安易な曲線が望む終着地点を擦り抜けろ【前編】



案外自分に堪え性が無いのだな、と認識したのは、やはりというか彼を目の前にした時だったと言うのは余りにもお粗末と言えるし、今更だと言われたらそれもそうかと頷かずにはいられないくらいには、自分はもうとっくに色々なものが振り切れてしまっていたらしい。そのことに気付いたのも、これもまた彼を前にした時だったのでもう笑うしかないと思うわけだが、こういう時ですら自分の表情筋が大変に強固であることが非常に残念でならないと思ってしまう辺り、本当に救いが無いと嘆くだけの余裕もあるので、やはり自分にはそれなりに耐えてきた年数が味方についていてくれるのだと、そこまで有り難くも無い結論に達したのであったのだが目下の悩みは寧ろそこには無くて、
「……あ、あの、黒子っち?」
さらさらと流れる金色の髪。同じ金色の長い睫毛が瞬きの度にその音が聞こえそうなくらい近い距離で彼を見下ろす。
呆然とした顔で自分を見上げてくる彼を見つめながら、無表情の下では一方では前述の様な事を考えつつ、もう一方では口に出すのも躊躇われる様な結構な葛藤と戦っていた訳だが、だからこれは無意識な行動であって、自分の意志と、理性と呼ばれる彼の為の命綱は結構早い段階でそれはもう一刀両断にぶった切れていたんです、と言いわけしてもいいだろうか。


***


「……おい、黒子」
呼ばれたのは自分の名前であるのだが、生憎と今は直ぐに返事をしてやりたくない事情がこちらにはあるのであっさりと無視して無言で通していると、見た目の通りにキレやすい彼はもっとドスの利いた声でもう一度自分の名前を呼んできた。彼を良く知らない人が聞いたら思わず震えあがる様な超低音だ。
全く、少しは待てないものなのか。
「黒子!」
「……何ですか、火神君」
「お前なあ、聞こえてんなら返事くらいしろよ」
「すみません、聞こえていませんでした」
「嘘吐け!」
嘘吐き呼ばわりとは失礼だ。そうは思ったが特に何も言わずに視線で先を促すことにする。こんな所で時間を潰すには惜しい。その理由である手に持っている本に視線を落とした。この前まで貸し出し中で何度も図書館に足を運んでは返ってきていないか確認していた本が今日になってやっと返ってきたのを知って、つい先程いそいそと出向いて借りてきたのだ。さあ読もうと開いて三分も経たない内に彼がやってきてこれでは時間が惜しい。放課後は部活に精を出すのだ。昼休みくらいしか自由に使える時間は無いのに、いつまでも火神に付き合っていたら、折角楽しみにしていた本が読めなくなる。さっさと要件を言え、と無言で視線をやると、火神は額に青筋を浮かべながらもなんとか冷静に話そうと一度大きく息を吐き出していた。
「……お前、試験の対策やってるか?」
苦虫を噛み潰したような声で火神が言う言葉に少しだけ目を開いてから、明後日の方向を見つつ口を開く。
「そんなこともありましたね」
「って、オイ!」
「五月蠅いですよ、火神君」
「俺の所為か!?っだあ!だからそうじゃねえ!お前試験勉強してるのか!?」
「火神君」
大げさに息を吐き出す。怪訝そうな顔をしている彼に向かってきっぱりと言い切ってやった。
「してる訳ないでしょう」
何を馬鹿な事を、と言外に付け加えて言い放つ。彼が気付くかは知らないが。
大体授業の後に直ぐに部活で、元々体力にそこまでの(あくまでそこまでの、だ)自信が無い自分が、あの鬼の様なトレーニングメニューをこなした後に、家に帰ってから教科書やら参考書やらを開く余裕があるとでも言うのか。体力バカな目の前の彼ならそれくらい出来るとでも言えそうだが、彼の場合文字通り教科書を開いた所で終了している姿がありありと目に浮かぶ。
「……だよなあ、お前ですらそれなんだから、俺が出来るわけ無えじゃねーか」
「そこで既に基準が間違っていると思いませんか」
「知るか!」
憤慨して叫びながらも、その顔は情けない、の一言に尽きる。自分も文系なので理系方面にははっきり言って自信が無い。中学時代ならばこんな時に頼りになった存在が今は――
「あ、」
「あ?」
思わず漏れた声に火神が反応するのを舌打ちしたい気分で無かったことにしようとしたのだが、それも無理な話だったようだ。
「お前、誰か教えてくれそうなヤツに心当たりでもあるのか?」
そう聞かれたら、ある、と言う事が出来る一人の存在が頭に浮かぶ。しかしそれを今この場で口にするのは、色々と、というよりも自分の中での折り合いがまだついていない点が多々あるので正直に答える事が難しい。しかしだからと言ってこのままでいいわけでもないのは自分自身が理解している。
文武両道とは良く言ったもので、学生の本分は勉学に励む事と部活に精を出す事だと大人は言う。その比重がどちらに傾いていてもそれは本人たちの責任になるとは思うのだが、それは子どもの言い分でしかないのだ。
そして目下の問題は差し迫った期末試験だ。赤点を取ろうものなら補習を受ける羽目になる。そしてそうなった際に一番怖いのは二年の先輩方に他ならない。バスケに向かう時間が削られるなんて事になったら、一体どんな目にあわされるのか、考えるだけで恐ろしい。火神もそれを一番恐れているんだろう。自分だけならなんとかなる、とも言えない今の状況を思って、眉間に皺が寄る。何かと火神と一緒くたに扱われていることから、火神が赤点を取ろうものなら自分も連帯責任を負わされることは想像に難くない。このままでは自分も、そして火神も赤点は免れないかもしれない。
背に腹は代えられない。
そう決意するとポケットから携帯電話を取り出した。
「黒子?」
「しょうがないので、最後の手段を取ります」
これで吉と出るか、凶と出るかは、もう自分たちよりも相手の出方次第だ。メール作成画面を開いて文章を打ち出す。暫くカチカチというボタンを押す音だけが辺りに響き、そして止まる。
「後は、返信が来るのを待つだけです」
「っていうか、誰に送ったんだ?」
火神の困惑した顔を見つめながら、ここ最近、恐らく火神もまた同じ人物の事で頭を悩ませているだろう、たった一人の彼の名前を口にした。
「……黄瀬君です」


