも、きっとできないんじゃないかって、俺、」
黄瀬の科白は途中で切れた。何故なら黒子が黄瀬の身体を押し倒して、上から見下ろしているからだ。
「……あ、あの、黒子っち?」
驚きに開かれた瞳。真っ直ぐに自分を見ている。この目を、存在を、どれだけ自分が焦がれて、そして、
「黄瀬君」
「黒子っち、」
「君はきっと覚えていないんでしょう」
「え、」
降り積もった想いがいつか溢れてしまうんじゃないかと危惧していた。伝えないと決めて、それが君を守ることになると信じて。そうして耐えて、耐えていたあの日々。
厳しい練習の合間にふらふらになってしまった自分が、足を滑らせてその場に倒れそうになった時、咄嗟に自分を抱えて抱きとめてくれたのは君だった。下敷きにしてしまった君の上から慌てて退こうとして、君の顔の横に手をついて初めて上から君を見下ろした時、僕は自分の中にこんなに不条理な想いが溢れていたのかと知って泣きたくなったんです。
「君の目に、僕はどう映っているんでしょうね」
黄瀬が息を飲んだ音が聞こえたように思った。
「僕は、男です」
ゆっくりと、顔を傾けていった。
「どうしようもなく、男なんです」
そのまま黄瀬の唇に触れようとしたその時、黒子の身体は背後から予想外の力で黄瀬から引き離された。
「抜け駆けは、容認できないんじゃなかったか?」
火神の低い声に、黒子は息を吐いた。
「早かったですね」
「うるせえ」
「あ、か、火神っち、おかえり」
「おう、大丈夫か?黄瀬」
「あ、うん、だいじょうぶ」
「黄瀬君、すみません」
「え、あ、」
「でも、知っていて欲しかったんです。僕らが君に向けているのは、キラキラしたものばかりじゃない。もっとドロドロして醜いものもあるんです。それでも、僕は、……僕らは君が欲しいと思った」
だから、逃げるなら今だ、と黒子が視線で言えば、黄瀬は肩を小さく震わせた。起こした身体を抱え込むように自分で抱き締めた黄瀬は、その手を離して黒子に向かって伸ばした。
唇に、黄瀬の唇が触れた。それは直ぐに離れてしまったけれど、黄瀬からの初めてのキスだった。
「黄瀬君、」
「お願い、だから、もうちょっとだけ、待って」
次に黄瀬は火神の襟元をぐい、と引っ張って、その口にも触れるだけのキスを贈った。
「俺、まだよく分かってないから、ちゃんと分かったら、二人に最初に言いに行くから、だから、お願い。待ってて」
泣きそうで、でも零れない涙。掴んでいる手は震えている。それでも彼は前を向く。
「待っています」
だから、こう答える以外に無かった。
「待っててやるから」
火神が黄瀬の頭を撫でる。黒子は黄瀬の手を握った。
「うん」
黄瀬が微笑んで、聞こえないくらいの音量で、ありがとう、と呟いた。


