ワガママナコドモ
多分、これは衝動というやつなのだろう。
お互いの顔が近すぎて視点が合わせ辛い。
コムイの顔をこんな近くで見たのは初めての事だ、などと思考を別に飛ばしている内に、瞬きが見えた。はたり、と音が聞こえてくるような睫の動きに暫し見蕩れていると、コムイの口が遠慮がちに開いたことに遅れて気付く。
「神田君・・・?」
間近で呼ばれた自分の名前に背筋をぞわりと何かが這ったような気がして、コムイの手首を押さえつけている自分の手に、また僅かに力が込められた。
きっかけは、今となってはもう何でもよかった。
自分の感情を正当化出来るなんて事は傍から無理な事であると諦め、茫洋と過ごしてきた日々の中で、しかし埋もれることなく寧ろ芽吹いてしまった想いの先に彼を見つけてしまったのは、果たして誰のせいであったのか。
逃げていたのは間違いなく、かといって正面から相対することで変化が起きるかと言えば、否と頭を振るしかない。
自分は何時からこんなに意気地ない人間になったのだろう。任務に明け暮れる事で一時でも彼を忘れてしまいたいと願い、そして終わった後には無意識に彼に会いたいと望む。
コムイは自分の世界に色を与えた人間だった。
人のぬくもりが愛おしい事も、さり気無い言葉が慈雨のように心に沁みる事も、飾り気のない笑顔が胸を打つことも、コムイを通して神田は知った。
触れたいと、欲しいと、初めて願ったのはそう遠いことではなく、身の内で燻り続ける感情に抑えがきかなくなりつつあったからこそ、意識して彼を遠ざけようとしていたのだ。無くしてしまうには惜しいと素直に心が頷くくらいに、居心地のよい彼との関係を壊さない為に。
しかし、自分の中ではもうとっくに飽和していたらしい。
決壊の切欠は些細なものだった。
長期の任務が完了し久々に帰還した自分を迎えたコムイの笑顔と『おかえりなさい』の言葉に、自分の中の獰猛な獣が牙を剥いた。
その手を掴み、強引に自分の部屋に連れていった。扉を乱暴に閉め鍵をかけて、訳が解らないと困惑した顔をしたコムイのその細い手首を掴んでベットに押し倒した。
そして冒頭に至る。
別に自暴自棄になった訳でもない。
ただどうしようもなかった。
どうしようもなく、彼が欲しかったのだ。
一言も言葉を発せずに見下ろしている自分を、コムイは静かに見つめた。目前の嵐を前にどう対処しようか悩んでいるのだろうか。その闇色の瞳に自分はどう映っているのだろう。
「神田君」
もう一度、コムイが自分を呼ぶ。
その声だけでどうにかなってしまいそうだと思う。
汗が頬を伝っていくのが解る。ここまできて自分はコムイをどうしたいのだろう。押し倒したきり動かない自分は誰が見ても滑稽だ。だが離せない。この手を離そうとは微塵も思えない。
更に自分の力を手に込めたせいで、コムイの顔が僅かに顰められた。
「神田君、手、離して。僕は逃げないから」
コムイが話す言葉が脳に伝わるのに僅かに時間がかかった。
逃げない?何故?
「お前、何を言っている?」
「そのまま、だよ。僕は君から逃げない。だから、離して?」
やわらかいいつものコムイの笑顔。それを見た瞬間、あれだけ力を込めたまま離せなかった自分の手がするりと解けた。
それから間を置かずにコムイの腕が自分の背に回されて抱きしめられた。
何かの薬品とインクの匂いに混じるコムイの空気。
呼吸が止まった。
「僕を、どうしたいの?」
解らない。
ただ、離したくない。
自分だけを見て欲しい。
「お前が、 」
喉から手が出るくらいに、
「ほしいんだ」
まるで幼い子どもの言い分に呆れるでもなくコムイは笑った。
「我が侭だね」
「五月蝿い」
「ね、神田君」
不貞腐れてコムイの首筋に顔を埋めた自分に、コムイは優しく囁いた。
「きみがすきだよ」
思わず起き上がった自分にコムイはそのままの体勢でもう一度言った。
「すきだよ」
自分が今、どんな顔をしているのか解らない。
だが確実に言える。
「僕、君のそんな嬉しそうな顔、初めて見た」
この喉を掻き毟って叫びたいのは、どうしようもない歓喜であると。
090328
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…魔がさしました。