ずるいひと





ねえ、知ってる?

何を?

人は海から生まれたんだって

海から?

そう、あの広大な海から

それなら、ぼくたちは何から生まれたんだろう

そうだね、ボクたちは何から生まれて、何処にいくのだろう

答えはあるのかな

さあ、どうなんだろうね





…その答えがあっても、無くても、あのね、きっと、ぼくは、ぼくはね、





理由は分からないよ、けれど、





きっと君に会うために生まれたんだろうと信じているよ










それはあの日に交わした二人だけの、秘密と約束




「約束してくれませんか」

「何を約束すればいい?」

「お願いするのはこれきりにしますから、」

「何故だ?」

「…それ以上は、もう貰えないから、」

「………それで、わたしは何を守ればいい?」



「……どうか、お願いですから、」




***




手を組むというこの所作は、神への祈りの形なのだと、誰かが言った。では今自分が祈っているものは、果たして神に対してなのか、と問われれば、否と答えるだろう。祈るのはただ、彼に対してのみ。他には何も望まないのだとラブマシーンは思っている。見詰めた先には目の前で静かに眠る彼が、ケンジがいた。その横で、ラブマシーンはただ傍にいる事しか出来ない今の自分に焦りと不安を感じていた。
「…ケンジ」
折角思い出した彼の名前を呼んでも、彼は目を覚まさない。これでは、このままでは意味がないのだ、とラブマシーンは眼を瞑った。
瞳の奥に、甦る光景がある。あの日、最後に見たケンジの姿が自分の目に焼き付いて離れてくれない。
ガラス越しに見えた彼の泣き出しそうな大きな瞳。儚げに微笑んで、彼は最期だとでも言うように自分に言葉をくれた。
「…っ」
その時の事を思い出すと今でも胸が焼けるようだ。自分の不甲斐無さが情けなくて膝の上に置いた手のひらに握る力を込める。ぎり、と音がした。
『お前が、そんなんだから、コイツは何時までも寝ているのかもしれないぞ』
茶化すようなその科白にラブマシーンは目を開いて、突然聞こえてきた声の主に視線を向けた。
「…侘助」
『相変わらず、眠ったまま、だな』
侘助の視線がケンジに向かうのを見て、ラブマシーンは詰めていた息を吐き出すように声を出した。
「…ずっと、ずっとだ。あれからケンジは目を覚まさない」
悲観的になる訳でもなく、ただ事実だけをありのまま伝えようとした自分に侘助が気付いたかどうか知らない。だが、いつもよりも随分と柔らかく聴こえる声に、そんな自分を心配している事が分かって、余計にラブマシーンは居た堪れなくなった。
『お前がな、心配するのはもっともだろうがな』
もう少し、肩の力を抜け、と侘助は言って苦く笑った。
『こうなることを、予測出来なかった、俺にも非はあるんだ。あまり自分を責めるな。……………コイツが、』
「侘助?」
『コイツが、俺が思っているよりももっとずっと、…頑なだった。それに気付いていた筈なんだがな。…自分で、自分を閉じてしまったんだろう』
そう言って侘助はベッドに横たわるケンジを見やった。
「…頑な?」
『…まるで眠り姫だな』
自分の問い掛けに答えることはなく、童話の中の登場人物の名を呟いた侘助にラブマシーンは一端口を噤んだ。そのまま何も言わない侘助に、ラブマシーンはケンジを見詰めたまま手に込めていた力を僅かに抜いた。
「…今、ワタシには何も、ケンジの為に出来ることが何もない。……侘助、その事が、その事実がこんなにも遣る瀬無いのだ」
ラブマシーンのその言葉に侘助は何も返さなかった。沈黙が落ちた部屋の中で、ただ眠るケンジの微かな呼吸だけが鮮明だった。
『いつか、お前たちなら分かるだろうと思って、伝えていなかった言葉があるよ』
「…侘助?」
『それを、信じているんだ』
そう言って侘助はラブマシーンを見た。
『なあ、ラブマシーン、答えてみろ』
場違いな程に明るい声を上げて、侘助はラブマシーンに言った。
「…何をだ?」
『愛には、ある法則があるんだ』
「…愛の、法則?それを答えるとケンジは目を覚ますのか?」
『さあ、どうかな。それは俺にも分からん』
意気込んだ自分をあっさりと突き放した侘助の言葉にラブマシーンの肩が落ちる。
『ただ、それを知ったら、お前ならどうするか、と思ったんだ』
そう言って侘助はラブマシーンを見た。侘助は自分に対してこうした質問を時折投げかける。謎かけの様なその問いかけにラブマシーンは直ぐに答えることが出来なかった。
「…ワタシには、分からない」
『そうか、』
「だから、侘助、今はその答えは待ってくれ」
『ラブマシーン?』
「必ず答えを見付けると約束する。だから待ってて欲しい」
自分の思いは侘助に伝わったかどうか分からない。ただしょうがない、とでも言いたげな侘助の表情から、切れ端は伝わったのではないかと思った。
『まあ、探して、お前なりの答えを出してみろ』
「ああ、必ず」
眠るケンジの顔を見詰めてラブマシーンは頷いた。



