平行線を辿った先の時間軸を切り離せ



なんでか、といわれても直ぐには答えられない。
胸の中をもやもやとした何かが埋め尽くして、言葉にする前に息が詰まる。
僅かに開いた口の隙間から零れたものをすくい上げようとして、伸ばされた手が見えた。





「……お前、何でこんなとこにいるんだ?」
それは自分のセリフだと言ってやろうかとも思ったが、黄瀬はその場は曖昧に笑うに留めることにした。
「仕事の帰りっすよ」
「仕事?」
「ここの近くにスタジオがあるんス。そこで撮影」
「ああ」
よく分からない、と火神の顔に書いてあるのを見て、分かりやすい、と黄瀬はいつもよりは自然に笑うことが出来た。
「火神っちは直ぐに顔に出るっスね」
「あん?」
「こっちの話っス」
手元のボールを軽く離した。地面に跳ねてまた手元に戻る。ボールが地面に打つかる度に鈍い音を響かせた。夜の公園には人気が少ない。
「火神っちは?」
「俺は走りこみしてただけだ」
「部活の後に?」
「なんとなく、身体、動かしたりなくてな」
今自分の目の前に立っている男の存在が夜目にも明るく見えるのは、彼が放っている光の所為だろうか。
そんな取り止めの無いことを考えながら黄瀬はコートを走り出した。
左手で持ったボールを右手に持ち返る。軽く放れば簡単にゴールネットを揺らした。
汗が額から流れて頬を伝うのを乱雑に手で拭う。息を一つ落として喉が渇いたな、とぼんやり考えた。この近くに自販機はあっただろうか。
「おい」
「え、」
火神の声に顔を向けると、目の前に何かが落ちてきた。慌てて手を伸ばして両手でそれを掴む。
「飲みかけで悪いけどな」
手の中に落ちてきたのはペットボトル。自分は何も言ってないのだが、どうやら彼は見た目の割に勘は良いらしい。断る理由も無いので有り難く頂くことにした。
蓋を開けて中身をあおる。喉を通り過ぎていく水が心地良い。そういえばここで一人で始めてからどれだけ時間が経っていたのだろう。
そんなことは全く気にしないで無心に身体を動かし続けていたから、随分と遅い時間になっていたことに気付かなかった。
「ありがと」
「なあ」
受け取った時と同じようにペットボトルを放れば、片手で受け取った火神が自分を見て一歩距離を詰めてきた。
「何スか?」
「お前、まだ時間あるか?」
彼の言わんとしていることが分からない自分では無い。本当だったらもうとっくに家に着いている時間なのだが、母親には後で連絡を入れればいいだろう。
「俺の時間、買うつもりっスか?」
高いよ?と、わざと挑発的な笑顔を顔に貼り付ければ、まんまとノッてきた火神が不適な笑顔で言い放った。
「釣りがくるくらい、満足させてやるよ」