***


「黄瀬、さっきからどうした」
向かい合って座っていた黄瀬がさっきから妙に神妙な顔でスマートフォンを弄っている姿にいい加減飽きてそう声をかけてやれば、当の本人は慌ててスマートフォンを閉じてまるで何でもありません、とでも言うようにテーブルの隅にそれを追いやっている。
「な、何でも」
「無い、という顔ではないのだよ」
眼鏡のフレームを指で押し上げながら溜息を吐いてやる。それを見てあからさまに肩を落とすその姿は普段の姿とは比べ物にならないくらいに意気消沈していてどうにも納まりが悪い。
「……緑間っち」
「何だ」
「いつから気付いてたっスか?」
何を当然なことを言っているのか、こいつは。分かりやすい程に分かりやすい自分の表情に、こいつはそろそろ自覚を持った方がいい。
内心でそう思いつつもそこまでは口に出さないで端的に答える。
「最初からな」
そうすれば、どこまで分かっているのだろうとでも思っているんだろう、苦笑しながら黄瀬は口を開いた。
「その、最近ちょっと、悩みごとがあって」
それがちょっとのものなのかどうかは、本人次第なのだろうが、どう見てもちょっと、でまとめられるような問題ではなさそうなのは今までの経験から分かってしまうぐらいに付き合いを重ねている自信がある。余り嬉しくもないその自信から視線だけで話せ、と促せば、普段ならば素直に開く口が珍しく閉ざされたままで、更にそのまま顔まで伏せて俯いてしまった黄瀬に、今回のはまた随分と根が深そうだ、と知らず溜息が口から零れそうになる。
「……そんなに面倒な事なのか」
「面倒、っていうか、」
どう言えばいいのだろう、と迷う様な素振りで、黄瀬がぽつりと言葉を落とす。
「ただ、ちょっと、失敗したっていうか、早まったっていうか、もっと冷静になれば良かったっていうか、そうしたら俺もきっとちゃんと考える余裕も出来たと思うのに、もう今更どうしようもないっていうか」
「お前の失敗など、今更重ねたところでいつものことなのだよ」
「ちょ、その言い草は酷いっスよ!?」
「本当のことだろうが」
「それは、そうかもしれないっスけど……」
そうしてまた俯いてしまうのでもう埒が明かない。短気という訳ではないが、こうも目の前で辛気臭い顔をずっとされているのは目についてしょうがないのだ。……決して普段の、底なしの明るさを全面に押し出した様な笑顔を見せろとか、そう思っている訳ではない。断じて。
黄瀬と知り合ったのは中学二年からだが、同じ部活で付き合っていくうちにお互いの家が近かった事に気付いて以来、自然と行き帰りを共にする機会が増えた所為で、赤司を覗く他のキセキのメンバーよりは気安い関係だと思っている。こうして試験の前にどちらかの家で集まって勉強しあうくらいには。
中学時代にずっと続けていたその習慣の所為で、高校に入った後に初めての試験が近付いた折、つい、『次の試験対策は俺の家でやるのだよ』とメールを送ってしまった際に、今までに無いすごい早さで返信がきて、『まだ俺と勉強してくれるんスか?』と聞かれた時には、今この場に黄瀬がいない事が心底悔やまれた。目の前に奴がいたら、その能天気そうに見えて、意外に人の機敏に聡い頭を思うさま叩いてやったものを。『馬鹿なことを言うな』と返してやったら、これまた直ぐに返信が来て、それがただ、『嬉しい』の一言だったのがまたどうしようもない。大体高校入学の為の試験勉強だって一緒にしていたというのに、何を今更遠慮する事があるというのか。お互いが考えて別の高校に進む事になったこともちゃんと理解していると思ってはいたのだが、変なところで遠慮してくるコイツの気の使い方に無性にイライラする時がある。
お好み焼屋の一件以来、自分の知らない内に何時の間にやら意気投合していた高尾も含めて三人で勉強をするようになったのはつい最近の話で、毎回毎回どちらかの家で顔を合わせる度に、嬉しい、という感情を隠しもせずに純粋な笑顔を向けてくるコイツを自分自身が呆れるくらいには目をかけてやっている自覚は残念ながらある。赤司に言わせれば、『絆されたか?』とでも言われそうなのだが。
それにしても、と思う。黄瀬がこんな風に落ち込む様なことになるのは、今までの事例を思い出しても大抵アイツが絡む事が多かった。しかし今アイツは自分と同じで黄瀬とは別の高校に行っている。中学の時の様に簡単には会えるわけでもないアイツが原因だとでも言うのだろうか。練習試合の一件から、以前よりももう少しだけアイツの事が分かるようになったのだ、と話していたのはいつの事だったが。どこまでも嬉しそうな割に、けれど煌めく瞳の色はまるで強者を前にした挑戦者の様な強かさでいたのが記憶に新しい。
だから、これはあくまで単純に、別に直球のつもりではないファール覚悟の変化球くらいの科白だったのだが。