***





それは臆病な少年の話




「ケンジ、お前なに呆けてるんだ?」
「…サクマ?」
「おい、ケンジ?」
「なに、」
「…本当に、どうしたんだ?お前。最近なんか変だぞ」
「………なんでもないよ」
「そうか?」
「そうだよ、ほらサクマ、早く行かないとマスター達がボクらを待ってる」
「おっと、もうそんな時間か」
「置いていくよ」
「おっ前、薄情だぞ!俺がお前を呼んだのに!」
「早くおいでよ、サクマー」
「待て!こらケンジ!」
後ろでサクマが声を張り上げるのをどこか遠くに聞きながら、ケンジはOZの世界を飛んでいた。視界一面を覆うカラフルな世界の中で、時事のニュースが今世界で起きている事件を細かに知らせている。
(…マスター、あのバイトやっぱり引き受けるんだろうな)
健二が佐久間からOZの管理のバイトを持ちかけられたのは一昨日の事。夏の間、という長いようで短い期間に『集中して金を稼げる!』、と言われて、ケンジのマスターである健二が、否を言う訳はない。きっと健二の事だから、佐久間に対してなんやかんやと文句を言いながらも、決して嫌な顔はしないのだろう。
(佐久間さんは、優しい人だから)
夏休みの間、家で一人になってしまう健二を気遣って、無理のないようにそれとなく健二の手を引いてくれるのだ、佐久間という人は。
(…ボクが、ボクがもっと、マスターのお手伝いを出来たら、いいのにな…)
まだ学校は終わっていない。明後日を終業式に控え、生徒は皆どこか浮き足立っている。だが、健二はいつもと変わらずに佐久間とあの部屋で己の世界に浸るのだろう。
(面白い数式見つけたって、佐久間さんが言ってたから)
だからきっと、今日はすぐに帰れないはずだ。
(マスター、のめり込むと直ぐに周りが見えなくなっちゃうから)
いつかのあれこれを思い出して、ふふと笑うケンジだったが、後少しで健二と佐久間のチャットルームに着く、というところで、急に何かに呼ばれたような気がしてその場に立ち止まった。

「…っと!危ないだろ、ケンジ!こんなところでいきなり止まるなよ…」
後ろに来ていたサクマがぶちぶちと文句を言っている。だが、ケンジは周りを見回したまま首を傾げた。
「…サクマ」
「なんだよ?」
「今、ボクのこと、呼んだ?」
「は?……いや、呼んでないよ。なんだよ急に。どうしたんだ?」
「…ううん、分からない。けど何か、…呼ばれたような気がしただけ」
振り返った先にあるのはいつもと変わらないOZの世界だ。何処にも自分を呼ぶ人はいない。それなのに、

「…どうして、だろう」

何かが、胸を刺したのだ。
ぎゅうと胸の辺りを掴んで一点を見詰めるケンジに、サクマが声をかけた。
「…なあ、ケンジ、お前、」
「サクマ」
ケンジの口がサクマの名前を鋭く呼んだ。その声に一番驚いたのは、呼ばれたサクマではなく、呼んだケンジ自身だった。
「行こう、マスターが待ってる」
何か言いたげなサクマの視線を感じながらも、ケンジはそのまま歩き出した。
(今のは、なに?)
自分でも分からない。でも、サクマの口が開いて自分に何か言おうとしたあの時、その先を聞いてはいけないと思ったのだ。
(…何故、胸が痛いと思ったのだろう)
不可解な感情に、ケンジは頭を振った。
(しっかりしろ、ボクがこんなんじゃ、マスターを支えられない)
脳裏に過ぎるのは、健二の柔らかい笑顔だ。
(あの人を、『寂しい』と思わせたくないんだ)
その為に自分はいる。それは誰にも譲れないケンジにとっての唯一絶対の自分の存在理由なのだ。
(忘れよう、きっとなんでもない)
でも、それならどうして、

(ボクは、何かに呼ばれた、と思ったあの時に、)

泣きたく、なったのだろう



***


「………ケンジさんは、まだ、目が覚めないんですか?」
控えめに聞かれたその質問だが、それに対しての解答を伝える事が、今の自分にはとても困難であると、ラブマシーンは考えていた。
「…ああ、まだ、目覚めない」
ベッドの中央でこんこんと眠るケンジの額にそっと手をかけて、前髪を払ってやる。印象的なあの大きな瞳は未だ瞑られたまま、彼に変化という変化は起きていなかった。
「…あれから、もう十日になります」
目の前の小さな栗鼠が今にも零れ落ちそうな瞳で眠るケンジを見詰めた。
「…ボク、ボク、ケンジさんとお約束したんです」
そっとベッドに近づいて、少しでも眠るケンジの近くに寄ろうと、ケンジは精一杯背伸びをした。
「いつか、必ず、ボクと、ケンジさんと、マスターと、…………」
「ケンジ、と?」
「そして、アナタと。……四人で一緒に会おうって、お約束したんです」
「…知らなかった」
侘助からこの目の前の栗鼠のアバターが、ケンジの元のマスターである健二が次に選んだアバターであるという話は聞いている。だが、それ以上に何かを聞いたことは今までになかった。
「当然だと、思います。アナタが以前のアナタを思い出すような事が無ければ、きっとケンジさんはそのまま何も言わなかったと思いますから」
「…どうして、だ?」
「ボクも、どうして自分がそう思うのか、よく分からないです。でも、ボクの知っているケンジさんなら、きっとそうするだろうと思ったから」
「ワタシでは、駄目なのか」
「いいえ、いいえ、違います」
ラブマシーンが落とした言葉にケンジは大きく首を振った。
「それが誰であっても、他でもないアナタ以外に、ケンジさんを救うことなんて出来やしないんです」
あまりに力強いその科白にラブマシーンはケンジの顔を見た。そこに見えたのは果たしてどんな感情であったのか。焦燥、悲哀、信頼、そして、
「お前は、優しいな、ケンジ」
ラブマシーンの言葉にケンジは目を丸くして、次いでその頬を赤く染めた。
「そんなこと、ないですよ」
「そうか。でもワタシはそう思った」
ラブマシーンの言葉に、ケンジは僅かに目を開いた。こんな風に真っ直ぐに、今眠っているケンジも彼から想いを伝えられたのだろうか。それを思うと、ケンジの胸が痛んだ。
「一体、どんな夢を見ているんでしょうね、ケンジさん」
話しをそれとなく逸らそうとして、ケンジは視線をケンジに向けた。
「そうだな。…ワタシにも分からない」
「せめて幸せな夢なら、いいですね」
そう言ってラブマシーンを見たケンジは、今の自分の言葉が間違いだった事に気付いてしまった。
「…ごめんなさい、おかしな事を言いました」
頭を下げて自分に謝るケンジに、ラブマシーンは知らず握りしめていた拳の力を直ぐに抜いた。
「いや、ケンジが謝る事ではないんだ」
「それでも、あんな事、言うべきではなかったです」
ケンジの眠るベッドのシーツをぎゅっと握りしめて、小さな栗鼠は呟いた。
「…ケンジさんが、どんなにか、アナタを大切に想っていたのか、ボクは知っています」
「ケンジ?」
「だから、そのケンジさんが、こうして眠り続けているのは、…アナタをこんな風に悲しませなくてはいけなかったのは、きっと何かとても大切な理由があるんだと思うんです」
そうでなければ、
「…ケンジさんが、最後まで守ろうとしたアナタを、独りにするはずなんてないんですから」
そう言って、耐え切れずぽろぽろと涙を零したケンジに、ラブマシーンは何も言えず、ただ、その頼りなげな小さな背をそっと撫でてやることしか出来なかった。だがこの時、胸中でケンジとの会話を反芻していたラブマシーンの中に、あるひとつの決意が強く固まっていた。