そもそも、黄瀬が何でここで一人でバスケをしていたのか、と言えば、今日はモデルの仕事が入っていた為に部活に参加出来なかったからだ。仕事が終わった後の高揚感のまま、帰る為にスタジオを出て、普段は通らない道を何となく歩いていたら、視界の前に公園が飛び込んできた。しかもそこにご丁寧にバスケットコートまであって、全く人気が無いときたら、それはもうしょうがないだろう?と誰にいいわけをするでもなく、当然の様にコートに飛び込んだのだ。
あれからずっと一人でひたすらゴールとボールに向き合っていたけれど、やっぱり一人ではもの足りない、と思っていたのも事実で。だからこうして火神とプレイ出来たのはまさに僥倖と言えるのだが。黄瀬は肩で息をしながら思い切り空気を吸い込んだ。
ボールがネットを軽く揺らす音がする。地面に足をつけて頬を伝う汗を手の甲で拭うと、
「すっきりしたか?」
と、まるで計ったかの様なタイミングで火神が自分を覗き込んでくるものだから、黄瀬は目を丸くして火神を見上げた。と言っても二人の身長に差は無いのだが、火神の態度が如何せんでかいのと、体格的な差で何となくそんな気分になってしまうのが悔しい。それにしても、と黄瀬は流れる汗を拭いながら袖で口元を隠して火神の目を見て考える。まるで胸のうちを読まれたのかと思った。
「火神っち?」
何て返すべきか悩んで、結局名前しか出てこない。いつもなら簡単に取り繕えるはずの表情は、今日に限って何一つ自由に動かせなかった。なんだからしくない、と瞬きを繰り返す。
「なんとなくだけど」
すると一拍だけ間を開けて、火神が黄瀬を見た。
「お前、溜まってたみたいに見えたから」
ここが、と火神の拳が黄瀬の心臓の上辺りを軽く押した。
「もう、大丈夫そうだな」
まるで悪戯が成功した子供のような顔で笑う火神に、身体中がむずむずしてしょうがなくなる。
(なんだろ、これ)
他校の、ライバルとも言っていいような関係の同姓の人間に言われるようなセリフじゃない。いつもなら茶化せるのに、何故だろう、今は出来ない。
火神につられる様に自然緩む頬を素直に委ねて、黄瀬はゆっくりと微笑んでみせた。
ここであのまま一人で続けていたら、きっと得られなかった充足感を黄瀬に与えてくれたのは、目の前の男のおかげなのだ。でもそれを口にするのはプライドが邪魔をする。だから言葉に出来ない感謝の意味を込めて、黄瀬は笑顔を作る。普段の仕事や、衆人に向けるものではない、極身近な人にだけ向ける明け透けな笑顔を。
「……お前、」
「なに?」
そんな、火神が知る筈も無い、ある意味レア物な笑顔を前に、僅かに言いよどんだ火神は黄瀬の顔に視線を当てながら何かを言おうとした様だが、なんでもない、と明らかに不自然な態度でそれ以上の言葉を切ってしまった。
彼の仕舞いこまれた言葉の先を聞いてみたいとも思ったが、まあいいか、と黄瀬は一歩火神との距離を詰めた。
目線の位置は大して変わらない。改めてこうやって相手の顔を眺める、というのは今までにあまり無い類の経験だった。
だから心が緩んでいたのか、思ったことがぽろりと落ちたのを止められなかったのもその所為だ。
「火神っちってさ、」
「あん?」
「女の子よりも、男にもてそう」
「……は?」
「言われたことない?」
「言われたことはねえし、つか言われたくねえぞ、そんなん」
心なしかげんなりとした表情をしている火神にクスクスと黄瀬は笑った。
「そりゃ、そうか」
「お前な」
「ックク、ごめん」
「別に、謝られるようなことじゃねえけどよ」
ガシガシと頭を掻いたと思えば、火神はその場でいきなり仰向けに寝転んだ。
「こんなとこで寝たら、風邪ひくっスよ?」
「寝ねえよ」
そう言いながら空を見上げている火神につられて、黄瀬もその場に腰を下ろし上を見上げた。
都会の夜空は明るすぎて星が霞んでよく見えない。けれど今の自分にはこんな空の方が逆に良かったように思う。
火神が来るまでずっと一人でバスケをしていて、誰もいないコートの中でボールの音と、自分の足音だけが響いている中、浮かんだのは中学時代の自分の事で。胸の奥の頑丈な箱に仕舞った筈の感情が、箱の隙間から少しだけ零れてしまった。駄目だ、と振り切る様にがむしゃらに動いて、走って、息が切れてもそれでも、と。
あのまま火神が来なかったら、どうしていただろう。情けない様な、落ち着かない心地で、隣の火神をなんとなく見やる。