「黒子に告白でもされたか」

どうやら、ジャストミートでストライクだった様だ、と気付いたのは、黄瀬のまん丸に開いた零れ落ちそうな目を見た瞬間だった。
「な、な、なんで、」
分かり易く動揺している黄瀬の姿に、言った自分も驚いた。
「本当なのか」
「え、あ、いや、そのっ」
「黄瀬」
「ああああああの、だから、俺は」
「……取りあえず、落ち着くのだよ」
黄瀬の余りの取り乱しっぷりに、逆にこちらが冷静になれた。わざと淡々とした声を出してやれば、黄瀬はなんとか落ち着こうとして、何度も深呼吸を繰り返している。何度目かのそれが終わった後で、黄瀬は膝の上に置いた手をぎゅうと握り締めてこちらを向いた。
「……なんで、分かったんスか?」
ここで素直にカマをかけただけだ、と言ってしまったら、色々と取り返しがつかなくなりそうなのでそれは言わないでおくことにした。そのまま黙っていると、
「俺、そんなに分かりやすいかな」
ぽつりと、独り言の様な小ささで呟かれた言葉に片眉を上げる。
全くしょうがない。
これ以上その情けない顔を拝むのはごめんなのだ。だからはっきりと言ってやることにした。こうなったらもう、毒を食らわば皿までだ。
「いいから、何があったのか俺に詳しく話せ」
それがこれからの悩みの種になることを承知の上で、俺は黄瀬の口からその先を話す様に促した。