あの後ケンジが帰った直ぐ後に、ラブマシーンは侘助に自分の決めたある意志を伝えようと連絡を取った。連絡を受けた侘助は一通りラブマシーンの話を黙って聞いていた。そしてラブマシーンの話が終った後も暫くは口を開かなかった。顎に手を当てたまま考え込むような姿勢でいた侘助は、重い口を開いて言った。
『…それは、お前がもう二度とやらないと決めた事じゃなかったか?』
侘助の言葉にラブマシーンは首を縦に振った。
「そうだ。……ケンジの夢を覗く事は、もうあれきりにしようと思っていた」
『思っていた…ね。…一度決めた事を覆して、それでお前はどうしたいんだ』
「分かっている」
『何が分かっているって言うんだ』
「ケンジの事だ」
ラブマシーンは続けた。
「ケンジの眠っている原因が、もしもその夢の中にあるのだとしたら、…ワタシなら、ケンジを」
『救ってやれると?』
「…違う、救うだなんて言葉は使えない」
『違うのか』
「ワタシの我儘だ。エゴ以外の何でもない。だから結果ケンジに嫌われてしまっても、ワタシはそれでも構わない」
と、そこまで言い切ってからラブマシーンは顔を上げた。
「侘助、だから後の事を頼む」
『…お前らは本当にまったく、俺を飽きさせないよ』
しょうがない、と言うように両手を上に上げて降参のポーズをとった侘助は、ラブマシーンの瞳を見て言った。
『後ろは気にするな。俺がなんとでもしてやる。…だからお前は、さっさとケンジを起こしてやってこい』
「礼は、戻ってきたら必ずする」
『期待しないで待っていてやるよ』
その言葉を最後に侘助との通信はプツリと切れた。照明の消えた部屋の中でラブマシーンの瞳だけが光を放っている。そのまま踵を返して、ラブマシーンは歩き出した。ケンジの眠る部屋へ、彼を起こすために。





軽く扉が開く音が部屋に小さく響く。奥のベッドに眠っているケンジは、昨日も一昨日も変わらなかった。
「…ケンジ、これはワタシの我儘だ」
ラブマシーンはケンジの額に掛かる前髪をそっと梳いて、瞑ったままの瞳を見詰める。
「ワタシがこれから起こす行動の結果が、たとえケンジを傷つける事になったとしても、…それでもワタシは諦めたくない。…諦めたくないんだ」
どうか、分かってくれるだろうか、ここに、こんなにもお前を望む者がいると言う事を。
部屋に落ちるラブマシーンの言葉は、そのまま落ちて拾うものは誰もいない。ただ静かな沈黙の中に、するりと溶けていくだけだ。
「ケンジ、ワタシはお前の瞳が開くところが見たい」
「瞳を開けて、一番にその瞳を見詰めるのはワタシでありたい」
「どうか、ケンジ、ワタシを、」
「ワタシの事を、」
「…ケンジ、待っていて、くれるか?」
もう一度祈るように見詰めた先に眠ったままのケンジがいる。
返事が無い事は分かっていたが、どうしても伝えておきたかった。ケンジに自分の想いを。
こんな自分をずっと待っていてくれた、ケンジの為にも。

「お前は、ワタシが、必ず迎えにいく」

ラブマシーンの大きな手のひらがケンジの頬に触れた。以前にケンジの夢を覗いたあの時の様に意識を集中させてラブマシーンは瞳を閉じた。
触れた先から伝わってくるイメージが集約されて頭に直接流れ込んでくる。
凄まじい勢いで流れ込むそれらの情報の波を、全てその身の中に受け入れるようにラブマシーンは身を任せた。

(『………見付け、て    、』)

(「ケンジ…?」)

ラブマシーンの意識がケンジの中に飛びこむ瞬間誰かに呼ばれた気がして、ラブマシーンはケンジの名を呼んだ。だが、返事は返ってこなかった。
そして視界が一面白く染まった。