彼は寝転んだ姿勢のまま変わらずに、ただ夜空を見ていた。瞳の中に星が写って、そこに空が落ちてきたみたいに。
自分の中で浮かんだ考えにまたもらしくない、と表に出さずに笑う。都会の空が例え明るくても、それでも関係ないのだ。そんな明るさの中でも、星の光は届くのだから。
「火神っち」
「ん?」
「また1on1やろうっス」
「ああ」
ありがとう、は多分違う。心情的には一番近くても、それを言葉にするのは憚られた。きっと彼はこんなこと言われても意味が分からないだろうから。誤魔化す様に火神の髪を乱雑に撫でた。何か文句が飛んでくるかと思ったのだが、彼は何も言わないでされるがままでいるので、それが意外で黄瀬は瞳を瞬かせる。そのまま暫く火神の頭を撫で続けていたのだが、それでも彼は何も言わない。彼の性格そのままを表した様な固い髪質が手に心地良くて、なんとなく離し難いと思ってしまった。そんな風に考えてしまった自分に苦笑して、最後にもう一度撫でてからそっと手を離した。手持ち無沙汰になった手をふらりと降ってから、ポケットからスマートフォンを取り出す。
折角約束を取り付けたのだから、近いうちに実現させなくては、と手元の機械を操作してスケジュールを呼び出し、いつなら可能だろう、と考えていると、火神が黄瀬を呼んだ。
「黄瀬」
「なんスか?」
「お前さ、」
何となく、言い辛そうな雰囲気に黄瀬は首を傾げて名前を呼んだ。
「火神っち?」
「……お前、」
一つ、息を飲み込んで火神は視線を黄瀬にひたりと合わせた。
「黒子のこと、どう思ってる?」
「……黒子っち?」
何故ここで黒子の名前が出てくるのか分からずに更に首を傾げながらも、黄瀬は思ったことを素直に口に出した。
「そりゃあもう、尊敬してるっスよ」
彼のプレイスタイルは、真似ようにも真似は出来ない、彼唯一のものだ。それが羨ましいと思った時期も確かにあったけれど、今はただ彼を純粋に尊敬している。
「かっこいいし、頼りになるし、優しいし、空気も読めて、女の子にも親切、ちょっと厳しいとこも高得点!完璧っスよねー」
「……」
「火神っち?」
さっきまでとは明らかに空気が変わった。不機嫌、と顔に書いてある分かりやすい火神に、黄瀬は苦笑するしかない。
指を伸ばして火神の眉間に寄っている皺を軽く押すと、据わった瞳がこちらを見ていた。
「火神っち、あのさ」
「なんだよ」
「俺の黒子っちへの好きは、アンタが思ってるような好きじゃないから」
黒子のことは好きだ。だけどそれは尊敬からくる憧憬の方が強い。
「火神っちから黒子っちを取ろうだなんて、もう言わないから、安心していいっスよ」
火神と黒子の二人がコートに並んでいる姿を思い浮かべる。欠けたピースがかちりとはまるように、彼らは二人で一人の様な動きを試合で見せる。
中学の時、黒子が望んで、だけど手からこぼしたものを、自分たちでは渡せなかったものを、火神は渡せてあげたのだ、と。
「黒子っちの今の相棒は、光は、アンタなんだから」
それが少し、いやかなり悔しいと思わなくもないけれど。引き際を間違うようなカッコ悪いところは見せたくないし見たくないのだ。彼にも。黒子にも。そして自分にも。
「……」
「信じてない?」
「違う、そうじゃねえ」
火神が頭を降った拍子に、眉間に当てていた指が離れた。なんとなく自分の指先を眺めていた黄瀬は、だから次の火神の行動に完全に出遅れてしまった。
「黄瀬」
「火、」
火神っち、と名を呼ぼうとして半開きだった口に何かが当たった。当たった、というよりは押し付けられた、の方が正しいかもしれない。
「……」
目線の先に、信じられないくらい近いところに目を瞑っている火神の顔が見える。目を閉じていても、意志の強そうなところは変わらないのだな、と考えていた黄瀬は分かりやすく逃避していた。目の前の現実から。
そう、火神から口付けられている、という現実から。
「っ!?」
いやいや、え、何これ?
「ふ、ん、……ちょ、」
って、おかしいだろう?違うだろう?駄目だろう?っていうか、何でこんなことになっているんだ???とやっと考えが及ぶようになってから、黄瀬はとにかく火神を離そうとしたのだが、如何せん体勢が悪かった。
何しろ今黄瀬は火神の膝の上に完全に乗り上げてしまっているからだ。おまけに腰にはご丁寧に火神の手が回っていてびくともしない。
呼ばれてコンマ何秒の間に、ここまでの手際を見せ付けられて、さすがにアメリカ帰りは違う、と感心出来たのは最初の数秒で、驚き固まっている間にまんまと黄瀬の口の中に舌を潜り込ませることに成功していた火神は容赦ない攻めをみせた。