「……と、いうわけなんスけど」
緑間はさっきまでの自分の意思を思い切りぶん投げたくなった。というか、時間を巻き戻せるならば今直ぐにさっきまでの自分にそれ以上を聞くのを止めろ、と伝えに行きたい。速攻で。早急に。
だが、いくら願ったところで現代科学にまだそこまでの技術は無い。それくらい分かるくらいにはまだ自分は冷静でいられると信じたい。
「あの、緑間っち?」
勉強するために出しておいたそう大きくもないテーブルの上で片肘を付いて俯いたまま動けないでいる自分を見てどう思ったのか、黄瀬は慌てた様な口調で自分を呼んでいるのだが、今はそれに直ぐに対応出来ない。自分の中で消化しきれないあれこれが纏まって絡まってどうにもならないのだから。
「だ、大丈夫っスか?」
声からおろおろとしているのが伝わる。テーブルを挟んで向かい合っていた黄瀬が動いて、自分の隣に来たかと思えば、その手で背中を撫でてくれるに至って、緑間はもう本当にどうしようもないのだ、と盛大に溜息を吐くことにした。
「……お前にも色々と問題はあると思うのだがな」
「は、はいっス」
「何だって、二人まとめて好きだ、などと答えてしまったのだよ」
そう、自分が言いたいのはそこだった。
黄瀬から話された内容はこうだ。先ず問題の出発点は黄瀬が火神と1on1を始め、その後なんやかんやで二人で話をしている内に火神の馬鹿があろうことか黄瀬にキスをしてきたこと、更には黒子にそれが見られて、あまつさえ何故かそこで黒子にまでキスをされて告白までされてしまった、というどう処理したら、どこから吟味すればいいのか全く見当もつかない難問だった。
「なんとなく、勢いで、つい……」
つい、じゃない。そんなその場のノリで、みたいな勢いでお前は男二人に対して告白してしまうのか。一体お前の親はお前にどんな情操教育をしてきたのか小一時間程問い詰めたい。そんな感情が顔に出ていたのだろう、黄瀬が慌てて口を開いた。
「嫌だ、とか、気持ち悪い、とかそんな風には思わなかったんスよ。火神っちにキスされた時も、黒子っちにキスされた時も。ただ、びっくりして、その瞬間は頭の中がごちゃごちゃになっちゃって、でも、二人の目を見てたら、そういうのが全部どっかに行っちゃって、それで、」
「……それで?」
「……それで、さっぱりキレイになった自分の中に唯一残ってた感情、っていうか、気持ちが、二人が好きだって、それだけ、だったから」
それを素直に口に出してしまったのだ、と。
……頭が痛い。眼鏡を外して眉間に寄った皺を撫でる様に指で押さえる。
「それで、お前はそれ以降どうしたんだ」
「そ、れが」
「それが?」
「な、何にも」
「……は?」
「な、何にもしてないっス」
「ちょっと待て」
何か、今自分はすごい言葉を聞いた気がするのだが、気の所為か?
「何も?」
こくりと黄瀬が頷く。
「告白されて、返して、それから何もしてないのか」
もう一度頷いた黄瀬の頭を反射で叩いた。
割に詰まったいい音がした、と思いながら黄瀬の頭を見つめる。
「お前は、本当にどうしようもないのだよ」
心底からそう言えば、黄瀬は叩かれた場所を庇いながら、少しだけ濡れた目を上げてこちらを見上げてくる。
「それは、その、俺もこれは不味いって思って、いたんスけど、その、」
どうしたらいいのか、見当もつかなくて。
まあ、それはそうだろうとも思う。いきなり同性に、しかも二人から一度に告白されたら、戸惑うのは当たり前だろう。そうは思う。思うが、だがコイツは一応の返事を二人に対して返してしまっているのだ。なのにその後のコイツの行動はどうなんだ。
「二人から何か連絡は無かったのか」
「あったんスけど、仕事が立て込んでて、部活も忙しかったし、あんまりちゃんと連絡出来ないでいたら……」
気付いたら、あれ以来特に何をする訳でもなく、三週間が過ぎていた、という。
――呆れて何も言えないとはこの事か。
いくら自分が恋愛方面に疎いとは言え、これは無いのではないだろうか。黒子や火神からしてみれば、受け入れてもらった告白がまるで宙に浮いてしまっている状況だ。黄瀬本人の意思がまだちゃんと固まっていないのでは、二人に今会ったところでまともな会話すら危ういのではないかとも思うが、何か、あの二人が憐れの様にも思えてしまう。
「……まあ、それはそうとして、今お前が悩んでいるのは二人に会えないことにあるのか?」
取り敢えず、二人の事は置いておいて、黄瀬が今悩んでいる事の方に視点を動かす事にする。そちらもどうにかしない事には何も話は進まないだろうことは自明の理だ。
「……その、今日メールが来て」
「誰から」
「黒子っちから」
「それで」
「それで、その、明日の日曜に勉強を一緒にしてくれないかって。火神っちも一緒に、三人で」
「あっちも試験が近いのだな」
「それで、なんて返そうかなって、悩んでいます」
正座のまま背中を丸めて膝の上に置いた手を所在なさげに閉じたり開いたりしている黄瀬を真横から見る。まあ、それでさっきからスマートフォンに意識を向けていた理由が分かった。つまり、黄瀬は今どんな答えを返そうかでひたすら悩んでいる訳なのだ。
「メールが来たのは何時頃だ?」
「丁度昼休みくらいっス」
「それから、かれこれ九時間以上経っている訳だな」
「……はいっス」
「黄瀬」
「何スか?」
「行ってくればいいだろう」
自分の言葉に黄瀬が俯いていた顔を勢いよく上げた。驚きに開かれた目が自分を見ている。
「このままでいいわけないのは、お前が一番良く分かっているのだろう?」
「……うん」
「だったら、当たって砕けろ」
「え!?」
「どうせこのままではまた無為に時間が流れていくだけだ。だったら正面から向かって行けばいいだろう。それこそお前らしいと俺は思うが」
「緑間っち」
「安心しろ、骨くらいは拾ってやるのだよ」
「それ、あんまり安心出来ないっスよ?」
