ふたりでお茶を



見渡す限りの草原の中を一人で駆けていく。自分の背丈を軽く超える草むらに細い道が埋もれているが、意にも介せずその隙間を縫うようにひたすら走る。目指すのは赤い屋根の家だ。そろそろ家の入口のランプに灯が点る時間になる。その前に家に辿りつかないといけないのだ。理由は二つある。その一つが沈む夕陽を見る為だ。家の壁の白に夕陽の赤が見事に映えるあの瞬間は息を飲むほど美しいのだ。間に合うだろうか、とスピードを更に上げたその時、背後から強い風が背中を思い切り押してくれた。勢いを殺さずにそのままのスピードで足を出したその先に突然草原が切れて、刈りこまれた芝生の上に思い切り転がる。起き上がろうとふらふらする頭を支えながら立ち上がろうとすると、丁度家の扉が開かれた。扉を開けたその人は芝生に蹲る自分を見て少しだけ驚いた様に目を大きくすると、直ぐに優しく笑って駆け寄ってきた。その人が自分の額に手を当てて優しく撫でてくれるのをただ見詰めていると、視界の端にちらりと赤が飛び込んできた。自分が何に気を取られたのか、その事に気付いたその人が振り返って目の前の光景を見る。言葉も無く二人並んでその赤が沈むまでそこにいた。
これがもう一つの理由。この人と一緒に夕陽を見る事、それが彼すらも知らない自分だけの決まりごとだった。


***


ラブマシーンは目を開けた。懐かしい様にも思うが、つい最近の事でもあった様に感じるあの日の光景を思い返して開いた目を一度閉じた。
「…懐かしい、ですね」
隣から小さく声が聞こえてラブマシーンは自分の横に視線を向けた。寝ているとばかり思っていたのだが、自分を見たままとろりと笑うケンジの頬にラブマシーンはそっと指を這わせた。
「まだ、ワタシが今より小さい身体だった時、……ケンジと一緒に暮らすようになった時の事だな」
「そうですね、まだアナタは小さくて、中身も見た目のままだったから、とても可愛かった」
「…可愛いか?」
「可愛いですよ、とても」
ふふ、と笑うケンジがラブマシーンの指に手を重ねて小さく息を吐いた。
「………ずっと、前の事の様にも思います。アナタと暮らし始めたあの日々はとても楽しくて、とても幸せで、とても、………今でも、ずっと、」
そこまで言ってケンジの科白は止まった。ラブマシーンを見詰めたまま、ケンジは何かを耐える様に口を噤んだ。
「ケンジ、」
ラブマシーンは名前を呼びながらそっと自分の方へケンジを優しく引き寄せた。
「もう少しだけ眠ろう。まだ起きるには早い。…今日は侘助のところへ行くのだから」
そのままケンジを胸の中に抱きしめてラブマシーンは目を閉じた。何か言いたそうだったケンジも少しずつ身体の力を抜いてラブマシーンにもたれるようにして細く息を吐いた。

(目を閉じても怖くない)

(だから安心して、いいんだ)