息が続かなくて火神のジャージの袖を必死で引っ張ると、察してくれたのか僅かに口を離してくれた。
その隙に兎に角話を、寧ろ一刻も早くこの場から、この状況から逃げないと、と滲む視界の先にいる火神に声をかけようとしたのだが、
「馬ぁ鹿、鼻で呼吸すんだよ」
そう、有り難くも無いアドバイスを貰ったと思ったら、またあっさりと口が塞がれてしまってもう打つ手が無い。しかも会話をしようと口を開いていた為に、さっきよりもあっさりと、いとも簡単に黄瀬の中に侵入を果たしてしまった火神の舌が本当にもう、別の生き物か、と言った様相で黄瀬は結構本気で死にそうになった。
別にキスが初めて、という訳じゃない。それこそ仕事先には海外から来た人も多くて、お国柄かスキンシップが大胆な人種も多く、軽い挨拶程度のそれなら今までにも何度も経験している。だけど、こんな自分の中のものを全て曝け出されて引きずり出されて、ぐちゃぐちゃに取り込まれそうになるようなキスは初めてだった。
取り敢えず必死に耐えて、耐えて、ようやっと火神の口から解放された時、黄瀬は息も絶え絶えだった。これが経験の差なのだとでも言われようものなら、黄瀬は間違いなく今この場で火神を蹴り倒す自信がある。
「い、きなり、なんスか」
息も切れ切れに、くそう、格好悪いと思いながら口元を乱暴に拭いつつ火神を睨み上げると、火神が呆然とした顔で黄瀬を見下ろしていた。
「火神っち?」
「……ああ」
何でキスを仕掛けた側の人間がそんな間の抜けた顔をしているのか。火神の目は焦点はあっているものの、どこか抜けがらの様に見える。
「こら、何放心してるんスか」
大丈夫か?と聞くのも何か違う気がして、取り敢えず黄瀬が火神の頬をぺちぺちと叩くと、のろり、と火神の手が頬を叩いている黄瀬の手を掴んだ。
「黄瀬」
「うん?」
「嫌だったか?」
「は?」
「キス」
……そうやって、人の顔を見ながら聞いてくるのは、何なんだ。羞恥プレイの一環か、と黄瀬は突っ込みたくなった。どう考えてもこれはない。何が悲しくて男にキスされた事についての感想紛いの事を、仕掛けてきた本人の前で晒さなきゃいけないのか。
「……アンタ、それ素でやってるんなら本気で性質悪いっス」
「そうか」
「……そうだよ。大体されたのは俺の方なんだから、先にそっちが理由を教えてくれてもいいんじゃないんスか?」
「したいと、思ったから」
「は?」
「お前見てたら、したいと思った」
だから、した。と淡々と話す火神が黄瀬を見ている。
呆気にとられて開いた口が塞がらない。
え?今この人何言ったの?
また聞くのが嫌だ。聞きたくない。つか言いたくない。火神がついさっき自分に言った言葉の意味を頭の中で考えて、考えて、それが友人に向けるものかどうかまで考えて、ひょっとして火神は帰国子女だから、その辺り日本人との規格とずれているところがあるんじゃないかって可能性に思い至って、そうだ、きっとそういう事だよな、でも友人との間であんなキスするか?それも当たり前の事だとか言われたら、俺はアメリカに行きたいなんてもう言わない、等もの凄い葛藤を繰り返していたら、火神がまた口を開いた。
「なあ、黄瀬」
「な、に、」
「嫌だったか?」
まるで明日の天気は晴れか?とでも言う様な声で、火神は聞いてくる。火神の目を見ながら、黄瀬は取り敢えず聞かれた事について考えた。
火神にキスされたことについて、俺は嫌だと感じたか?
だが実際は嫌とかどうとか考える前に、目の前の展開についていけなくてただただ混乱していたのが事実だ。今までの人生の中で同性からあんなキスを仕掛けられた経験なんて、当たり前だが無かったのだから。でも、そういった驚きとか、色々ごちゃごちゃしたものを抜かして考えてみれば、自分はあの時、嫌悪感なんてものは不思議と感じていなかった。
好きか嫌いか、と聞かれたら、それは好きと言えるだろうくらいには黄瀬は火神を好いてはいる。
しかしそこにそれ以上の何か展望が望めるか、と言われると、何も答えられない。つまりはそういう意味での好きでしかないわけなのだが。でも好意を抱いているのは、確かだ。だから、思ったよりもあっさりと黄瀬の口から答えは出た。
「嫌じゃ無かった」
「そうか」
黄瀬の返答に、火神は最初驚いた様に目を見開いていたのだが、それからゆっくりと照れたように頬を緩ませた。