へにゃりと、黄瀬が笑う。今日ここにきてからやっと見せた、らしい笑顔だった。それに少しだけほっとした自分がいたが、気付かなかったことにする。
「まあ、いきなり押し倒される事も無いと思うが、万が一にも身の危険を感じたら直ぐに逃げるくらいの余裕は持てる様にしておくのだよ」
「……オ、オシタオサレルンスカ」
分かり易く青褪めた黄瀬に何を言うのかと呆れてしまう。
「そういうことだろう、あの二人がお前に向けている感情と言うのは」
「そ、それは、そう、え、そうなんでしょうか?」
動揺のあまり敬語になっている黄瀬がなんとなく面白いと思うぐらいの余裕が自分に戻ってきた。
「お前の話を聞いているだけの俺が知るわけないのだよ。ただ、まあそういう事だろう?突き詰めればそこにいくのは火を見るよりも明らかだと思うが」
青くなった顔が今度は赤くなる。忙しないことなのだよ、とひっそりと思いながら、目の前の教科書に視線を移した。
「さて、そういうことなら、今日中にある程度終わらせておかねばならないな」
「え、あの、俺」
「明日勉強を教えてくれと頼まれているのなら、今日中にお前の分はやっておかないとお前が困るだろう」
「それもそうっスね」
こういうところの切り替えの早さが本人にとって良いのか、悪いのか。おくびにも出さずに溜息を吐いた。
「取りあえず数学はもう大丈夫っスね、現代と歴史もなんとかなるし、じゃ、英語やるっスか?」
「そうだな。黄瀬」
「何スか?」
自分の席に戻ろうと四つん這いになって歩いて行こうとする黄瀬を名前を呼んで止めた。
振り返ってこちらを見る黄瀬の頭の上にぽんと手を乗せる。さらさらと指の隙間から零れる髪質は中学の時から変わっていない。手に触れた時のこの手触りが殊の外気に入っているのは誰にも、本人にも言っていない事だ。
「緑間っち?」
柔らかい声だ。コイツが自分を呼ぶ時の妙な呼び方を最初こそ直せと何度も言ったが、今ではこれ以外で呼ばれる事の方が考えられないくらいに沁みついてしまったそれ。何度か黄瀬の頭を撫でてやると黄瀬の顔がゆっくりと笑顔になっていった。少しだけ照れた様に頬を染めている。
「……ありがと、緑間っち」
何に対しての礼か聞かないでも分かる。一つ頷いて手を離そうとした丁度その時だった。
「おっ邪魔しまーす!真ちゃーん!涼ちゃんまだいる!?帰ってないよね!!俺涼ちゃんに英語教えて貰わないと今回マジでヤバイんだけど!」
バーン!と勢いよく開かれた扉の先に、髪をぼさぼさにして汗を流しながら情けない顔をした高尾が立っていた。その高尾が俺たちを見たまま石の様にピタリと固まった。
「カズ君?」
黄瀬が首を傾げた拍子にその頭の上に乗せていた自分の手が離れた。手持ち無沙汰になったそれを仕方なく下ろしながら、高尾を呼ぶ。
「何をしているのだよ高尾。そんなところでつっ立ってないでさっさと入れ」
「え?!え、あ、うん、お邪魔、します」
心なしか肩を狭めて入ってくる高尾に俺も首を傾げていると、黄瀬が手早くテーブルの上の教科書やらノートやらをまとめて高尾の為のスペースを作った。この三人で勉強をする時の定位置である黄瀬の隣に座り込んだ高尾は、黄瀬の方にちらりと視線を向けて何やら小声で話している。
「涼ちゃん、俺、お邪魔だった?」
「え?何でっスか?カズ君来るの、ちゃんと二人で待ってたんスよ?緑間っちからカズ君が英語分かんないって言ってたって聞いてたから最後にやろうって決めて、それで今から始めるところで、」
「あー、いやそういう事じゃなくてね」
「高尾」
「ナンデショウカ、真ちゃん」
「阿呆な事を言ってないでさっさと準備しろ」
「アホってね!俺は気を使って」
「何を気を使う事があるのだよ」
「だあって!真ちゃんが涼ちゃんの頭撫でてあげてるシーンに乱入しちゃったんだよ!俺!お邪魔したんじゃないかなーって思うじゃん!」
「あ、ち、違うっスよ!カズ君。緑間っちは俺を慰めてくれてただけで」
「慰めて、って、……何それ涼ちゃん、まさかイジメにでもあってるの!?」
その瞬間、高尾の周りの温度が一気に下がった。
「え?」
「どこのどいつだよ、言えよ涼ちゃん、俺がシメてきてやるから。なんだったら真ちゃんも連れていくから、ほら安心して」
「ち、違うっス!本当にそういうんじゃないから!落ち着いて、カズ君!気持ちは嬉しいけどカバンから物騒なもの出さないで!」
「大丈夫だよ、涼ちゃん。表沙汰にはしないから」
「目が!目が本気っス!カズ君マジで落ち着いて!」
「真ちゃん知ってるんだろ、誰だよ、相手」
「緑間っち!お願いカズ君止めて!」
普段の気安さとは一転して視線だけで相手を射殺せる様な鋭い眼差しでこちらを見る高尾の隣で、これまた普段の爛漫さが形を潜めて零れそうなくらいの涙目で高尾の左腕を必死で掴まえている黄瀬、という構図が目の前で繰り広げられている。
「お前も知っているヤツなのだよ」
「緑間っちいいいいいい!?」
「よっしゃ、今から行くか。案内して真ちゃん」
「やーめーてー!カズ君、本当にやめてーっ!」
今直ぐにでも飛び出して行こうとする高尾を、それこそ縋る勢いで引き留めようとする黄瀬の顔には、さっきまでの情けない表情が見られない。少しはこれで吹っ切れただろう。
「というのは、冗談だ。高尾、さっさと勉強を始めるぞ。明日黄瀬は来られないからな。今夜がチャンスなのだよ」
「え、そうなの?何だよ、早く言ってよー真ちゃん。俺結構本気だったのに。まあ違うならいいけど。そんじゃ涼ちゃん英語教えてー」
「……緑間っち、悪趣味っス……」
黄瀬が項垂れながら零した言葉を鼻で笑って、英語の教科書を開く。
「お前には言われたくないのだよ」
そう言ってやれば、一瞬だけぽかんとした黄瀬が次の瞬間には首筋まで真っ赤に染めてしまうので、何が?と首を傾げた高尾に必死で取り繕うとして失敗する黄瀬、という珍しいものが見られたので今回はこれで許してやろう、と素知らぬ顔でノートに単語を書き出していった。