***



それはただ彼一人を待ち望んだ子どもの話




閉じていた目をゆっくりと開いたラブマシーンは、目の前に広がる光景に驚いた。
「…OZの、世界…?」
そこにあるのは、普段の自分達が生活しているOZの、そのままの世界があった。
「…これが、ケンジの見ている夢の世界なのか…」
余りにリアルに近く、まるでこの場所が本当の世界だと思ってしまいそうになるくらい、ここは現実に近かった。ラブマシーンの周りを飛んでいく数多くのアバター達。見上げた空にはメッセンジャーの鳥たちが自由に羽ばたき、忙しなく流れるニュースの声がその日にあった出来事を伝えている。皆が皆生き生きとこの世界で活動している。ラブマシーンは一瞬、これが本当に夢の世界なのか分からなくなった。戸惑い、周りを見渡していたラブマシーンは、ある違和感を覚えて視線を一点に止めた。
そして、気付いてしまった。やはり違う、とラブマシーンは頭を振った。この世界に無くてはならない、唯一絶対の物が欠けている事が分かったのだ。
「ここは、現実ではない…」
自分自身に確認するようにそう呟く。そうと分かれば、本来の目的であるケンジを探そうとラブマシーンは再度辺りを見回した。ここはケンジの夢の中の世界だ。自分はケンジに認識されている訳ではないから、今自分の目の前を通り過ぎる全てのものが自分の存在には気付かない。いわば今の自分はゴーストに近い存在なのだろう。それならそれで都合がいい。この大きな身体では、色々と目について動きにくいかと考えていたラブマシーンには丁度よかった。さて、とラブマシーンは自分の位置を確認した。ここからなら、管理棟に近い。ケンジもここからそう遠くへは離れていない筈だ。彼は自分の行動に制限が掛けられている。夢の中の世界でもそれが同じだとは思わないが、自分の中の何かが直感の様に告げていた。
ケンジは、この近くにいる、と。

「ケンジ、今、何処にいる?」

その場で佇んでいた体勢から、空間を蹴るようにして身体を宙に飛ばした。流れる周りの光景を目の端に捉えながら、静かに零れたラブマシーンの問いに答えるものは今この場にはいなかった。



***


「…おい、ケンジ、」
「…あ、何、サクマ」
「お前、またぼーっとしてるぞ。最近変だ。一体どうしたんだ?」
「…そうかな」
「そうだよ」
「…ボクも、よく分からないんだ」
「ケンジ?」
「…ただ、」
「ただ?」
「誰かに、呼ばれている気がするんだ」
「…誰に」
「それが、分からないんだよ」
そう言ったきり、ケンジは窓の外を見てそのまま黙りこんだ。サクマに言われなくても分かっている。最近の自分がおかしい事には。けれどそれに対する明確な理由は、ケンジ自身にも分からないままだった。答えは、多分そう遠いところには無い。けれど手を伸ばそうとしても、何かが拒んでそれ以上は届かないのだ。
どうしても、それ以上が分からない。自分の事なのに、自分が分からない。手のひらにすくった砂がさらさらと零れていくような感覚に、ケンジは自分の身体を両手で抱き締めた。

(…ボクを、呼んでいるのは、誰?)

思考が纏まらず、頭を抱え込むようにして身体を丸めたケンジに、サクマが声をかけた。
「ケンジ、無理に考えようとするからそうなるんだ」
「…サクマ?」
「いや、違うな、無理とかそういうんじゃない。…お前はもう分かっているんだから」
「サクマ、それ、どういうこと…」
ケンジがサクマの顔を見ようと俯いていた顔を上げた。
「サクマ、教えて、ボクは何を知っているの」
「俺が言ったとしても、それでもお前はきっと理解出来ないんだ」
「何故!」
「それは、お前が、」
サクマの口が開きその先を言おうとしたその時、部屋の明かりが一斉に消えた。
「…っな、」
「なんだ?!」
突然出来た暗闇で、一寸先も確認出来ない。サクマの声で、近くにいることくらいは分かる。
(暗所用サーチライトなんて常備しているのはセキュリティセンターくらいだよ…!)
状況を確認するために一先ず外を見ようとケンジは躓きながら手探りで窓に駆け寄り窓枠に手をかけた。窓の先にまず見える管理棟の頂、光が集まっているそこにケンジは見つけた。
その真上に佇むシルエットを。
「………あ、のひと…は、」
その姿を確認した時に、ケンジの中で欠けたピースがカチリと当て嵌まる音が聞こえた。
「おい、ケンジ!」
サクマが自分を呼びとめる声を背中に受けたが、それはケンジの行動を止める役割は果たす事はなかった。ケンジはそのまま勢いをつけて窓から外に飛び出した。


***


「…思ったより、難関だった…か」
ラブマシーンはあれから方々を探したが、ケンジの姿は元より、その情報のきっかけすら掴めていなかった。この世界がケンジの夢で、そしてケンジが作った世界なのだから、そこかしこに彼の気配を感じることは出来る。だが、実体を掴むのは、まさに雲を掴むように難しい事だった。以前自分に掛けられていた情報制限プロテクトの様に、自分はこの世界でケンジを認識出来ない様になっているのではないか、とも考えた。が、そうではないことに気付いた。
「ケンジが、この世界にワタシがいることをケンジ自身が認識していないからだ」
だから彼に存在を認めてもらわないと、きっと自分はケンジを見付けることはおろか、触れることすら叶わないのだろう、とラブマシーンは結論を出した。
「それなら、ワタシから出来ることは、ただひとつしかない」
言うが早いが、ラブマシーンはOZの管理棟の上に降り立った。
「…ここが一番見つけやすいだろう」
周りを見回して周囲に障害になるようなものが無い事を確認すると、ラブマシーンは両手を前に伸ばし、手のひらを上に向けた。
「少々、荒っぽくなるが、」
一度頭の上まで持ち上げた両腕を翻しながら、今度は勢いよく足元に叩きつけた。
「ケンジに許可を得なくてはならないのならば、ケンジから出てきてもらえばいい」
地面に叩きつけたラブマシーンの手のひらから伸びる光の筋が、管理棟に沿うように伝わっていく。そして、全体に行き渡った事を確認したラブマシーンは口を開いた。
「全照明システムを強制ダウン。予備電源はダウンを確認した後、十秒後に起動。カウント開始」
その言葉の直ぐ後、世界は一瞬にして暗闇に支配された。
「……ケンジ、ワタシが見えるか?」
きっかり十秒後、指示通り予備電源が起動してラブマシーンの立つ管理棟の真上に光が集まる。暗闇の世界の中、ラブマシーンの姿が浮かび上がりそこだけ周囲から切り取られたような空間が出来た。ラブマシーンは意識を集中させて周囲の気配を探る。程なく動きが見えた。何かが一直線に自分の元に向かってくる。
「…見つけた」
ラブマシーンはそっと笑った。