やがて訪れてくる眠りの国へ誘われる前のほんの少しのまどろみを受け入れる為に、ケンジはゆっくりと瞼を下ろした。


***


奇跡を起こすのは、それは魔法使いの役割ですから



こうして改めて向かい合った時に最初に投げる言葉をあらかじめ決めていた筈だったのに、いざその場になるとあんなに考えていた科白が一つも浮かんでこない。ケンジは自分の頭の中が真っ白になっている事に気が付いた。隣に立っていたラブマシーンが、そんなケンジの様子に気がついてそっとその小さな背中に触れる。
「…ケンジ、大丈夫か?」
ラブマシーンのその声に、ケンジの固まった心がじんわりと解けていく。ひとつ大きく深呼吸をして、ケンジは、目の前のディスプレイで自分達を見ているその人物に向かって口を開いた。
「…ご心配を、おかけしました」
頭を下げたままでいると、小さく笑い声が聞こえた。
『シシシシ、随分と愁傷じゃないか?お前のそんな姿珍しいな』
明日は雪か?なんて茶化すような言葉にケンジが俯いていた顔を上げると、考えていた顔と全く違う表情の侘助がそこにいた。
『…良かったよ、お前が起きて』
ただ純粋に心配していたと分かる侘助の視線に見詰められて、ケンジは零れそうになる涙を必死に耐えた。手のひらに爪が食い込むくらいに握りしめたケンジの拳の上に、ラブマシーンがその大きな手でケンジの手を優しく包む。その手に気付いたケンジがラブマシーンを見上げて何か言おうとする前に、ラブマシーンが侘助に声をかける方が早かった。
「侘助、今日は報告の他に侘助に聞きたい事があって来たのだ」
あの日、ケンジの目が覚めてから二人がまず最初にした事は、侘助にコンタクトを取る事だった。今まで迷惑をかけた分の謝罪と、そして自分達が今後確認すべき事の為に。胸中で色々と渦巻いていた不安な気持ちはそのままで繋げた回線は考えていたよりもあっさりと開き、通信先の侘助の声は普段となんら変わる事はなく、今日の日程と時間を侘助の方から指定してきたのだ。自分達を放っておいて流れる展開の早さについていけずにその場ではただ口を開くしかなかった二人だった訳だが、今日はその侘助との約束の日で、だからこうしてこの場に来たのだ。
『いいぜ、何を聞きたい?』
だが、きっと自分たちの質問の内容は全て侘助には分かっているのだろうと思った。ケンジはラブマシーンの言葉を引き継いで侘助に向かって口を開いた。
「…全てを」
ただ一言そう言って口を噤んだケンジは、静かに侘助を見詰めた。
『そうだな、…まず何から話そうか』
「侘助、」
『分かっているよ、お前が言いたい事は。…簡略して話してもお前たちは納得できないだろうからな。…ケンジ、』
「なんですか?」
『お前に選ばせてやるよ。まず最初に何から知りたいんだ?』
侘助のその科白にケンジの目が少しだけ揺らいだ。
「…ボクが、知りたいのは、」
(きっと自分はこれを知る為に、)
「……アナタがついた嘘について」
この時に笑った侘助の顔を、ケンジはこれから先ずっと忘れる事は出来ないと思った。