泊まっていくか?と聞けば、大丈夫だ、と黄瀬は返した。送っていこうとする高尾に近くだし大丈夫だから、と辞退した黄瀬が笑顔で手を振って帰っていくのを見送る。
見慣れた長身が角を曲がったところを確認してから家の中に入った。部屋に戻ろうと階段を上っている途中で高尾が呟いた。
「真ちゃんあのさ、涼ちゃん、本当に大丈夫なの?」
「何がだ」
「いや、何となくだけど、今日の涼ちゃん、いつもみたいな元気がない様に見えたからさ」
「お前に気付かれるとは、黄瀬もまだまだなのだよ」
「やっぱり、何かあったんしょ?」
「まあ、結果は明日分かるだろう」
「明日?」
「その内また来るだろうから、その時に話を聞いてやればいいだろう」
「あー、うん、そうね。そういやさ、さっき真ちゃんが飲み物取りに行ってくれてた時に涼ちゃんと話したんだけど、この前二人で遊園地行ったんだって?」
「偶々会っただけなのだよ」
「何で俺も呼んでくれなかったんだよ」
「黄瀬に言え」
「うん、涼ちゃんに言ったら、じゃあ今度三人で一緒に行こうって事になったから。涼ちゃんと行く日決めたら連絡するから真ちゃん予定空けておいてね」
「勝手に決めるな」
「いいじゃん、真ちゃんが乗り気じゃないなら、俺涼ちゃんと二人で行ってもいいけど」
「……行かないとは言ってないだろう」
「うん、だからよろしく」
「……」
どうにも言い包められた気がしないでもないのだが、この二人だけで行かせた時に巻き起こるだろう厄介事の方が後々面倒な事になりそうなので、監視と言う名目を持っていくしかないのだろう、と溜息を吐く。
決して、自分も行きたいとかいうわけではない。断じて。
「さーて、涼ちゃんに教えてもらったから英語は良しとして、真ちゃん、古文どうした?」
「これからなのだよ」
「じゃ、ちゃっちゃとやろうぜー。んで明日はバスケしようよ」
「終わったらな」
「終わらせるんだよ」
ニッと得意気な笑みを見せる高尾に仕方ないヤツだ、と肩を落とす。まあ、残っている教科を考えれば不可能では無いな、と思いなおしてから、後で黄瀬にメールを送ってやろうと考えた。
あの二人と向き合って、ちゃんと答えを出せればいいのだが、もしも出来なかった時の逃げ道くらいは用意してやってもいいだろう。高尾に知られたら、甘い、と笑われるのだろう、と不本意ながら思いつつも、ポケットに入れていた携帯を開いてメールを打とうとした。
「……しかし、意外だったのだよ」
「真ちゃん?どったの?」
「何でもない」
ふと思い出したのは、あの影の薄い存在の事だ。存在が希薄の割に、変に意志が強くて頑固だったアイツは、だからこそ最後の最後まできっと隠し通すと思っていたのだが。
いつだったか、もう忘れてしまったが、自分が黒子の想いについて気付いたのは偶然だった。部活の休憩時間中、ふと黒子を見ると、アイツは何かを一心に見詰めていた。あんなに熱心にアイツが見ているものが何なのか何となく気になって、その視線を辿ってみた先にいたのは目映いばかりの笑顔を振りまいている黄瀬の姿だった。その黄瀬を見つめているアイツの顔を見て、気付いてしまったのだ。黄瀬の言葉を借りるのであれば、きっとあれが、
「この俺でも気付けるのだから、相当なのだよ」
「さっきからなーに独り言を言ってるのさ、真ちゃん」
「古文は、お前一人で何とかするのだな」
「そんな殺生な!勘弁してよ、真ちゃん!」
高尾の悲鳴を背後に聞きながら部屋の扉を開ける。以前桃井の黒子に対する感情を気付かなかった事に対して、黄瀬は鈍い、と叫んでいたが、黄瀬だって十分に鈍い。あんな視線を向けられていてそれに一切気付けなかったのだから、黄瀬だって相当だ。まあ、アイツの場合、向けられる感情が無駄に多過ぎてその分麻痺してしまっているところもあるのだろうが。
「全く、手間がかかるのだよ」
「それ、俺の事じゃないよね?」
「さあな」
一先ずは目先の試験をなんとかしよう。その後でならいくらでも愚痴を聞いてやってもいい。黄瀬に向けて簡単なメールを打って送信ボタンを押してから、取り掛かるべき古文の教科書のページを開いた。