***


「…アナタは、一体どなたですか…?」
目の前に現れたケンジの開口一番の科白にラブマシーンは動じなかった。寧ろそれは当然だろうと思っていた。何しろ今まで自分はケンジに認識されていなかったのだ。自分の知っているケンジならば、自分の事を直ぐに気付く筈だ。自惚れではなくラブマシーンはそう考えている。だから、そのケンジがこうして自分を前にしても自分が分からないというのは予想の範囲内だった。目の前の彼には、自分との記憶が無いのだ。
それをラブマシーンは知っていた。
「その質問にワタシが答えて、それでお前はどうするのだ?」
「え…?」
自分の問いに対して答えではなく質問が返ってくるのは予想外だったのか、ケンジの大きな瞳が更に開くのを見て、ラブマシーンは続けた。
「ワタシは、お前を知っている。だから、お前の問いに答えることは出来る。だが、それでお前はどうしようというのだ?」
「ボクは、ボクは、…自分が自分でなくなるような、この感覚の正体を知りたいだけ…それをきっとアナタは知っているんだ」
不安げに揺れるケンジの瞳が光に照らされて煌めく。
「アナタが、ボクを知っていると言うのなら、教えて下さい。ボクは知りたい」
ラブマシーンはケンジとの距離をもどかしく思った。直ぐ傍に彼がいるのに、彼に届かない。ただ知りたい、とケンジは手を伸ばす。その彼の姿が以前の自分に重なった。ただ貧欲にケンジを知ろうと、知りたいと望む以前の自分に。
(ケンジも、こんな思いだったのか)
望む者が目の前にいて、けれど相手は自分を覚えていない。その事がこんなにも、
(ワタシは、…なんて)
「あ、あの、」
ケンジの声に視線を彼に戻す。どうしたのか、と自分を見るケンジにラブマシーンは頭を振った。
(…今は、それを悔いる時ではない)
彼を起こすのだ。その為に自分は彼を探した。
「…お前をお前が知るためには、お前自身がこの世界を知らなくてはならない」
「…この、世界…?」
意味が分からないという顔をするケンジにラブマシーンは右手を真横に水平に動かした。
「そうだ、お前が世界だと認識しているこの世界を」
持ち上げた手をそのままに、ラブマシーンは確認するように周りを見た後、手のひらに小さな光の球体を作りだした。
「…本当の姿を、お前は知っているんだ」
その科白の後、大きく振り被ったラブマシーンの手から勢いよく光の球体が天井高く舞い上がる。
天球に到達したそれは花火の様に光を放ちながら暗闇を拭っていった。
余りの眩しさに瞳を瞑っていたケンジは、暫くしてから閉じていた瞳の先の光が弱まった事が分かると、ゆっくりを瞳を開けた。
「…………な、に、これ…」
開いた先に広がる世界は自分達が存在している、いつもと変わらないOZの世界のはずだった。
「…ど、どうして、皆、動いていないの…!」
そこにあるのは、時を止めた世界。誰も彼もがその場に縫い止められたように動かない、まったくの無音の世界だった。楽しげに歩いているアバターも、スポーツを楽しむアバターも、空をはためくメッセンジャーの羽ばたきもその場で全てが止まっている。
「アナタが、これを…皆を止めたの…?」
驚愕に戦慄いたケンジの瞳に浮かぶ色が所謂恐れの感情であったとしても、ラブマシーンは口を閉じて何も言わなかった。
「どうして…っ!何も答えてくれないの……!何で…!ボクを、放っておいてくれなかったんですか…!」
勢いに任せて自分が叫んだ科白にハッとして、ケンジは口元を押さえた。
「え、今、ボク…」
「お前の事を、ワタシが放っておける訳がない」
「…なんで、ボクは、アナタを知っているの…?」
「お前は、気付かないか?」
ケンジの問いに答えることなく、ラブマシーンは言った。
「何を、ですか…!」
「この世界に欠けたものを」
「欠けたもの…?」
「気付かない筈がない」
「分からないよ、アナタは何の事を言っているの…?」
「この止まった世界は、寧ろ正しい姿だからだ」
「正しい訳なんてある筈が…!」
「では、何故だ?」
耳を押さえてケンジが叫ぶ。
「知らない…っ、聞こえない…っ」
「そう、聞こえないだろう、あの音が」
その声にケンジはまさかと思い、自分の中で浮かんだその考えを打ち消すためにそれを探した。ある筈のその存在を確認しようとして必死で周りを見詰めるが、暫くしてそれが叶わない事に気付いてケンジはその場に膝を折った。
「…聞こえない、音は、」
「そうだ、聞こえる筈がない」
ラブマシーンの声が無音の世界に響く。
ケンジが探したのはOZの上空に位置する時を導く音。全てのアバター達が見上げ、そして聞く、…その音を紡ぐ『ワールドクロック』。その存在がこの世界には無かったのだ。
「…っ!」
その事実に気付いた瞬間、ケンジの頭の中で記憶がフラッシュバックした。まるで映画のフィルムをコマ送りで再生しているようにそれまでの自分に起きた出来事が超速で流れていく。そして、その中に見付けたのだ。自分が何処かに置いてきてしまった大切な記憶を。零れてしまった想いを。
「あ、あああああ!」
頭を押さえ叫び声を上げるケンジにラブマシーンはそっと近付いてその華奢な身体を抱きしめた。
「…!…や、ど、うして、ボクなんか…」
「ケンジ」
彼の口から紡がれる自分の名前を聞いて、ケンジは涙が零れた。
「ずっと、お前は呼んでいてくれたんだ」
「う、あ、」
「遅くなってすまなかった」
ラブマシーンのその言葉に、ケンジはもう目を開けていられなかった。流れる涙と嗚咽をそのままにケンジは目の前の存在に縋りついた。