『やっぱりな、分かっていたか』
「…正確に言えば、ボク自身もちゃんと分かっていた訳ではないんです。ただ、自分の中で辻褄が合わない所があって、それを突きつめていくと結局はそれらの事象全ての元に、…アナタが関係していたから」
『お前のその勘の鋭さのベクトルが、もうちょっと別の方面に向けられていたらと思うよ、俺は』
「そうですか?」
『自覚なしだからな、お前は』
「それで、侘助」
『ああもう、急かすな。急いては事をし損じるって言うんだ。…今からちゃんと話すから』
口元に当てた手を覆うようにしてその表情を一瞬だけ隠した侘助が、視線をケンジとラブマシーンの二人に向けてから机にかけたままだった足を降ろしてまた組み直しながら話し始めた。
『お前の言った俺のついた嘘っていうのは、あのカプセルの事だろう?俺が最初にお前にあれを渡す時に言った事は覚えているんだろうな』
「…あれを飲めば、ボクの存在は」
『全てクリアされる、そう言ったな、俺は』
「言いました」
『あれは半分が本当で、もう半分は嘘なんだよ』
「半分…って」
『あれの中身は、もうお前の方でもあらかたの目星はついているんだろう?』
「憶測だけなら」
そう言って眉を寄せたケンジに侘助は口元を右手で隠したまま言った。
『あれはお前が今後この世界で生きていく為の試金石だった』
「それは、どういう意味だ?」
ケンジとラブマシーンが顔を侘助に向けたまま次の言葉を待つ。
『どうも何もそのままの意味だよ』
後頭を掻きながら何でもないように言った侘助はそのまま言葉を続けた。
『お前は元々アバターだ。アバターの存在はマスターと言う唯一絶対の存在があってこそOZの世界での存在が確立される。そのマスターである健二君とのリンクをアバターであるお前から切ってしまう事は本来であれば即消去対象になるはずだった。だが、お前にはお前の存続を切に願う存在がいた。…それがお前だ、ラブマシーン』
小さく俯いて目を伏せたケンジに気付いたラブマシーンがその肩に触れる前にケンジの手がラブマシーンに伸びてそれを掴んだ。
『お前は俺たちと取引をしたんだよ。お前の中のあの夏の戦争の最中で培った全てのデータと、それ以前のお前の研究データの一部を引き換えに、ケンジの存在を繋ぎとめる様に約束を取り付けた』
侘助の言葉を聞いているケンジの指がラブマシーンの手を強く掴む。
『それをケンジ自身は反対したんだがな、お前が強引に押し切った。けどそれだけでは納得出来ないお偉方もいてな、結局最終的にはお前の声も付加価値として差し出す事になったんだが、まあこれは俺が細工してそう見せかけただけだったんだが』
侘助の言葉を聞いていたラブマシーンの記憶回路の中に、以前の自分が立っている姿が見えた。自分の周りを取り囲む少なくない数の視線にさらされながら、尚毅然と立ち続ける自分の姿が。
『…お前が記憶を差し出す事を決めた時にお前は俺に言ったんだよ』
場面が変わり侘助と向かい合い、何かを言っている自分がいる。その言葉に侘助が何かを言う前に自分はその場から去っていった。
『ケンジをワタシから引き離さないでくれ、ってな』
ほたほたと涙が床に落ちる音が聞こえた気がしてラブマシーンはケンジを見た。掴んだ手はそのままでケンジは小さく震えながら泣いていた。頬を伝う涙を拭おうとラブマシーンが手を寄せると、それが届く前にケンジの手が涙を乱暴に拭っていった。ごしごしと音が聞こえそうな乱暴な所作にラブマシーンが止めさせようとケンジの腕を掴むと、ケンジの瞳が自分を見詰めている事に気付きラブマシーンは何か声をかけようと思ったが結局何も言う事が出来なかった。
『そのお前の願いを叶えてやるためには、ケンジをアバターという枠から外してやらないとならなかった』
「外す、とは、どういう意味だ?」
『どうもなにも、そのままだ。外すんだよ、アバターではない、かと言ってお前と同じ人工知能でもない、どの枠からも外れた『ケンジ』という存在をこの世界で確立するために。…ラブマシーン、お前の庇護が届かなくても大丈夫なように』
その為にアレは必要だったのだ。
『あのカプセルはケンジの中のアバター機能を初期化するプログラムが組み込まれていた。初期化って言っても全部じゃないぜ?必要なものだけ残して後はまっさらにしないと、後から組み込まなけりゃならないプログラムが膨大だったからな。お前の中でそれらが反発しないように馴染ませる為にはお前には暫く大人しくしてもらう必要があった。だからアレを含んだ後、お前の意識は飛んだんだ』
そうあらかじめ設定しておいたからな、と侘助は言った。
「最初から、全部、ボクの為の嘘だったんですね」
ケンジのその言葉には侘助は何も返さなかった。だがそれでケンジには十分だった。
『…眠りについたお前の中で全てを受け入れる為の機能の再構築が成されていた。外部からの干渉を一切排除しておかないと何がバグに繋がるか分からないからな。だが、ただ眠っているだけじゃない。お前にはお前で夢の中でやる事があった』
「やる事?」
ラブマシーンが答えを考える前にケンジが先に答えを出した。
「…世界を受け入れて、改めて認識すること」
『正解』
「だからあの世界はOZを模倣していたのか」
『そうさ、だけど最終的にはケンジはあそこから出ていかないといけない。あの世界は仮初だ。本当の世界に戻るために、ここは違う、とお前が理解できるようにひとつヒントを作っておいた』
「それが、ワールドクロックの不在だった」
『そう、あそこは拒絶するための世界ではないからな。自覚を促す為には時間が必要だろう?』
まあ誰かさんが待ちきれなくて迎えにいってしまったがな、とおどけて言う侘助にバツが悪そうにラブマシーンが視線を逸らした。
「それで、その為に、」
『お前が聞きたいもうひとつの答えがこれだ』
そう言った侘助の手元でキーボードを軽く操作する音が聞こえた。その直ぐ後に二人から少しだけ離れた空間にウィンドウが現れてケンジにとっては見慣れた姿が映し出された。
