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宴の後(その2)


 同日 一八四五時
   五一二一小隊ハンガー内

「オーライ、オーライ……ストーップ!」
「三番機、整備台に係留用意!」
 整備士の誘導に従いながら、ゆっくりとした足取りで三番機が入庫してくる。右足をいささか引きずりがちなのは、最後のジャンプの後に食らった攻撃のせいだろう。あちこちの装甲版がへこみ、傷つき、左腕には破孔がまるで傷口のように開き、ジョイントと人工筋肉が無残な姿を見せていた。
 それでもまだ傷は軽いほうだったとも言える。
 むしろ割を食ったのは、援護のために突入した残りの二機のほうだったかもしれない。ことに一番機の被害など、一目見て整備士たちが盛大なため息をついたぐらいだった。
「あぁーあ、ボクがせっかく整備したところ、ごっそりやられちゃってるよ。もー、めんどくさいのにー!」
 普段なら単なるわがままとしか聞こえない新井木のぼやきも、この時ばかりは全員の共通認識と化した感があった。
「うう、お、俺の流星号がこんなに傷ついちまって……。なあ、これ直るよな、な?」
「そんなこと言ったってオメーよ、ここまでぶっ壊すこたぁねーだろが」
 何とも情けない声につくづく呆れたといった声とともに、田代がひょいと肩をすくめた。
「仕方ねーじゃねーか! 大体速水があんなに突っ込……」
「シッ!」
 突如田代が滝川の襟首を引っ張った。そこにはウォードレス姿の速水がこちらをじっと見詰めているではないか。
「よ、よう、親友。今日は大変だった……な……」
 口の中が徐々にからからに乾いていくのを感じつつ、滝川は必死に笑顔を浮かべようとしたが、それはあまり成功したとはいえなかった。
 速水は無表情のまま、瞬きもせずに滝川を見つめている。滝川の背中には、まるで蛇ににらまれた蛙のように、嫌な汗がだらだらと流れ始めていた。
 と、ふっと速水が視線をそらせる。
「田代さん」
「お、おうっ? な、何だ?」
「左腕、人工筋肉が破断したみたいなので、交換頼みます」
 いきなり声をかけられてうろたえ気味の田代にはお構いなしに、まるで経文でも読むような声でそれだけ言うと、速水はゆっくりとした足取りでその場を立ち去った。
 完全に姿が見えなくなると、一斉に大きなため息が漏れる。
「遠坂君、三番機からの転属を願い出たって」
「まあ、あれじゃ無理ないわよねえ」
 戦闘から戻ってきた時、遠坂は半死半生であった。
 舞を失ったことには同情するが、だからといって、自殺志願と同義の無謀な調子で戦闘されたのではたまらない。
 皆の噂を取りまとめ、一言で言えばそうなる。
「いや、違うな」
 田代の意外な一言に、周囲の者が一斉に振り向いた。
「あいつ、全くココロが見えねえよ……。絶望ってより周囲のことなんざどうでもいいって感じがしねーか?」
 その言葉は、やや唐突ではあったが、理解できないものでもなかった。幾人かが小さく頷いた。
「でも、どうしてそう思ったんです?」
「お? ああ、なんとなく、だけどな」
 ――同じなんだよ、以前の俺と。
 田代の心の中を、鈍い痛みとともに理解と――共感が走る。
 だが同時に、今の速水は当時の自分など及びもつかないほどの深みにいるであろうこともまた理解していた。今、何を言っても彼の心に届きはすまい。今は待つしかなかった。
 待ったところで解決できるかどうかなど、田代にも分からなかったが。

 一方、こちらは小隊司令室。
「どうするのよ? そろそろ限界なんじゃないの?」
 原は腕を組んで壁に寄りかかったまま善行を見た。その声は以前より更に重い。
 当然というべきか、加藤の姿は室内にはない。ここ数日の間に、人事の話をする際に暗黙の了解となった事項であった。
 確かに原は「理由」ができるまでしばらく様子を見ることに賛成したが、今の状況は予想外だった。速水のかつての戦果に幻惑されたのか、見通しが甘かったと言われれば素直に認めざるを得ない。
――ならばこそ、今修正が必要なんじゃないの?
 善行は顎を手に置きながらしばらく何事か考え込んでいたが、やがて目に決意の色を浮かべながら立ち上がった。
「配置は継続します」
「なんですって!? あなた、私の話を……」
 思わず声を荒げた原を善行は片手で制した。
「もちろん聞いています。だが、どちらにしても今日は間に合わない。そういう意味です」
 原は、拍子抜けしたような表情を浮かべた。
 ――何よ、同じようなことは考えてるんじゃないの。
 皮肉のひとつもぶつけてやりたいところではあったが、それがこの男に通じるとも思えない。無駄な労力の浪費を行なっている場合でもなかった。
「じゃあ、これを渡しておいたほうがいいわね。持ってきておいて正解だったわ」
 善行の機先を制する形で、原は近くに置いてあった書類を取り上げると彼の前に放り出した。その書類を取り上げると、そこには遠坂以下、整備士の士魂徽章授与者氏名と適性検査上の能力評価がリストにまとめられていた。
善行は苦笑しながらページにざっと目を通す。
「分かりました。これは後で拝見させてもらいます。……そういえば、『お客さん』はどうしました?」
「物の道理を理解しない莫迦に付き合う趣味はないわ」
 原は短く答えた。