「落ち着いたか?」
「……………はい」
触れた箇所から伝わる彼の存在にケンジの涙腺はまた緩みそうになり必死に堪えた。
(…なんかボク、泣いてばっかりみたいじゃないですか)
強く目元を擦って顔を上げると、ラブマシーンがそんな自分を見詰めていた事に気付いてケンジの顔は赤く染まった。
「…見ていないで、下さい」
「ケンジを見ないで、ワタシは何を見ていればいいんだ?」
そのストレートな物言いにケンジはくらりとした。
「…そんなことより、ボクはあれからどうしたんでしょうか」
照れの所為かぶっきらぼうな口調になってしまうケンジに、些か残念そうな顔でラブマシーンが説明をした。
「ココが、ケンジの作りだした夢の世界だと言う事は分かったか?」
「…はい」
「ケンジはあの時、侘助のカプセルを飲みこんでからずっと眠ったままなんだ」
「…それって、どれくらいの期間です?」
「十日くらいだ」
「と、十日も…?」
「侘助が言うには、ケンジが自分を閉じてしまったから眠り続けているんだろうと」
何となく思い当たる節がある。あのカプセルを飲み込んだ後、これで終わりだと、全ての意識を自分から切り離そうとしたのだ。ケンジは思わず自分の額を押さえた。
「皆さんには大変なご迷惑を…」
「ケンジ、その前にワタシの話しを聞いてくれるか?」
「…ラブマシーンさん?」
向き合った彼が真剣な瞳で自分を見る。少しだけ戸惑ったが、ケンジは背筋を伸ばしてラブマシーンに顔を向けた。
「なんでも、どうぞ」
「有難う」
一言礼を言ってから、すっと差し出されたラブマシーンの手にケンジは無意識に自分の手を乗せた。
「正直に伝える」
「はい」
「今のワタシは、あの夏の記憶を全部思い出した訳ではない。ここにいるワタシはワタシではあるが、ケンジにとっては違うかもしれない。きっと何か原因があるのかもしれないし、残りの記憶が本当に失われたのかどうかは、ワタシにも分からない。…だが、」
これ以上ないくらい優しく触れるラブマシーンの指の感触が自分の手に伝わってきて、ケンジは泣きそうになるのを必死で堪えた。
「…だが、ワタシの中にはちゃんと残っている記憶もあった。思い出せたんだ。それがケンジ、お前と交わした約束だった」

(『……どうか、お願いですから、』)

ケンジの胸の中に自分の声が甦る。それは彼と最後に交わした約束。自分の身勝手で我儘な願い。
「ワタシは、それを守るために戻ってきた。それをケンジに伝えたかった」
「それだけの為に…?」
「ワタシにとってはそれだけではない」
「あれは、ボクの我儘です」
「ワタシの願いでもある」
「忘れてくれたままでもよかった」
断ち切る様な言葉に、言ったケンジ自身がひやりとした。
「本気で言っているのか?ケンジ」
ラブマシーンの問いにケンジはぐっと唇を噛む。
「本気と言ったら…?」
「それは聞かなかった事にしよう」
あっさりと返すラブマシーンにケンジは声を張り上げた。
「そんな、子どもみたいな事言わないで下さい…!」
「そうだ、ワタシはまだ子どもなんだ」
だから、
「ケンジがいないと困る」
そう言って自分の手を強く握ってくる彼にケンジはそれ以上何が言えただろう。
「あの約束とは前後してしまうが、」
「……ラブマシーンさん、」
「ケンジ、ワタシはお前に守ると誓った」
あの日、ケンジただ一人に、
「お前をワタシは見失ったりしない。今度こそ、お前の手を離さないと誓う」

(『…ボクを、離さないで』)

あの時の自分の言葉を思い出してケンジは何かに耐える様にラブマシーンに包まれたままの自分の両の掌を強く握りしめた。
「…ラブマシーンさん」
「ワタシでは、足りないか?」
「ボクはずるい」
「ケンジ?」
「ずるいんです……アナタをボクの言葉で縛ってしまった」
懺悔の様な告白をケンジは続けた。
「ケンジ、それは、」
「でも、でも、ボクは、それでも欲しかった」
「何を、だ?」
「欲しいのは、ボクが欲しいのは約束じゃなくて、」
「ケンジ?」
「今、なんです」
探してみれば、自分の中にはこんなにも素直な気持ちが溢れていた。
「アナタといる『今』が、欲しい」
だから、どうか、と口の中でひっそりと呟きながら、ゆっくりと持ち上がったケンジの両手がラブマシーンの両頬をそっと包んだ。
「こんなボクでも、アナタがいいというのなら、」
「ケンジ以外は要らない」
真っ直ぐなラブマシーンの言葉にケンジは泣き笑いで答えた。
「…侘助さんは?」
「…侘助は少し違う………ケンジ、ワタシをからかっているのか?」
「いいえ、そんなことないです」
「本当か?」
「恥ずかしいだけ、ですよ」
今度こそ自分の気持ちに向き合って素直になろう。きっと、想いは伝わるのだ。
こんな風に必死に、自分なんかの為に手を伸ばしてくれるこの人に、自分が出来ることは全部やろう。
緩く背中に回ったラブマシーンの両腕がケンジを引き寄せた。
「…ワタシが、ここに来たことを、怒るか?」
「ボクは、アナタに隠す事なんて、今更何もないんです。…ここは、ボクの、以前のボクが夢見た世界だから」
「以前のケンジが?」
「マスターの傍にいて、ずっとお手伝いが出来る自分です。…ボクはマスターの、あのひどく優しくて、…寂しさを素直に表に出せないあの人の為にボクはいるのだと、そう信じていた」
「…その手をワタシが引き離したんだな」
「話は最後まで聞いて下さい。…ボクは以前のボクの夢って言ったんですよ」
「…ケンジ」
「今の、アナタがいるボクが、望む夢は、」
そっと耳元で囁かれたケンジの言葉に、それを聞いたラブマシーンの両腕がケンジを逃がさない様に更に力を込めた。
「もう、二度と離せないぞ」
「それこそ、望むところです」
二人は顔を見合わせて笑った。そして誰よりも近くで、誰にも自分達の声を聞かれない様に、お互いの唯一を確かめる様に、優しく抱き締めあった。まるでそれが最初からの形の様に、二人の影はやっとひとつになった。






「折角の空気に水を差すようで大変申し訳ないんだけどさ、ご両人」

突然背後から聞こえた声にケンジとラブマシーンの二人は思い切り振りかえった。
「サ、サクマ!?」
「悪いなーケンジ、いやあ邪魔しちゃ悪いって思ったんだけどなー、そろそろ本格的にマズイから」
いつの間にか二人の真横に頭だけで浮かんでいるドットの猿が、読めない顔で飄々と言った。
「この世界、もうじき閉じるから」
「…え?な、何で、何の事…」
「当然だろー、お前が起きるんだから」
「いや、そうなんだけど、え、どうして、…ここがボクの夢の世界で、全部本物じゃなくて、なのにサクマ、」
「だって、俺は、本物だから」
「はい!?」
「俺はー、ホンモノですー」
間延びしたサクマの声にケンジの悲鳴に近い声が重なる。
「どうして!?」
「それはまあ、またの機会にでも教えてやろう。ほら、急げ、あっちから崩れてきてるから」
そう言ってサクマが視線を向けた先を見てケンジは上がりそうになった声を飲み込んだ。
「…崩れてるって、」
「んー、まあ、ぶっちゃけて言えば崩壊?」
「ぶっちゃけなくてもそうでしょ!何を呑気に!」
「だってお前らがイチャイチャしてんだもん」
「イチャイチャ言わないで!」
やはり見られていたのか、と先程までの自分とラブマシーンの色々を思い出してケンジは穴があったら入りたいと心底から考え頭を抱えた。
「…ケンジ、落ち着け」
混乱の極みに達しようとしていたケンジに声をかけたのは、ラブマシーンの落ち着いた声だった。
「ラ、ラブマシーンさん…」
そっと立ち上がってラブマシーンがサクマと対面した。
「…こうしてちゃんと話をするのは初めてだな」
「こちらこそ、頭だけですみませんね、これでも限界ギリギリなんですよ」
「済まなかった」
「ま、それも後にしましょ。積もる話もあるけど、さすがにそろそろ本気でヤバイ」
その通り、段々と黒く塗り潰されていく世界を見遣って、ラブマシーンは頷いた。
「そうだな。…お前は平気なのか?」
「最低限の避難回路は確保してますから、俺のことは気にしないで下さい」
「サクマ!」
離れようとするサクマに向けてケンジが叫んだ。
「ケンジ、ほら行け。そんでちゃんと起きろ。で、また遊ぼうぜ」
「…サクマ、」
名前を呼ぶしか出来ない自分にケンジが歯痒さを思って俯く。そんなケンジに少しだけサクマは笑ってもう一度ラブマシーンに向き合った。
「ところで、ラブマシーンさん?」
「『さん』、は要らない。サクマ」
「うん、じゃ、ラブマシーン」
「何だ」
「そいつ、本当に、つーか結構頑固なとこあるから」
「知っている」
「俺が言うのもおかしいんですけど、…頼みます、ケンジの事」
「ああ、任された」
「サクマ、ごめん、ボク、」
「ケンジ、たまには俺だって思い出せよ?」
「忘れてた訳じゃないよ…!」
「知ってるよ」
馬鹿だな、そう言ってサクマは笑った。その言葉を最後にノイズの様な残像を残してサクマはその場から消えていった。
「…ケンジ、ワタシ達も行こう」
「………」
「ケンジ、」
ラブマシーンが呼ぶ自分の名前にケンジは顔を上げた。
「はい、行きましょう」
ケンジの瞳に涙が見えたが、ラブマシーンは敢えて何も言わなかった。ただそっとそれを拭ってやるに留めた。
「ケンジ、目を瞑っていろ。…ワタシを絶対に離すな」
ラブマシーンがケンジを抱えながら空いた左手で空に手を翳す。

「…帰ろう」

その言葉にケンジが僅かに頷いて、ラブマシーンの首に回す手に力が込められた。それを確認してからラブマシーンは意識を左手に集中させた。


「…さよなら」


世界から離れる瞬間、意識の片隅でケンジがそっと呟いた声をラブマシーンの耳は拾う。その声は今まで聞いたケンジのどの声とも違い、いつまでもラブマシーンの耳に残った。別れを惜しんでいる訳ではない、けれど大切な何かを手放す時の、一抹の寂しさ、もう帰ることはないその場所を、ケンジは思っているのだろうか。
右手に抱えるケンジは今は顔を見ることが出来ない。だがきっと、もう泣いてはいないのだろう、とラブマシーンは思った。