「さ、佐久間さん!」
『よ、ケンジ、おひさ〜』
画面から自分たちに向かって明るく手を振っているのは、健二の友である佐久間の姿だった。
『あの仮想世界を作ってくれたのは佐久間君だ』
『とは言ってもね、俺はケンジが見ていた夢の中のイメージを具体的に、それが本当の世界の様に見せる為の補助的な役割をしただけなんだけど』
それがどれだけ凄い事なのか二人には分かっていたが、まるで何でもないように言う佐久間に取り敢えず口を噤んだ。
『侘助さんに頼まれてね、理由はちゃんと全部聞いた上で、手伝おうって決めた』
「理由、」
『ケンジ、お前が健二から離れた理由、お前が今どうしてそこにいるのかの理由、全部だ』
「それを知った上で…?」
『力を貸そうと思ったんだよ。しかしまあ、前から思ってはいたけど、お前はアイツに似て時々本当に突拍子もない行動を取るよな』
佐久間の苦笑する音が聞こえて、ケンジは居た堪れなくなって顔を赤くして俯いた。
「すみま、せん」
『謝るなよ、そういうつもりで言った訳じゃないんだ』
「分かってます」
『健二もお前くらい察しが良ければなあ…』
しみじみと腕を組みながらいう佐久間の言葉に思わず笑ってしまったケンジは、そう言えば、と佐久間に尋ねた。
「佐久間さん、あの、サクマは、」
「遅いよ、ケンジー…」
何処にいますか、と最後まで続く筈だった科白は後方からの声に消されてしまった。勢い振り返ったケンジとラブマシーンの目に、あの世界で会って以来のサクマの姿が飛び込んできた。
「サクマ!」
「おっそい!ケンジ!俺を忘れるなーって言ったよね!俺!?」
「わ、忘れてないよ!ただちょっと……その、そう、忙しかっただけで、」
「ふーん、へーえ、そーお、忙しかったんだー、ケンジ君はー」
「…なんで棒読みなの」
「俺の心中を察してくれると大変嬉しい」
「何それ」
「そのまんまの意味ですけど?」
「変わらないね、サクマ」
「その科白、きっちり同じものを返しますよ、ケンジ君」
「余計だよ」
「お互い様だ」
軽口の応酬を経て二人は向かい合って笑った。
「サクマも協力してくれたんだね」
「そりゃーお前、マスターが頑張るって言うのに、俺が手伝わないでどうするのって話ですよ。まあ俺がした事って言えばよりリアルに見せる為に、俺もお前と一緒にあそこにいたくらいだけど」
「うん、…そうか、」
「…ケンジ、」
ラブマシーンがケンジの名前を呼んだ。繋いだままだった手を引き寄せてケンジの顔を覗きこむ。そこにある円らな瞳に浮かぶ感情をラブマシーンは読み取ろうとした。だがその前にケンジの指がラブマシーンの手を掴んでそのまま自分の頬に重なるように当てた。ケンジの瞳は今は閉じられている。
「…大丈夫、ですよ」
一言そう言ってケンジは瞼を上げた。濡れてはいないその瞳に安心してラブマシーンは肩の力を少しだけ抜く。
「…本当に、皆さんのおかげです」
侘助たちを振り返ったケンジが改めてそう言って頭を下げた。
「有難う、ございました」
自分に、自分たちに関わり、そして力を貸してくれた事に対する感謝はこれだけでは伝えきれないとケンジは思った。それでも今自分が伝えたい言葉はこれだけだ、と頭を下げたまま瞳を閉じた。
『…なあ、ケンジ、』
暫くしてから佐久間が自分の名を呼ぶ声が聞こえてケンジは下げていた頭を上げて佐久間を見た。
「何ですか?佐久間さん」
『もうちょっと落ち着いたらさ、落ち着いたらでいいから、健二にも声かけてやってくれない?』
「マスターに、」
『アイツお前の事本当にずーっと心配しててな、最後にお前と話してからこっち、ずっと連絡取れない事をめちゃくちゃ気に病んでて、栗鼠のケンジが大丈夫だからって何度か言ってるんだけど、夏希先輩も励ましてくれてるけど、やっぱりお前の顔をちゃんと見ないと安心出来ないみたいで』
かなり参っているみたいなんだ、と佐久間が言って笑った。
『お前に依存してたからな、アイツ』
「ち、違いますよ、佐久間さん!マスターは、」
『分かってるよ、でもそれでもアイツの傍でずっとアイツを見てきたのは誰でもない、お前だろう?』
理屈で分かっても、頭がついて行かないんだ、と佐久間は言ってケンジを優しい目で見詰めた。
『お前がいたから、今のアイツがいるんだ。何も出来ない、なんて事なかったよ』
お前はちゃんと、
『アイツの傍にいたんだ』
佐久間のその言葉を聞いて、ケンジは込み上げる嗚咽を堪えようと必死に口に手を当てた。
嬉しかった。本当に嬉しかったのだ。誰かにずっと言って欲しかった言葉を聞く事が出来た事が、泣きたくなる程嬉しかった。自分はマスターの為に何か出来ただろうかとずっと考えていた。感謝をちゃんと伝える事もしない卑怯な自分はあの優しい人を置き去りにして逃げてしまったのだ、とずっと悩んでいた。傍にいても何も伝えられないと思っていた。寂しさを埋める事は出来ないと思っていた。自分は無力だとずっと思っていた。あの日、健二と話した時も、これが最期だと勝手に決め付けて、肝心な事ははぐらかしてしまっていたから。
「…ボ、ボクは、マスターに、…ずっと、ずっと言いたい事があって、でも、…それ、は届かないと、…無理だと、諦めて、……ボクは、」
『ちゃんと分かってたよ、アイツもそこまでボケてないから』
茶化すようにいう佐久間の言葉にもケンジの涙は止まらない。ぐずぐずと鼻を啜って息を吐いた。
『大事なところは見誤らない、だろう?』
そうだ、自分のマスターはそういう人だ。佐久間の声を聞いてまだ零れる涙を拭いながら、ケンジは健二に会いに行こうと決心した。日中は難しいだろうから、夜にしよう。あの人が数学の世界に浸る時間にこっそり会いに行こう。きっとびっくりした顔をしてボクの名前を呼んで、それから一緒に笑ってくれるだろうから。そうしたら今度こそ素直に伝えよう。ずっと言いたかった言葉を、聞いて欲しかった言葉を。それは必ず伝わるだろうから。