 先日のことであるが、生徒会連合技術本部より来訪者があった。牧野と名乗る百翼長は凹凸の少ない顔に意味のない優越感をにじませていた。
 彼のやけに耳障りな声を黙って聞いていた善行は、そのまま演説でもぶちそうな牧野を押しとどめ、加藤を案内につけるとさっさと小隊司令室から追い出してしまった。
 その扱いには大層不満を覚えた牧野であったが、気を取り直すとハンガーで、今度は原に向かって持論をとうとうと述べ立てたのだ。
 熊本城攻防戦、いやそれ以前において、本来の予想性能を遥かに上回る高性能と戦果を叩き出した三番機は驚異の的であり、技術本部ではこれを高く評価しているというのだ。
「さすが芝村の懐刀、どういった手管を使われたかは知りませんが見事なものですな」
 粘つくような牧野の声には、皮肉と芝村への反感――そして、かすかな羨望が入り混じっていた。
 ――そりゃ、あんたじゃ士魂号には乗れないわね。まあ、乗れても片道の、一回限りでしょうけど。
 いい加減牧野の独演会に飽きてきていた原は、牧野を上から下まで一瞥するとつまらなそうに言った。
「それで? 何をおっしゃりたいのですか?」
「三番機、いや今はただのスクラップですかな。その機体を回収、調査した――」
「三番機ならそこにありますが、何か?」
 牧野は一瞬硬直し、それから慌てて後ろを振り返った。そこには装甲表面こそ傷だらけだが、修復なった三番機が変らぬ姿で立っていた。
「ほ、ほう、ずいぶんと簡単に修理したものですな。だがそれならなおさら好都合だ。この機体をぜひとも回収の上、調査させてもらいたいものですな」
 階級こそ原より下だが、中央に位置するものであるという根拠のない優越感をにじませながら牧野は傲然と言い放った。
 原が臨界点を突破したのはこのときである。
「お断りします」
「何だと?」
 まさか断られるとは思っていなかったのだろう。牧野は怒りもあらわに原を睨み付け――自分に数倍する鋭い眼光に逆に射すくめられてしまった。
「あなたにはこの機体を復帰させるまでに、どのくらいの労力が必要であったかお分かりになりますか? 多分、分からないでしょう。あなた自身、士魂号を触ってみたことはあるの? あるのならよくも今のような台詞が吐けたものね。第一今は激戦の只中であり、我が小隊にとってこの複座型は数少ない貴重な戦力、小隊の主力です。それを遠慮なく引っこ抜くと? 司令からも直属上官からもそのような命令を受け取っておりません。許可はもちろん取られたのでしょうね?」
 牧野は黙り込んでしまった。先ほど善行には追い払われたばかりだし、準竜師には――鼻であしらわれただけだった。
 現地部隊に強引に横槍を通してしまえば、後はどうにでもあるという甘い目論見はもろくも崩れ去ったのだ。
「百歩譲ってこの機体を持っていったとして、では代替機はあるのですか? 残存戦力で戦えなどと言わないで下さいよ。戦況はあなたが思うより遥かに厳しいんです」
 もともとただでさえ数の少ない士魂号は最近の諸事情で更に補給が難しくなっている。そこへもってきて複座型となればいまや宝石よりも貴重である。そうほいほいと調達できないのを見越しての発言だから、答えられるわけがなかった。
「し、し、し、しかし、これは本部よりの正式通達……」
「それこそ上官を通じて通達の来ないものに正式などといわれても困ります。……お引き取りください」
「……こ、この件については、後ほど正式に抗議させてもらうからな!」
「お好きにどうぞ」
 メインではないとはいえ、士魂号の開発そのものに関わった者の言葉は重い。牧野とてそのくらいは知っていた。
 顔を赤くさせたり青く変色させたりしながら、それでも言うべき言葉を失った牧野は、すごすごとハンガーを引き上げていった。