***


「遅いのだよ」
「ご、ごめんなさいっス、緑間っち!お詫びに差し入れ買ってきたっス!」
「やった!涼ちゃんはやっぱり気がきくねえ」
「カズ君、先にアイス食べないっスか?さっき買ってきたばかりだけどこの暑さだと今直ぐ食べないと溶けちゃうから」
「もらう!何にしようかなー、ほら、真ちゃんは?どれにすんの」
「俺はもう取った」
「早っ!いつの間に!」
「人事は尽くすものなのだよ」
「今それ言うのかよ」
黄瀬と高尾が楽しそうにどのアイスにするのかコンビニ袋を開けて検討しているのを、少しだけ離れた位置で見ていた黒子と火神の元へ緑間が近寄った。
「試験対策は終わったのか」
「まあ、大丈夫だと思います」
「なんとかなるだろ」
「お前は雑だからな、ちゃんと穴は埋めるようにするのだよ」
「雑って言うな!」
火神が叫び、緑間が溜息を吐いていると、黒子が緑間に呼びかけた。
「緑間君」
「何だ」
「黄瀬君から話は聞いているんですよね」
「まあ、大体はな」
「じゃあ、これからもお願いします」
「黒子?」
「きっと、これからも僕たちは黄瀬君を混乱させてしまうだろうから」
「お前が頼みごととは、相当なのだな」
「君なら分かるでしょう」
「さあな。まあ、黄瀬が泣き付いてきた時はなんとかしてやるが、お前らもさっさと腹を括れ」
「それはもうとっくです」
「後はアイツ次第なんだよ」
黒子と火神の言葉に緑間の目が僅かに開き、そして細められた。
「ふん、まあ、精々人事を尽くすのだな」
「言われるまでもねえよ」
火神が不敵に笑っているのをなんとなしに眺めていた黒子は、緑間がそういえば、と遅れて口に出したことに目を剥いた。
「黒子、一つ言い忘れていたのだが」
「なんですか」
「帝光中学バスケットボール部規約特例第一条の効力はまだ有効なのだよ」
「……え」
「この前青峰に会った時に少しこの話をしたのだが、その時のアイツの言葉を一言一句間違えずにお前らに伝えておこう」
「何で青峰が?」
「ちょ、ちょっと待ってください、緑間君」
「『俺の肌が黒いうちは、黄瀬は誰にもやらねえぞ』……だそうだ」
緑間が真似た青峰の言い回しが似てないとか、肌じゃなくて目だとか、むしろ肌とか言われたらそれ一生無理じゃないか、とかそんなことを思う余裕も無く蒼白になった黒子の顔色を心配して火神が黒子を呼ぶが、黒子に返事が出来る余裕は無い。
「確かに伝えたぞ」
それだけ言って黄瀬と高尾の方へ歩いていく緑間の後姿を見やりながら、火神が黒子に視線を向けると、黒子が信じられないくらいの気迫を込めた顔でそこにいた。
「……黒子、お前、どうした」
「火神君、僕らはこれから本当に何がなんでも、絶対に負けられないことになりました」
「ど、どういうことだよ?」
「君は中学は日本に居なかったし、当然帝光にもいませんでしたから知らないことですが、僕らがいた帝光中学には部の規約というのもありました。大所帯でしたからね、統制を図るためもあったのでしょうが、その規約にある時期から特例が設けられたんです」
「特例?」
「裏規約とでも言うのが一番近いかもしれません。表沙汰にはなっていませんが、裏では誰もが知っている鉄則です。それ故、表の規約より浸透性が高かった。それが、帝光中学バスケットボール部規約特例第一条です」
「なんなの、それ」
「これは黄瀬君の為に作られた、黄瀬君の為の規約です」
「は?」
「黄瀬君は今でこそ、身体も成長して筋肉も程良くついて、でもモデルの仕事もあるからそこそこの細身を維持しつつ必要な筋肉だけは落とさない、まさに抜群のプロポーションの持ち主なわけですが、中学の時はまだ成長途中で今よりもっと細かったんです。それであの顔です。そこらにいる女性がうっかり裸足で逃げ出したくなるような美少年でしたから、当然間違いを犯す人間が出てきました」
「間違いって」
「男所帯のむさ苦しい中に、黄瀬君は正に清涼剤の効果をもたらしてくれました。彼が笑えばそれだけでその場が華やぐ。その影響の程は御想像にお任せします」
「……なんか、想像ついたわ」
「そんな黄瀬君に対して悪い虫がついたりしないように、黄瀬君を守るために赤司君が作ったのがその裏規約でした。発起人は今となっては誰とも言えませんが、黄瀬君を除いたキセキの世代全員の総意もあって即決、施行される運びになったわけです」
「……内容は何なんだ。いや聞かなくても大体想像つくんだが」
「規約の内容は分かり易くこうです。黄瀬君に好意を持ってお付き合いをしたいと思う人間は、黄瀬君を含むキセキの五人全員をバスケで負かせることができない限りはその権利を得ない」
「……それって、」
「僕も迂闊でした。中学を卒業していたので、すっかり忘れていたのも悪いのですが、まだ効力が切れてないなんて……」
「おい、それじゃ」
「黄瀬君、緑間君には勝ちました。だから、残るはキセキの三人ですが、彼らはそれぞれ大変な曲者揃いです。青峰君は普段はあんな態度ですけど、中学から黄瀬君のことを弟分みたいに可愛がっていましたから、さっきの緑間君の伝言を聞く限り、まだ相当ですね。……高校が離れた所為でその反動もきているのかもしれませんが」
「ちょっと待てよ、俺たち一度青峰に負けてんじゃねえか!?」
「そうですね」
「そうですねって、それじゃ、」
「大丈夫ですよ」
「何が!」
「この規約は回数については言及してないんです」
「は?」
「つまり、負けたとしても、また挑めるってことですよ。大抵の人は一度負けたらもう二度とやろうなんて思ったりしないくらいに徹底的にこてんぱんにやっつけられてますからね。見てる方が可哀そうになるくらいに。だから僕らはその規約の裏をかけばいいんです」
「そうか、ってもそれでもあと三人に認めさせないとならないってのか……」
「火神君」
「黒子」
二人はお互いの顔を見合わせるとそれぞれの右手を突き出して固い握手を交わした。
「とりあえず、共同戦線をひきましょう」
「勿論だぜ、相手にとって不足はねえ!」
「WC、絶対に優勝ですよ」
「当然だ!」
二人の会話が途切れた丁度その時、タイミング良く黄瀬が二人を大声で呼んだ。
「黒子っち!火神っち!アイス!溶けちゃうから早く食べようっス!」
夏の日差しに負けないくらいのキラキラした笑顔を振りまいている黄瀬に向かって、黒子と火神は背後でお互いの固い拳をぶつけてから走り出した。