「妬いてます?」
気付いたら自分の横に浮いていたサクマが何でもない様にラブマシーンに問いかけた。
「…それとは少し違うな。『妬く』、ではない。これは多分『羨ましい』だ」
そのサクマの問いに対するラブマシーンの答えは簡潔だった。
「羨ましい?」
「ああ、ワタシはそう思っている」
自分と出会う前の、自分の知らないケンジがそこには在る。当たり前の事だと割り切る様で、でもそう簡単でもない。結局はつまるところ、最後には彼に帰着するのだ。
「今のケンジを作った過去を知りたいと思うが、同じくらい知らなくてもいいとも思うのだ」
ケンジの後姿を見詰めながらそう言ったラブマシーンにサクマが少しだけ間を空けた後にこう言った。
「アイツを選んだのがアナタで良かった」
「…サクマ?」
「アイツの性格は本当になんて言うか、難解なところがあって、かと言えば単純なところもあって、一緒にいる事は大変な時もあるけれど、だけど、まあ、ツマラナイ、と思う事は無いんですよ」
こう言うのが俺ってのもオカシイと思うけれど、
「アナタなら大丈夫だから、二度目ですけど、…ケンジの事、よろしくお願いします」
そう言って深々と頭を下げたサクマに向かってラブマシーンは言った。
「ワタシはケンジから離れない。そう約束しよう」
サクマの胸の中で安堵とそれ以外の感情が一瞬走ったが、それにはそっと蓋をしてサクマは気付かない振りをした。そうしてその直ぐ後に、
「ところで、サクマ、」
そう言って続いたラブマシーンの科白にサクマが頭を上げてみると、目の前で自分を呼んだその人が笑っていた。
「そろそろワタシとの会話に敬語を使わないでくれると、ワタシはとても嬉しいのだが?」
ラブマシーンの科白にサクマはぽかんと口を開けて、暫くして大声で笑ってからいつもの調子で口を開けた。
「それは願ったり!実はホントウいうとそろそろキツかったんだ」
サクマの笑い声に何事か、と振り返ったケンジが見たのは、妙に嬉しそうなラブマシーンとサクマの二人の姿で、ケンジは頭の上に?マークを飛ばす事になった。