「よかった」

それがとても嬉しそうな顔だったので、うっかり絆されそうになった黄瀬は、慌てて首を横に振ってから、火神の肩を押しやった。
「答えたんだから、もういいっスよね」
暗に離してくれ、と伝えたつもりなのだが、相手は火神だ。伝えたい事も、相手側のアンテナがちゃんと立っていないと意味が無い。そしてこの場合、黄瀬の意見は相手に全く受信されていなかった。
「ちょ、こら!」
火神の手が黄瀬の脇から差し込まれて背中を緩く撫でてくる。そのまま腰まで辿られて、うっかり上がりそうになる息を根性で飲み込んだ。
「火神っち!」
名前を呼んで距離を取ろうとしたのだが、どうにも相手の方に分がある体勢の為に、黄瀬は上手く対処出来ない。男を膝の上に乗せて楽しいものか、と思うのだが、火神は鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌な顔をしている。
「わ、あ」
火神の手が、黄瀬の身体のパーツを一つ一つ確認するかの様に丁寧に触れている。じれったくなるようなその動きに、黄瀬は息を詰めながら耐えていたのだが、我慢の限界は割にあっさりと訪れた。
「っの!もういい加減にっ!」
火神の顎の下に手のひらを押し込んで上向かせる。それでも火神の手は止まらなかったが、物理的に離れた距離に黄瀬が少しだけほっとして息を吐き出す。と、その瞬間押し出している手の上でもの凄い音が響いた。

ドゴッ!

「……ドゴ?」
何だ?と黄瀬が顔を上げると、火神の頭がバスケットボールになっていた。
「……はぇ?」
正確に言えば、火神の顔にバスケットボールがめり込んでいた。さっきの音はボールが火神にぶつかった時の音だったのだ。
と、そこまでを割と冷静な頭で考えて、黄瀬はぴくりとも動かない火神に恐る恐る声をかけようとしたのだが、静かな声に遮られた。
「黄瀬君」
「ふわああああああい!?」
びびった。本気で驚いた。
直ぐ真横からかけられた声には聞き覚えがある。というか、こんな事を出来るのは彼しか知らない。自分の中で導き出された答えに目の前が暗くなりそうにながら、それでも何とか視線を横に向けた。
はたしてそこにいたのは、
「く、黒子っち……」
「今晩は」
淡々と挨拶をされてそれに返そうと思うも、この場合自分としてはどういった反応を返せばいいのか、黄瀬は悩んだ。
だって、黒子がここにいるということは、さっきまでの自分と火神のやり取りが見られていたという可能性もある訳で、弁解しようにも、何を弁解するのか、寧ろ悪いのは火神であって自分は何もしてないというか抵抗したんですけど振り切れませんでした、なんてどこの女子かって、ああもう、纏まらない!
っていうか今の自分の体勢って、これ不味いんじゃないか、とやっと頭に回ってきた思考に、黄瀬は身体に回されていた火神の手を無理矢理引き剥がして急いで立ち上がった。その間、火神がボールを顔にめり込ませたままさっきから全然動かない事に一抹の不安も過ったのだが、取り敢えず今は目の前の黒子に対して全神経を注ぐ事にする。誤解の芽は早めに摘み取らなければ。
「黄瀬君、大丈夫ですか」
……その大丈夫は、どこまで含まれているんでしょうか。
聞きたいけど聞くのが怖い。伏せ目がちに黒子を見ると、彼が肩で息をしているのが分かった。まるで、必死にここまで走ってきたかのような。
「黒子っち、汗が、」
「ああ、少し走っていたので」
「あ、そうスか」
「それより黄瀬君、僕の質問に答えてくれていませんが」
どこか、切羽詰まった様な、彼にしては本当に珍しい声。黄瀬は黒子に向かい合って視線を合わせる為に少しだけ屈んだ。
「……大丈夫っスよ、俺は」
「本当に?」
「はいっス」
いつもの様に、大体黒子に向けても軽く無視されてしまう柔らかい笑顔を向けたのだが、黒子はちっとも納得した様な顔をしていない。
「……あの、黒子っち」
「君は、今、」

