優しい影

「ここにいましたか」
「・・・知世か。またお前はこんなところにホイホイと来るんじゃねえ。何かあったらどうすんだ」
「あら、そんなことにならない為に貴方達がいるのではありませんか?」
「減らず口を・・・」
「誰に対して、その科白か聞いてもよろしいですわよ?」
「沈黙は金、だ」


本来ならば、怪我もまだ癒えていない状態の人間が、こんな本殿天守閣の屋根の上でのんびりとしていていいはずがない。だというのにこの男はその事に些かの疑問も覚えないらしい。
そういうところは旅に出る前となんら変わっていないようだと、僅かな安心と溜息を知世は同時に飲み込んだ。

「もう少し自分を労わりなさい。貴方はまだ病み上がりですのよ。そんな頼りない風貌でここに座り込むだなんて、遠慮して頂きたいですわ」
「別にもうなんともない」
強がりでも何でもない黒鋼の顔を見て、知世は今度は隠すこともなく溜息を吐いた。言っても無駄なことだとは分かっている。これからの事を考えたら、決して時間があるとは言えないのだ。直ぐにでも飛び出そうとしないだけ成長が見えるのだろうと、彼の昔を思い出して少しの寂寥を知世は感じた。
「黒鋼」
主の呼びかけに黒鋼は顔を向けた。
「私、まだ十代ですのよ」
「・・・それがどうした」
「どうしてこの年で、母親の気持ちが分かるようになってしまうのでしょうね」
誰のおかげとも言わないで、知世は静かに微笑んだ。
「俺のせいだって言いたいのか?」
「私は誰のせいとも言っておりませんわ」
言外に言ってんだよ、と小さく呟く声が聞こえてきて知世は堪らず吹き出しそうになった。
「自覚があったのですわね」
「・・・知らねえよ。もういいから、早く中に入れ。今のこの時期、夜はまだ冷える」
そういった労わりの声が彼の口から紡がれた事に、知世はわずかに目を張った。

懐かしい声
暖かな手のひら
仰ぎ見た空の雲の色

過ぎた過去が泡沫の泡のように浮いては沈み、胸の内の湖面に波紋が揺らぐ。彼は知った。そうして今、静かな海の様にここにいる。その事を自分は決して忘れてはいけないのだと、知世は思った。

「帰ってきたら、まずお前に言う事がある」
だから待っていろ、と大きな手に目の前を覆われて、その小さな闇の中で知世は静かに涙を零した。







120328(初出090419)
……………………
…この二人の関係も好きです。


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