『さあて、それじゃそろそろお開きにしようか』
俺もそう暇じゃないんでね、と含み笑いをしながら言う侘助にその場にいる全員の視線が集まった。
『ああ、もうこんな時間だったんだ。すみません、侘助さん長い時間』
慌てたように佐久間が言ってケンジたちを振り返った。
『じゃあ、俺たちもここで帰るから。また話しような、二人とも。今度は俺、ラブマシーンとも話したいし』
「アドレス、違うんだろう?」
サクマに聞かれてケンジは頷いた。
「以前のアドレスはケンジ君が使っているから、新しいのはこっち。この前侘助さんが作ってくれたんだ」
指先でアドレスを書いたケンジはそれを呼び出した封筒に入れてサクマに渡した。
「何かあったらこのアドレスに送って。守秘回線使っているからボクに直接連絡出来る様になってる」
「ガチで。………ってオイ、お前なんかコレいじってないか?開かないんだけど?」
「分かる?」
「やっぱりかよ、普通に渡せ、普通に」
「簡単に解けちゃ駄目だから、いじったって言ってもちょっとだけだよ。…ケンジ君なら直ぐに解けるから」
ガクリと頭を落としたサクマはひとつ大きな溜息を吐いた後にケンジに言った。
「素直にケンジに伝えてくれって言えよ、こんなまわりくどいことしないで」
「サクマなら分かるでしょ?」
「嬉しくないな、その信頼」
「頼りにしてるんだよ」
「言ってろ」
軽口の応酬の後サクマはケンジの横に立っていたラブマシーンに視線を合わせて言った。
「それじゃ、またな、ラブマシーン。コイツで何か困った事があったら気軽に連絡くれ」
そう言ってサクマが寄こしたメールアドレスを受け取ったラブマシーンは軽く頷いた。
「ワタシからも、これがアドレスだ。受け取ってくれ」
ケンジとラブマシーンの二人からメールを受け取って、サクマはじゃあ、と手を上げた。
「またな」
「またね」
手を上げたままの状態のサクマが残像を残しながら消えた。
『俺も行くな、じゃな、ケンジ、ラブマシーン』
佐久間が二人に声をかけて直ぐに佐久間の映っていた画面が一筋の光を引いて消えた。
『今日はこの後何にもないから帰っていいぞ。そのかわり明日からみっちり仕事に使うから覚悟しておけよ、お前ら』
最後に侘助がケンジとラブマシーンの二人にそう言ってニヤリと笑った。
「今日はもういいのか?侘助」
『俺も鬼じゃないんでね。帰って休め』
「侘助さん」
通信を切ろうとした侘助をケンジが呼んだ。
『何だ、ケンジ』
「明日から、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げたケンジに目を丸くした侘助は耐えきれない、という風に軽く笑った。
『その言葉、明日後悔するなよ?』
「望むところです」
挑発的な侘助の科白だったが、言葉の割に穏やかに笑うケンジに侘助は毒気を抜かれて頭を掻いた。
『…じゃあ、明日な』
早く寝ろよ、と小声で聴こえた言葉に返事を返す前に侘助の通信は切れて、この場にいるのはケンジとラブマシーンの二人だけになった。
「…帰ろうか、ケンジ」
「はい、帰りましょう」
ラブマシーンが差し出した手にケンジは自分の手を重ねた。侘助の言葉通り、明日からきっと忙しい毎日が始まるのだろう。以前の自分とは違う、少しだけ変われた自分と、隣にいつもいてくれるこの人と一緒に。そうしてきっとこれからも二人で変わらずに歩いていくのだ。かけがえのないこの人の隣で。
「ケンジ」
呼ばれた名に振り返ってケンジは笑った。