「火神君に、キスされていたでしょう?」

語気が強い。まるで試合中の様な真剣な瞳。そんな表情のまま、黒子が言う言葉に、黄瀬は呆気にとられてしまった。
「く、黒子っち、見てたんですか?」
「見てたんじゃないです。見えたんです」
それは同じ事だ、と黄瀬は賢明にも口に出さなかった。まあ隠してもしょうがない。見られていたのなら余計だ。
こういう時の自分の切り替えの早さに内心で呆れながら、黄瀬は首を上下に降った。
「……うん、してました」
そう認めると、黒子は額に手を当てて、重苦しい溜息を吐いた。
「や、そのそれ以上は無かったっスよ?ただキスされただけで。その、意味が分からないのもあって、俺もどう反応返したらいいのか混乱しちゃったんスけど、火神っちもきっと冗談で、」
「君は、」
黄瀬の言葉を遮って、黒子は視線を上げた。いつの間にこんなに近くに寄っていたのか、黄瀬が気付かない内に黒子は黄瀬の懐に入っている。
ギクリ、と背中が強張った。黒子の目が細められる。そうして、その口が開いた。
「君は、男が男に冗談であんなキスをすると思っているんですか?」
それは、と弁解しようと開いた口に触れたものが何なのか、黄瀬には一瞬判断出来なかった。
黒子の顔が近い。頬に、黒子の手が触れている。そして、口、にも。
……くち?
「〜〜っ?!」
黄瀬は黒子に口付けられている、という事実を認識した途端に、小さく息を飲んだ。
触れた熱に呆気にとられていた為に反応が遅れた。慌てて離そうとしても体勢が悪い。膝を屈めて腰を少し落とした状態では、黒子の身体を上手く掴めない。おまけに口の中ではいつの間にか黒子の舌が入り込んでいて上手く呼吸が出来ないでいる。
「……っふ、くろ、」
ぬるり、と動く舌に背筋が震える。息が苦しくなって、そう言えばさっき火神に鼻で呼吸するんだ、とかなんとか言われたな、と霞む思考回路の中からその言葉をすくい出して、黄瀬はその通りに実行に移した。こんな時、柔軟な対応が出来る自分に呆れるしかない。
すると途端に、黒子の手が動いた。頬に触れているだけだった手がゆっくりと動き、黄瀬の耳にかかっている髪を少しだけ掻き上げて、そうして耳の裏を優しくなぞりあげる。
まずい、と思った時にはすでに遅く、黄瀬は足に力が入らずにその場で膝をついて、さっきまでとは逆に黒子を見上げる形でキスを受けることになってしまった。
黒子の手が止まらない。耳の裏が弱い事は、中学時代に青峰と冗談半分でふざけていた時にばれて以来、黒子にも知られている。でもまさか今そんな風に触れられる事になるなんて、黄瀬には思いつきもしなかった。
「はっ、も、う」
止めてくれ、と言いたかった。けれど言えない。口が塞がれていたから、とも言えるけれど、それ以上に至近距離で見える黒子の顔が、とても辛そうだったからだ。
(なんで、そんなに苦しそうな顔を、しているんスか?)
聞きたくても、口は塞がっている。だからせめて、と黄瀬は手を伸ばした。黒子の二の腕に優しく触れる。それからそろそろと黒子の首に両手を回して引き寄せた。
黒子の肩が少しだけ震えたのに気付かないふりで、黄瀬は黒子がやり易い様に首を傾ける。ここまでする事も無かった気がするのだが、相手が黒子だと、多分黄瀬はどこまでも受け入れてしまう自分を知っている。だけど確かにこれは予想外であったと思わなくもない。
暫くしてからゆっくりと離された口と口の間に伝った糸をぺろりと舐め切った黒子の顔が妙に男らしくて視線が合わせられない。首に回したままだった手を離そうと黄瀬が手の力を抜くと、黒子が至近距離で口を開いた。
「きせくん」
拙い、幼い声だった。
まるで初めて呼びかける様な、それ故に真摯な声。
黄瀬が顔を上げて黒子の顔を見つめると、眉を顰めて、何かに耐える様な、そんな表情の黒子がいた。
「一生、言わないつもりだったんです」
「……黒子っち」
「自分の墓まで、抱えて持っていくつもりでした」
何を、と視線で尋ねると、黒子は黄瀬の瞼に指を静かに当てた。素直に瞼を閉じると、目の前に暗闇が広がる。目の前にいる黒子の気配を強く感じた。
「だけど、君が、そんなだから」
辛そうな声に、ごめんなさい、と謝りたくなる。何が彼をそんな風に辛い目にあわせるのか、知りたいけれど、知ってしまったらきっともう後戻りは出来ない気がする。
「僕は、」
目を閉じた分、余計に感じる感覚に黄瀬が戸惑う前に、黒子はとうとう告白した。