「なあ、涼ちゃん」
「なんスか?カズ君」
「あの二人さあ、」
さっきまであそこはブラックホールか、という様な重く、そしてどす黒い空気を醸し出していた黒子と火神の二人が、今は闘志を剥き出しにした鬼気迫る眼差しでこちらに駆けてくるのを少しだけひいた目線で眺めていた高尾は、黄瀬がこちらを向くのに合わせてその耳に向かって内緒話するように小声で話しかけた。
「どっちが涼ちゃんの好きなひとなの?」
その瞬間、黄瀬の顔がぽん、と赤く染まった。
「カ、カカカカズ君っ!?」
「ねえ、どっち?」
「や、あの、その、」
おろおろとして泣きそうに顔を赤らめている黄瀬の姿は、まったくもって可愛いものであり。
高尾は面白いおもちゃを見付けたと言わんばかりの笑顔で、黄瀬の両頬に手をかけた。
「カズ君?」
黄瀬が呼ぶ自分の名を心地良く思いながら、高尾は不敵に笑ってみせた。
「涼ちゃん、あいつらに泣かされたら、直ぐに俺に言えよ?ぶっ飛ばしてやるからさ」
「ええっ!?」
驚き目を開いた黄瀬の頭の上にぽんと手がのせられた。
「俺にも言うようにするのだよ」
「み、緑間っちまで?」
「当然なのだよ」
「な、なんで」
疑問符を頭の上にたくさん浮かべている黄瀬に向かって、高尾と緑間は揃って口を開いたのだった。

「「そう簡単に、涼ちゃん(お前)を嫁にはやらない(のだよ)」」

嫁って!俺は男っスよ!という黄瀬の叫び声が響く公園で、蝉が一夏の一生を謳歌せんと盛大に鳴き叫んでいた。







20120823





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