***





これは二人の恋の話




「おはよう、ケンジ」
「…おはようございます、ラブマシーンさん」
あれから直ぐにケンジとラブマシーンの二人は本来在るべき世界に、OZの二人の暮らす家に戻ってきた。最初に目が覚めたのはラブマシーンの方だった。周りを見回して自分が帰ってきた事を確認したラブマシーンは、次いでベッドのケンジを見遣った。そっと窺うように目の前のケンジを見ると、丁度ケンジが瞳を開けるところだった。その大きな瞳が開くのを祈るような心地で見詰める。しっかりと開いたケンジの瞳に映った自分を見てラブマシーンは込み上げる想いを押さえきれずにケンジを思い切り抱き締めた。苦しいと言って自分の腕を叩くケンジの声も隠し切れない笑い声が混じっていて、ラブマシーンの腕の力を緩めることにはならなかった。
「…皆さんに、お礼を言いにいかないといけないですね」
「そうだな、ケンジ。…ケンジが来てくれたぞ」
「ケンジ君が?」
「お前たちの交わした約束を、聞いた」
約束、の言葉にケンジが息を飲んだ気配がした。
「ケンジと、ワタシと、ケンジのマスターと、自分の4人で一緒に会おうと、約束したと」
「…ケンジ君は、本当に優しいから、」
「ワタシもそう言った」
そっと額をラブマシーンの肩に擦りつけて、ケンジは聞こえるか聞こえないかの僅かの音量で声を漏らした。
「…ケンジ君が、本当に頑張ってくれて、あの日、ボクはマスターと話をする事が出来ました。…マスターも、ボクを許してくれた。…いいえ、多分許すとか許さないとか、そういう事じゃなかったんです。…二人は、ボクの事をボク自身よりもずっと分かってくれていたから。ボクがあの後どうするのか、きっと知ってた。それでも何も言わないでいてくれたのは、…ボクを、信じてくれていたから」
自分の肩を掴むケンジの手に少しだけ力が込められた。ラブマシーンはケンジの名を呼ぼうとした、がその前にケンジの言葉が重なった。
「…アナタが、ボクを見付けてくれた」
「ケンジ、」
「ボクは、幸せです」
そう言って花が咲く様な笑顔を見せたケンジに、ラブマシーンは自分の中に生まれた初めての感情に胸が潰れそうになった。

(きっと、これだったのだ)

(『ただ、それを知ったら、お前ならどうするか、と思ったんだ』)

(侘助、今、分かった)

「…ケンジ、ワタシはお前に何が出来るだろう」
「ラブマシーンさん?」
「ワタシはケンジから貰ってばかりだ」
「どうして、アナタは…」
「…ケンジ?」
ケンジはそれ以上言葉が出てこなかった。今、口を開いたら、きっと出てくるものは嗚咽にしかならない。
(貰ってばかりなのは、ボクの方なのに、)
自分は彼にこれ以上ないくらい色々なものを貰っている。きっと彼は知らないところで、それらは自分の今を支えてくれているのだ。
「教えてくれ、ケンジ。ワタシは何が出来る?」
何もいらない、とケンジは叫びたかった。これ以上貰えないとも。それでも彼は納得してくれないのだろう。全てを伝えるには、自分にも彼にももっと時間が必要なのだ。ケンジはラブマシーンを見て微笑んだ。
「…これから、ボクがアナタと過ごす時間の中で、」
きっと彼も分かる日がくるだろうと、
「二人で、いることが」
どうか、今はこれだけでも許してほしい。
「とても尊いものだと、ボクは、」
だから、
「…今は、これで十分です」
声が詰まってそれ以上は言葉にならなかった。そこまで言ってケンジはラブマシーンを抱き締める。自分の小さな身体では彼を包みこむ事は出来ないけれど、精一杯背伸びをして彼の首に腕を回した。
「…ボクの、傍にいて」
それに応える様に自分の背中に回ったままのラブマシーンの腕が、更にケンジを引き寄せた。
そのまま暫く二人でじっと黙ってお互いを抱きしめていたが、ケンジがハッとして口を開いた。
「ラブマシーンさん、サクマは…」
「そうだな、一度確認を取った方がいい」
「…ラブマシーンさんは、知っていたんですか?」
「何をだ?」
「サクマが、あそこにいたサクマがボクの夢じゃなくて、本当のサクマだって」
何故かは知らない。だがケンジはラブマシーンとサクマの会話を聞いていてそう思ったのだ。
「…ワタシも確信があった訳ではない。だが、…推測なのだが侘助が手を貸してくれたのだろうと」
自分がケンジの夢の中に入る際に聞こえた声は、彼のものだった。あの時声はこう言ったのだ。
『アイツを探して、見付けてやってくれ』と。
「侘助さんが…?」
「侘助は、ケンジのマスターとも連絡が取れるからな。きっとその伝手だろう。サクマのマスターに連絡を取ったのは」
「…サクマ、」
「どうやったのか、侘助はワタシの考えの及ばないことをする」
憮然としたラブマシーンの声にケンジはそっと笑った。
「アナタの、生みの親ですからね、侘助さんは」
「…どういう意味だ?ケンジ」
「そのままの意味ですよ」
分からない、という顔で自分を見るラブマシーンに彼に見えないようにケンジはもう一度笑う。
きっとこれから忙しくなる。今後の事も考えなくてはならないし、サクマとも早く連絡を取らないといけない。でもケンジは今だけだ、と肩の力を抜いた。

(あと、もう少しだけ)

自分の身体を包むラブマシーンの腕にもたれる様にケンジは身を寄せた。安心するこの場所でケンジはひっそりと息をつく。その顔に浮かぶ表情、それはまさに幸福そのものだった。













………………
(初出100321 再録本収録100813)サイト掲載120718

…ラブケン三部作(笑)の二話目の話。
どうしても私はケンジ君を泣かしたいらしい、とこの時に気付きました。
いえ、ラブならいいの。ラブなら。そこに愛はあると信じて下さい。
あと一本で終幕。

 









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