「家に帰ったら、何をしようか」
ラブマシーンの問いにケンジはラブマシーンを見上げながら言った。

「取りあえず、家に帰ったら二人でお茶にしませんか?」




***




奇跡が起きた時に、それを伝えたい人がいますか?



「こんにちは」
「いらっしゃい、ケンジ君」
今日はラブマシーンだけ侘助に呼ばれていて、ケンジは一人で家にいた。やるべき事は山積みなので取り敢えず何から手をつけようか考えていた時にメールが届いたのだ。差出人はケンジからだった。今日の時間は空いているか、という簡単な内容で、丁度空いている、とこちらも簡単なメールを送ると、直ぐにまたメールが返って来た。今日、これから尋ねても構わないか、という内容に、二つ返事で了解を伝えたケンジはこうしてケンジが来るのを待っていたのだ。
「ここに来るまで大丈夫でした?今日は政府関係の通達メールが飛ぶ日だから、メッセンジャーの進路を妨げない様にルートが指定されているから」
「大丈夫です、友だちに抜け道を教えて貰ってましたから」
少しだけ得意げに言うケンジにそれは凄いですね、と相槌を打って、ケンジは家の中にケンジを招こうとした。
「あ、いいです、ここで」
「え、でも、」
お茶の準備は家の中にあるから、では取ってくる、とケンジが踵を返そうとした時に、ケンジを呼びとめるケンジの声が聞こえた。
「今日は、今日はボクはアナタにどうしても言いたい事があって、それで来たんです」
真剣だと分かるその声に、ケンジの足が止まった。静かに振り返って玄関先にいるケンジの姿を見る。彼は一心に自分を見詰めていた。
「…ボクに、何を言いたかったんでしょう」
ケンジの問いにケンジは口を開いた。
「ボクはアナタに謝りたかったんです」
「ケンジ君?」
何故、という疑問の声を遮ってケンジは続けた。
「ボクは、ボクが生まれた事で、アナタの居場所を奪ってしまった。アナタの存在意義を失わせてしまった……ずっと、そう思っていたんです」
小さい手を力いっぱい握りしめているのが分かってケンジは止めさせようと手を伸ばした。だがその手が触れる寸前に、ケンジが俯いていた顔を上げた。
「でも、違いました」
ケンジが伸ばした手を逆に引き寄せる様に掴んだケンジが目を細めた。
「今のケンジさんを見て、それがボクの思い上がりだって気付けました。アナタは自分でこの場所を選んだんだって、この場所に、アナタ自身がアナタの意思で立っているんだって」
ケンジの目をしっかりと見詰めて、目の前の小さな友人は言った。
「……それはとても尊くて、素晴らしい事だって、ボクはアナタに伝えたかったんです」
そう言って涙を零したケンジに、ケンジはつられる様にまた涙を零し、二人はお互いをしっかりと抱きしめて泣きあった。




涙が引いてお互い落ち着いてから改めて向き合って二人は笑った。
「その事を伝える為に来てくれたんですね」
ケンジが自分の左の手を弄りながら照れくさそうに言った。
「呆れます?」
「そんな事絶対にありません」
ケンジの答えに本当に嬉しそうに笑ったケンジは、ふいと顔を上げて家の周りを眺めた。
「そう言えば、ボク聞きたい事があるんです」
「なんですか?」
「どうしてここにはこの家の他に周りに何もないんですか?」
侘助さんならもっと色々面白い物を作りそうなのに。
そう呟いたケンジを見てケンジは言った。
「『自分達で作れ』って、そう言われたんです。『土台は作ってやったから、後はお前たちの好きにしろ』、と」
風が吹いてケンジの前髪をさらさらと揺らした。
「何も無いように見えるけど、見えないところにたくさんあるんですよ。例えば、ほら、ここには種が埋まっているんです」
そう言ってケンジは家の前に並ぶ植木鉢を指差した。
「種?」
「花の種。咲いたらきっときれいだからって、ラブマシーンさんが侘助さんに言われて貰ってきたんです」
少しずつ、ゆっくりとでも、
「初めてだから上手く咲くかは分からないですけど、…試したいんです、色々なものを」
それを確かめることが出来るのだから、
「試せるんですよ、何度でも」
そう言ってケンジは微笑んだ。


「ねえ、ケンジさん」
ケンジの横顔を見詰めながらケンジはもうひとつ聞きたかった事を尋ねた。
「ケンジさんにとって、『愛』ってなんですか?」


晴れの日も、
曇りの日も、
雨の日も、
風の強い日も、
雪の舞う日も、
一人の日も、
二人の日も、

いつも、それは変わらずに、


「それは、」









………………
(初出&再録本収録100813)サイト掲載120725

…ラブケン三部作(笑)の三話目の話。再録本に収録するにあたって書き下ろした分でした。三話続いたこの話はこれにて終幕です。
最後の最後に選ぶのがお互いだって分かってるって、
そうやって二人でいてほしいって、
そう思って書きました。
読んで下さって有り難うございます。










「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -