かえろう

走って、
走って、
ひたすら走って、
ここが何処だか、
今が何時なのか、
そんなことも考えないで、
ただ、必死で足を動かした。





風が髪を浚って後ろへと流れていく。雪は膝を抱えて俯いたままじっと蹲っていた。
雪の長い髪は自分の身体の中で一番胸を張って自慢出来るものだ。まだ、もっと小さい頃に母が雪の髪を梳かしながら言ってくれたことがある。
『私もね、髪伸ばしたかったんだけど、どうしても途中で諦めちゃうんだよね。髪が長いの、すごくいいなあ、って思うんだけど。だから雪が長い髪をしてくれているのが、すごく嬉しいんだ』
まるで自分の事の様に嬉しそうに笑ってくれる母の顔を見てから、雪が髪を切ることは無くなった。さらさらと指通りの良い髪は雪も気に入っている。心が落ち着かなかったり、嫌な事があった時でも、髪に触れていれば心が落ち着く。
そのはずなのに。
今日の雪は駄目だった。何をしても、何もしなくても、心が騒いでしょうがない。
何が不安なのか、これが不安なのか、それすら分からない不安定な自分が嫌で、学校が終わると同時に駆け出した。
どこでも良かった。
ただ走って、ひたすら走って、そうすればきっとすっきりするんじゃないかと思って。
人気の少ない田んぼを通りすぎ、蝉が忙しなく鳴いている林を抜けて、小魚が跳ねる小川を飛び越えて、気付いたら何も無い原っぱに一人でいた。

空が赤い。夕陽が山の向こうに沈もうとしている。早く帰らないと母が心配する、と頭では思うのに、身体が動かない。動きたい、でも動かない。――動けない。
自分の膝に額を擦り付けて地面に視線を下ろしたその時だった。

「雪」

名前を呼ばれた。
条件反射で振り返ると、そこにいたのは、

「草、ちゃん?」

何故ここに草平が?
疑問に思ったのは一瞬で、直ぐに雪は顔を前に戻して草平を見なかったことにしようとした。
今は一人でいたいのだ。草平に何か言ってしまう前に、一人にしておいて欲しい。
だけどそんな雪の願いは草平には届かなかった。
「雪」
もう一度名前を呼ばれる。
さっきよりも随分近い位置で聞こえた声に雪が肩を僅かに震えさせた。それすら分かってしまうような距離に、草平はいた。
「……こら、無視すんな」
「してない」
「してるだろ」
「してないってば」
「してるよ」
「何で、もう、」
「お前、俺の目見ないから」
草平の言葉に顔を上げる。正面から見た草平の顔は、普段と変わらないいつもの顔で、だから余計に雪は悔しくて、でも、それが何に対しての悔しさなのか分からなくて、途方に暮れた。
スカートの下から伸びる足は泥だらけだ。女の子らしく、大人しくしようって決めたのはそんなに遠い話でもないのに。膝の上のスカートをぎゅう、と両の手で握り締めていると、草平の手が雪の手の上に静かに置かれた。
家族以外の人の体温に少しだけ驚く。そうして雪が草平に視線を向ければ、草平は雪をただ見ていた。覗き込むように膝を屈めて、そうして雪に向かって一言だけ言ったのだ。

「帰ろう」

草平のその声を聞いて、雪は無意識で頷いていた。右手が草平の手に握りこまれる。ゆっくりとその場に立たされて、雪は自分の靴が片方脱げていたことを知る。
「ほら」
無造作に渡されたのは、雪の靴だ。草平が雪の足元に靴を置いてくれるのを雪はぼんやりと見ている。
「行くぞ」
雪が靴を履いたのを確認すると、草平は歩き出した。二人の手は繋いだままだ。
「……」
緩く、だけど簡単には解けないくらいの力で繋がれた手を雪は見る。
それから自分の前を歩く草平の背中を。

胸にさっきまで騒いでいた不安が消えているのに雪が気付いたのは、家の前まで草平が連れてきてくれて、母が玄関を開けて自分たちを見て笑ってくれた時だった。
「おかえりなさい」
母の声を聞いて、雪は無言で頷いた。零れそうになる涙を必死で飲み込んでいると、草平が頭を下げた。
「すみません、二人で遅くまで遊んでました」
雪が驚いて口を開く前に、草平は雪の手を離した。
「草ちゃん!」
「また、明日な、雪」
それだけ言って、草平は駆け出した。軽く手を振って、後はこちらを振り向かずにあっという間に走り去ってしまった。
雪が草平の後姿を探す様に道の先をいつまでも眺めている姿を、花は微笑みながら見ていた。

「雪、ご飯にしよう?」
それからしばらくして、花が雪に声をかける。雪が頷いて、花を振り返った。
「……ただいま」
「うん、おかえり」
花の手が雪の髪を優しく梳かす。雪は花に飛びついて、それから思い切り声を上げて泣いた。

明日、学校へ行ったら一番最初に草平に挨拶をしよう。
それから給食に草平の好きなものが出たら、自分の分を草平にこっそりあげよう。
そんなことを考えながら、雪は花の腕の中で小さく笑った。








2012/08/02
……中学に上がる前。
草平の可能性にトキメキが止まらない今日この頃。


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