***


さて、どうしたものか、と黄瀬は頭を悩ませていた。取り敢えず緑間に相談して明日は三人と勉強をするという事で決まったのだけれど、なんて返信を送ればいいのか分からない。以前なら何でもないメールだって気軽に送れたというのに、あの日以来それが出来なくなってしまった。
簡単だ、と思うのに。ただ、行く、と。それだけを打てばいいと思うのに、手が動かない。黒子から貰ったメールを開く。ありきたりなメールだ。明日の予定と、勉強を教えて欲しい旨が書かれた簡潔な内容。それだけなのに、黒子のあの日の視線とかを思い出してしまって、手が震えた。
『……黄瀬君』
「うわああああああ……」
黒子に呼ばれた自分の名前を思い出してベッドの上で呻く。お気に入りのクッションをばふばふと意味も無く叩いて黄瀬は仰向けに寝転がった。
『黄瀬』
「うううううう〜〜」
そうすれば今度は火神の声を思い出してしまってもうどうしようもない。顔が赤いと思う。本人たちがこの場にいないのに、声だけを思い出してこうなってしまうなんて、明日面と向かってちゃんと会話なんて出来る自信がこれっぽっちも無い。
どうしよう、やっぱり断るべきだろうか、と悩み始めた時、スマートフォンが着信を知らせた。顔を手で覆っていた為に画面を確認しないで黄瀬は電話に出た。
「……はい、」
そしてそれが仇になるとは思いもしなかった。
『黄瀬君、今晩は』
あの日の夜、彼からかけられた同じ言葉。
即座に跳び起きた。
「くくくくく黒子っち!?」
『どうも』
何で確認しなかったんだ、と思ってももう遅い。電話の向こうには黒子がいる。変に汗をかいてしまって手が震えた。声だけでこんなになるなんて。
『あの、今大丈夫ですか?』
「だ、大丈夫っス!あ、あの黒子っち、メールの返信まだ送ってなくて、その、ごめん」
『ええ、大丈夫ですよ。君が忙しいのは分かっていますから、我儘を言っているのはこちらですし』
「そんな、我儘って」
『我儘ですよ、明日の君の時間を下さいと言っているんですから』
心臓が思い切り跳ねた。
ヤバイ、何となくだけど、これ以上黒子の声を聞いているのはヤバイと本能が警笛を鳴らしているのだが、電話を切る事が出来ない。
「あ、の、黒子っち。明日の事なんスけど、」
『はい』
「その、俺、」
駄目だ、こんな調子じゃまともに勉強なんて、寧ろ話なんて出来るわけがない。やっぱり断ろう、と黄瀬が言葉にしようとした時、黒子の方が先手を取った。
『黄瀬君、こんなことを君に言うのはずるいと自分でも思うのですが、それでもどうしてもお願いしたい事があるんです』
「何をっスか?」
『僕は、』
一つ、大きく息を吸い込んだ音が通話口の向こうから聞こえた気がした。
『僕は、君に会いたい』
電話の所為で耳元から直接流れ込んできた黒子の、それがきっと今の彼の本心だった。
『君は、僕に会いたくないですか?』
その聞き方はずるいと、黄瀬は思った。思ったけれど口には出せなかった。何があっても、どんなことをされても、黄瀬は黒子が好きだ。それはもう絶対に言い切れる。黄瀬が黒子を嫌うなんで事は天地がひっくり返っても有り得ない。
だから、例えそれが誘導された答えだったとしても、黄瀬はいいと思った。
「俺が黒子っちに会いたくないなんて、思うわけないじゃないっスか」
『……黄瀬君』
「明日、何時に行けばいいっスか?てかどこで勉強するのか聞いてなかったっスね」
『火神君の家で。彼の家はご両親が居なくて、彼一人なので好きに使っていいと言われました』
「そっか、じゃあ、」
『迎えに行きます』
「え、いいっスよ、住所教えてくれたら自分で」
『じゃあ駅まで迎えに行きますから』
待っていて下さい、と断れない強さで言われて黄瀬はうん、と返事を返した。それから二、三言葉を交わして待ち合わせ場所の駅を確認した後、電話はあっさりと切れる。
もう黒子の声は通話口から聞こえてこない。だけど耳から離さずに当てたまま、今は見えない黒子の姿を思い浮かべて、黄瀬はそっと目を伏せる。
「……やっぱり、俺って、馬鹿なんかな」
両頬を叩いて気合を入れると、丁度階下から母が呼ぶ声が聞こえてきた。
「涼太、お風呂入っちゃいなさいー」
「分かったー」
急いで立ちあがって扉に向かう。ベッドに置いたままのスマートフォンがメールの着信を知らせていたが、黄瀬は気付かないまま、扉は閉まった。


***


そして、明けて翌日。黄瀬は待ち合わせの駅に着いていた。目敏い女子に見付からないように一応カムフラージュの為に帽子と、伊達眼鏡をかけている。服装もジーパンにTシャツとラフな格好にしたのでそう目立っていないと思うのだが、身長だけはどうにもならないので少しだけ屈めた姿勢で改札を抜ける。目の前にあるタクシー乗り場の先、キレイに咲いている花壇の前に、彼は立っていた。
「黒子っち!」
「黄瀬君、こっちです」
読んでいた本を閉じた黒子が黄瀬の声に顔を上げてこちらに軽く手を振った。黄瀬は少しだけ跳ねた心臓を落ち着かせる為に胸の上に軽く手を置いて深呼吸した後に、黒子に笑顔を向けた。
「スンマセンっス!お待たせしたっスか?」
「いいえ、そんなに待っていませんよ」
黒子はそう言うと行きましょうか、と先に歩き出した。黒子が歩く一歩後を黄瀬はついていく。頭上にある太陽に照らされて黒子の足元から伸びる影が黄瀬の足先の直ぐ前にあった。踏みそうになるその影を少しだけ避けながら歩いていたら、その影が急に止まったので黄瀬は顔を上げる。影の持ち主である黒子が黄瀬を見上げていた。
「黒子っち?」
どうしたっスか?と聞けば、黒子は無言のまま黄瀬の前に右手を差し出してきた。
「?」
その手をまじまじと見詰めていると、黒子の口が開いた。
「手を」
「はい?」
言われて素直に左手を差し出すと、黒子は黄瀬の手を掴んで握り締めた。
「っえ?!」
「行きますよ」
「ちょ、黒子っち?!」
黄瀬の手を握ったまま黒子は歩き出した。掴まれた状態の手をなんとか取り戻そうとするのだが、黒子の手はそんなに強い力で握っている訳でもないのに、どうしてか外れない。
どうしよう、とか、周りに見られたら、とか色々な事が頭の中を駆け巡る。きっと今の自分の顔はものすごく赤いはずだ。身体中に変な汗も出てきたし、手のひらも汗をかいて、黒子にもきっとそれが分かってしまう。気持ち悪いだろうし、離して欲しい。そう、口に出そうとして顔を上げた黄瀬の目に映ったのは、黒子の後姿で。少しだけ斜め後ろから見ていた所為で見えてしまった、髪の間から見え隠れしていた彼の陽に焼けていない白い耳がほんのりと赤くなっているのを見付けてしまって、黄瀬はもう叫び出したい気持ちを必死で押さえ込んだ。そうして無意識に繋がっている手の力を込めてしまったら、黒子の手も離さない、という風に握りこんでくるので、もうそれだけでいっそう黄瀬は堪らなくなった。
さっきまで考えていたどうしよう、の言葉が、全然違った意味で胸の中で響く。
火神への家までのそんなに長くも無い距離の間、黄瀬はまるで全力疾走しているかの様な自分の鼓動と戦うはめになったのだった。








20120815





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