「僕は、君が好きです」

驚いて目を開く。目を開けた先にいた黒子の顔は今まで見てきたどんな顔とも違った。
「ずっと、好きだった」
それまで抱えていた秘密を打ち明ける、密やかで、でも頑なな声。
「黄瀬君」
呼ばれてぼうっとしていた頭が少しずつ動き出す。目の前には黒子が、今、自分に、
「〜〜っ!」
途端、黄瀬の顔は真っ赤に染まった。湯気が出ているんじゃないかと思うくらいに顔が熱い。
何だこれ、と慌てていると、黒子が緩く微笑んだ。
「黄瀬君、可愛いですね」
だから、そんな、耳元で、囁くみたいに、言われたら、
「く、黒子っちは、意地悪っス」
結局言い返せるのはそんな御粗末な言葉くらいで、情けないし、恥ずかしい、と黄瀬が項垂れていると、黒子が笑う声が追い打ちをかける。
もう、どうとでもなれ、と顔を上げれば、思いの他至近距離に黒子の顔があって、黄瀬は目を開く。
「かわいい」
同い年の、それも同性の人間に対して言うには甘過ぎる言葉と、聞いているだけでとけてしまう声に、黄瀬は恥ずかしさの余り泣きそうになって目尻に涙を浮かせた。
「かわいいですよ」
そのまま、黄瀬の目尻を舌で辿って、零れる前の涙を吸い上げるに至って、黄瀬はその場に力無くくずおれた。
顔が上げられない。地面に視線を固定してこれからどうしよう、と悩んでいると黒子が黄瀬を呼んだ。
条件反射であっさりと顔を上げてしまった自分が恨めしい。黒子が手を伸ばす。そのまま頬に手をかけられて、その温度に誘われる様に目を閉じようとした時、いきなり後ろから身体を抱き込まれた。
「そこまでだ」
ぶっきらぼうな声に驚いて自分を抱え込む相手を振り返ると、憮然とした顔を隠そうともしない火神が黒子を睨みつけていた。
「火神っち」
うっかり、というか寧ろすっかりと忘れていた。……なんて言ったら怒られそうだから大人しく黙っている。ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる腕の力が少し苦しい。緩めて欲しいと思うが、今はそんな雰囲気でも無いので諦めてそのままでいることにした。
「どうも、火神君」
「やり過ぎだろ、黒子」
「火神君」
「何だよ」
「顔が面白い事になってますよ」
「誰の所為だと思ってるんだよ」
「手加減したつもり無いんですけど」
「あの距離でイグナイトかますとか、信じられねえ」
「もっと近距離で当てればよかったですね」
「てめえ……いい度胸じゃねえか」
「君に言われたく無いです」
「ふん、手を出す勇気すらなかったヤツが良く言うぜ」
「君こそ、自覚してなかった状態であんなことして、盛った動物ですか」
「何だと?」
「何です」
「ちょ、ちょっと待って下さいっス!二人とも!」
臨戦態勢に入ろうとしている二人の間に慌てて割り込んで、黄瀬は二人を押し止めようとした。
「ケンカは、ダメっス!」
火神に抱き込まれている状態では手も伸ばせない。だから必死で声を上げれば、二人の視線が同時に自分に突き刺さってきて、黄瀬はごくりを息を飲んだ。
「く、黒子っち、火神っち、あの、ケンカは、しちゃダメっスよ」
しどろもどろになりながら、それでも取り敢えず二人を呼んで落ち着く様に眉を下げて言うと、黒子がすみません、と小さく謝った。火神を見上げると、明後日の方向を向きながら、悪かった、とこちらも謝ってくれて、黄瀬は取り敢えず良かった、と安堵の溜息を吐いた。
そうして訪れた沈黙に、さてこれからどうしようか、と黄瀬が悩んでいると、首の裏を呼気が掠めて大げさに肩を跳ねさせてしまった。
「っひゃあ!?」
「黄瀬君!?」
「あ、悪い」
突然上がった悲鳴に黒子が驚いて黄瀬を呼ぶと、科白とは全く噛み合って無い顔で火神が黄瀬に謝った。
「ちょ、火神っち、アンタなにして、」
「火神君、黄瀬君に何したんです」
「んー、いや、こうしてるとコイツの匂いがすげえ良くって」
言いながら火神が黄瀬の首筋に鼻を擦りつけてくる。その上弱い耳の裏をべろりと舌で舐め上げられて、黄瀬は思わず涙目になった顔を黒子に向けて助けを呼んだ。
「く、黒子っち、助けてくださいっス!」
「火神君、今直ぐ、即刻、黄瀬君を離して下さい」
