煙が眼に染みる


ふと顔を上げれば、今この部屋に居る人間が自分だけだという事に気付いた。また研究に没頭していて周りとの会話が途切れていたらしい。机の隅に勤勉な班長から先に上がる旨を告げるメモが置いてあった。無理をしないようにとさりげなく付け加えられた一文が彼の人格を浮き上がらせる。

「優しいんだから、リーバー君は」

思ったことをそのままに零した言葉は、誰もいない司令室に静かに落とされた。
今日は久し振りに仕事に目途がついたので、班員たちをそれぞれに当直事に分けて休息を取らせたのだ。戦いに明け暮れる日々の中で久しぶりの休めるという事に皆の顔がほんの少し緩んでいたのを申し訳なく思った。先の見えない過酷な状況の中で、皆本当によく頑張ってくれている。その事を一番知っているコムイは、だから皆が休めるというこの貴重な時間は、彼らにとっても自分にとっても有難いことだと思った。自分にも休むように伝えてくれた皆の顔が浮かんで頬が緩んだ。そして脳裏に映る最愛の妹の顔。

「リナリーも、もう少ししたら帰ってくる・・・」

壁に掛けてあるカレンダーの印は、彼女が任務を終えて帰還する日付を教えてくれた。

「朝まであと3時間か・・・」

今から部屋に戻るのも億劫だと考えたコムイは、普段から仮眠用に使っているソファに近づいた。彼の妹や、班長、果ては婦長や料理長にまで口を酸っぱくして部屋でちゃんと寝ろと言われているコムイだが、懲りずにちょくちょくこのソファで眠っている。その都度怒られるのだがあまり懲りていないので今度コムイには内密にこのソファを隠してしまおうかとリナリーを筆頭に計画が建てられていることは彼に知る由もない。

「おやすみ・・・」

誰にともなく呟かれた言葉を最後に、コムイの意識は深く沈んだ。












夢だと、分かった。
自分が今立っているこの場所が、現実には有り得ないところであったからだ。
コムイは砂浜に立っていた。
見渡せるくらいの白い砂浜だけの小島の真ん中で、前方に見える果てのない海原を呆然と眺めていた。

「・・・何で、ボクこんなところにいるんだろ・・・」

夢だと分かっても、だからと言って直ぐに覚めるわけでもなく、ひっそりと溜息と共に呟いた。
それにしてもと、改めて周りを見渡してみる。頭上に広がる空には雲ひとつない。浜辺は穏やかに波打つ海が、寄せては返している。海と空の青さが目に眩しくて、コムイは静かに瞳を閉じた。

「刺激が強い、なあ・・・」

「せっかく用意してやったのに、見ないって選択はないんじゃねェか」

この鮮明な世界に自分一人だと思っていたところに、いきなり他者の声が聞こえてコムイは急いで眼を開けた。そして気付いた。考えれば分かるような事だ、彼以外に自分にこんなことを出来るような人物が浮かばない。

「クロス…」

コムイが諦めと傍観と共に呟くと、その名を持つ男は口を歪めるいつもの顔で笑った。

「いい眺めだろう」

人を食ったようなその顔が忌ま忌ましい。自分を無理矢理こんな世界に引き込んでおいてなんて言い草だと、コムイは溜息を飲み込んだ。流されては相手の思う壷なのだ。

「お久しぶりですね、元帥」

答えの代わりに嫌味で返してやる。実際久しぶりなのだ、彼に会うのは。最後に見たのは半年前だったか。記憶の中の彼を思い浮かべようとしたが、目の前にはそんな記憶が吹き飛ぶくらいの鮮やかさを纏った本人がいる。

(ああ、質が悪い)

軽く目眩のする自分をコムイは自覚した。どうしたって越えられないそんな次元に彼はいる。それを悔しいと思いこそすれ、羨ましいと思ったことはない。彼は彼であるからこそ、なのだ。
そんな人間が、何故自分に構うのかコムイには分からなかった。

「何故、こんな夢をボクに?」

内心の感情を理性で押し込めてコムイはクロスに向き合った。

「…何時かの約束を果たしただけだ」

コムイの言葉に少し眼を張ったクロスは、 先程までの不遜な態度から打って変わり、どこかふて腐れたように呟いた。らしくないその表情にコムイが首を傾げると、隠そうともせずにクロスは盛大な溜息を吐いた。
「お前がそういう奴だってことは分かっちゃいるが、なあ」
ったくと一人で不機嫌になったクロスは懐から煙草を取り出して火をつけた。視線の先にクロスの口から吐き出された紫煙が広がる。その光景をぼんやりと眺めていたコムイだったが、不意に目の前の男とのいつか交わした会話が頭の奥で蘇ってきた。






『海が見たい、だあ?』
『そう、海。海が見たいかな』
それはただの他愛もない会話の最中にふと聞かれた質問に答えた言葉だったはずだ。その日も司令室にこもりきりでイノセンスの研究を続けていたコムイを無理やり連れ出した男は、自らの部屋のベッドにコムイを投げ込んだのだ。
いわく、『そんな幽霊みたいな顔して机に噛り付いてんじゃねェ』だったか。久しぶりのベッドの感触に張り詰めていた神経が解かれていって、だからか男からの質問に素直に答えることがその時は出来たのだ。
『・・・どこか、ここじゃないどこかに連れて行ってやると言ったら、お前は何処を望む?』
『どうしたんです、急に』
『いいから、答えろ』
『そうですね、・・・そうだな、一度でいいから、海に行ってみたい、かな』
『海?』
『そう、海に』
『・・・分かった』
『何がです?』
『こちらの話だ。いいから少し寝ろ。・・・暫くしたら起こしてやるから』
そういって瞼に優しく掌が下りてきて、その時の自分は久し振りに穏やかな眠りを享受することが出来たのだ。あんな何気ない一言を、こうして時間がたった今、例え夢の中だとしても本当に実行に移してくれたクロスに、コムイは笑った。言った本人が忘れていた事をずっと覚えていてくれるなんて、なんだかこの人の違った一面を見た気がしたのだ。
未だ、隣で不機嫌そうに煙草をふかしているクロスの口元に目をやり、コムイはその手を伸ばした。クロスの咥えていた煙草を抜き取り自らの口に咥え思いきり吸いこみ、噎せた。
「・・・っ信じられない、なんで、こん、な不味いも、の、わざわ、ざ・・・っ」
思いきり咳き込みながら途切れ途切れに言葉を落とす自分に、奪われた煙草の行方を見ていたクロスは今まで見てきたそのどれとも違う顔を見せて笑った。
「お前にゃまだ早かったな、この味が分からんとは」
それは悪戯が成功した子供のように、無邪気で明け透けない顔だった。自分が吸い込み、また吐き出した煙に目を瞬かせたコムイは、滲む視界の中で確かにそれを認めて、胸の中で何かがごとりと、動いた音を聞いた気がした。
「口直しをやろう」
そう言って近づいてきた整った顔に静かに瞼を落とすと、唇に優しく触れる感触がある。
次に目を開いたとき、彼はもうここにはいなく、そしてまた自分はあの書類に埋もれた司令室に戻っていることだろう。だがそれでもいいと思う。僅かにでも自分の中で動き出した感情にまだ目を向けることは今の自分には出来ないと分かっているからだ。
(きっといつか、今度は本物の空の下で、またこの海に連れて来てくれたら、その時は、)
頬を撫でる優しい掌の感触に、煙草の所為という事にして一粒の涙を零した。間近にある人の気配にこのまま海に還っていければいいと、手を伸ばした。







090121
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…クロコムが好きです。もっと殺伐としてる二人もありです。


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