「嫌だ」
「ちょ、火神っち、冗談は、って、ぁ、ひっ」
舐る様に耳が食まれる。震える手が火神を押し退けようとするのだが、上手く力が入らなくてされるがままの黄瀬は堪ったものじゃない。
「かーわいい声」
やに下がった顔と声でそんな事を言われても全く嬉しくない。睨みつけてやれば余計に相手の興奮を煽るだけの様で、火神の手が不埒な動きを見せた。
「もっ、ほんとにっ!」
何で自分の手は二本なんだ。これでもう一本あれば今直ぐにコイツを引き剥がして右ストレートをぶちかましてやれるのに!
そんな現実逃避をしながら反撃の糸口を探していた黄瀬を助けてくれたのは、やっぱりというか黒子だった。
「火神君、それ以上黄瀬君に無体を強いるなら、僕はこの距離でパスを出してあげますが」
いつの間にか黒子の手にはバスケットボールがある。さっきぶつけられた時の衝撃が甦ったのか、火神は渋々と黄瀬を離した。
「お前だって、さっき黄瀬にしてたじゃねえか」
「僕はそこまでしてません」
「似た様なもんだろ」
「似てません。て言うか君に似てるって言われるのすごく嫌です」
「むっつり」
「考えなしに言われたくないですね」
「考えなしって俺か!」
「他にいますか?」
「てめぇ、黒子!」
「何ですか、バ火神君」
睨みあいながら口喧嘩を始めてしまった二人を、黄瀬は呆然と見詰める。何だかんだと二人の呼吸は合っていると思うのは、ポンポンと交わされる会話の端々から感じられる。
二人の喧嘩の原因の一端が自分にあると言う事はすっかりと忘れて、黄瀬はいつ終わるとも分からない二人のやり取りをぼんやりと眺めていたのだが、
「「黄瀬(君)っ!」」
急に二人から名前を呼ばれて反射で黄瀬は大声で返事を返した。
「ハイっス!」
その場で直立不動で立ちあがった自分に向けて、二人は揃って手を出した。
「……」
自分に向けて差し出された手を見つめる。黒子の手と、火神の手だ。両方の手を眺めて、それから視線を上げると、二人の視線が一直線に自分に向かっている。その熱の意味を、自分は知ってしまった。
さて、では、次にこの二つの手をどうしようか。
黄瀬は少しだけ悩む素振りを見せてから、手を伸ばした。
「え、」
「おい」
右手で黒子を、左手で火神の手を掴む。そしてそのまま二人が何かを言う前に黄瀬は歩き出した。
「黄瀬君、」
「ちょ、おま」
引き摺られる形になった二人の顔は、きっと面白い事になっているんだろうな、と思いながら黄瀬は振り向かずに前を向く。
自分をあれだけ振りまわしてくれたのだ。自分だって二人を振りまわしたって文句は言われないだろう?
「お腹減ったから、マジバ寄って帰ろうっス!」
二人の答えは聞かずに黄瀬は上機嫌で歩く。
鼻歌でも歌ってやろうか、と思っていると、軽く握るだけだった二人の手が、全く同時にもっと力を込めて自分の手を握ってくるのを感じて、黄瀬は泣きたいような、笑いたいような、複雑な感情が胸に湧いた。
「僕はバニラシェイクにします」
「お前、いっつもそれじゃねえか」
「美味しいですよ」
「甘ったるいだけだ、あんなもん」
「シェイクを馬鹿にするんですか」
「違えよ!面倒くせえな!」
「俺も、今日はシェイクにしようかな」
ぽつりと零れた自分の声が思ったよりも甘ったるく感じた。
「イチゴ味にするっス!」
これ以上今甘いものを飲むのはどうかとも思うのだが、二人から今日向けられた甘さに比べたらきっと可愛いものだろう。
だから、少しだけ待ってくれ、と思う。
答えは今直ぐには出ない。自分の事も二人の事も、ただ一つだけ分かるのは、
「黒子っち、火神っち!」
パッと二人の手を離して振り返る。二人の顔を見つめて、それから黄瀬はとびっきりの笑顔を見せた。

「二人とも、好きっスよ!」

返事は待たずに直ぐに駆け出した。
何やら背後から自分を呼ぶ二人の声が聞こえているが今は立ち止らない。部活の時並みに必死に足を動かして、心臓の鼓動が有り得ない程高まっているのを誤魔化して、黄瀬は夜の公園を駆け抜けた。




20120725





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