「あの莫迦が何か言ってきたの?」
「一応抗議の通知が来ましたが、たいしたことはありません。無視してもかまわないでしょう」
 原は頷くと、口元に侮蔑を浮かべながら呟くように言った。
「全く、何を考えてるのかしらね? 確かに一回スクラップになりかけたおんぼろかもしれないけど、私たちが必死の思いで整備してきたのよ?」
 その言葉には、技術者としての抑えようもない自信が満ち溢れていたが、次の瞬間には自嘲じみた笑みが浮かぶ。
「それも、結局彼女を救うことにはならなかったけどね。だからどうってわけじゃない。だけど、三番機を通常の複座型でなくしたのは彼らよ。あの二人の能力と呼吸があってこそ。それがあのざまじゃあね……」
 ――速水君は、それがつらいのかしら?
 原は疑問は口にせず、話題を切り替えた。
「あの連中、中央にも働きかけてるそうじゃない? 何も分からずに装備部隊を増やしたってね……」
 善行もそれについては全く同意するしかなかった。
 原が言っているのは、士魂号に関する生徒会連合の一部方針変更についてだった。
 五一二一小隊の健闘に驚いた連中が、士魂号の再生産と配備部隊の増加を決定したという情報がすでに入ってきているのだ。熊本城攻防戦がそれを決定づけたと言っていい。
 再生産自体は補給の面から喜ばしいように思えるが、彼らはまず新規装備部隊にそれを回していたので、小隊の補給事情はかえって悪化していた。時には露骨なまでに補給を後回しにされることも珍しくはなかったのだ。
 おそらくは、たかだか九州の一小隊――とはいえ芝村の直接配下にある部隊――これ以上目覚しい戦果を上げるのを快く思わないものもいるのだろう。そのような勢力が技術部に働きかけた――そう受け取れなくもない。
 善行が簡潔にまとめると、原の笑みがますますきついものに変っていった。
「そんなことしなくたって、もう心配なんかないのかも知れないのにねぇ?」
 原の視線は、自然とハンガーのほうへと向けられていた。
 沈黙が落ちた。

 速水がロッカールームに入ると、周囲が一瞬しん、と静まり返った。そんなことはお構いなしに彼はずんずんと奥に進むと、もそもそとウォードレスを外していく。
 相変わらず速水の表情は能面のように無表情で、生気というものが何も感じられなかった。
「お、おい、速水!」
 沈黙に耐え切れず、たまらず滝川が声をかけた。速水はのろのろと顔を向けると、滝川を瞬きもせずにじっと見つめている。まるで吸い込まれるような暗さを秘めた瞳に滝川は一瞬言葉を詰まらせたが、無理やりにそれを押し出した。
「おい、いい加減に元気出せよ! ……む、無理かも知れねえけどよ」
 恐らく、彼でなくば発することの出来なかったであろう「激励」も、まるで装甲に弾かれた弾丸のように、今の速水には果たして鼓膜にすら響いたかどうかも怪しかった。
 速水は何事もなかったかのように顔を戻す。
「おいっ! 俺の話を少しは……!」
 ここまで無視されてはさすがに黙ってはいられない。思わず詰め寄ろうとした滝川だったが、いきなりがっしりと背後から肩を掴まれた。
 振り向けば、若宮が黙って首を振っている。戦闘と、そして戦場で戦友を失うことについては最も深い理解をもつ若宮の、何物も言わせぬ迫力が、滝川の口を閉じさせた。
 静かになったのを確認すると、若宮は速水がいつの間にやら手を止めて、自分を見つめているのに気がついた。相変わらずほとんど瞬きもしないように思えるその視線は、蒼い深淵を思わせるかのようであった。
 速水は、別に文句も礼も言うでもなく、再び自分の作業に戻る。やがて、着替えまで済ませた速水が部屋から出て行くと、若宮はもう一度小さく首を振った。

 このように大いなる不安要素を抱えることとなった五一二一小隊ではあったが、戦争は別にそんな事情など斟酌してはくれない。いかなる理由があろうとも、部隊として機能する限りは彼らは戦いつづけなければならぬ。
 なればこそ、三番機を遊ばせる余裕などどこにもなかった。
 だが、ガンナーを茜に交代して再び出撃をしてみたものの、速水の機動は相変わらずであり、これに茜が突っかかっていく一幕もあった。
そのときは周囲が仲裁に入ることでかろうじて事なきを得たが、その間中、まるで他人事のように事態を眺める速水に対して、誰もが不満がないわけではなかった。
 ――速水はあの時、芝村と一緒に死んでしまったのだ。
 誰ともなく、そんな話がひろまり、そして、あえてそれを否定する者もいなかった。
 さっさとその場を離れようとする速水に、脇から森がそっと声をかける。
「あ、速水君。そ……その、お疲れ様でした……」
「……ああ、ありがとう」
 速水は森をちらりと見ると、全く感情のこもらない声でそれだけ言い、奥に姿を消した。
 今ではそれほど隠すこともなく速水に接する森。最近会話らしい言葉のやり取りをするものなど、森の外を合わせても片手の指ほどもいはしなかった。
 森は、小さくため息をつくと、三番機のチェックに入る。
 それについては、原は何もいわない。
「今の彼には無駄だと思うけどね……。まあ、無駄なりにやってみるのもいいでしょ」

 その夜。
 報告書を眺めながら、善行は、ひとつの決断を下した。
「加藤さん、整備班長を呼んでくれますか?」
「あ、はい……」
 うすうす何かを察しているらしい加藤は、それ以上何も言わずに司令室を出て行った。
 少しして、入れ替わりに原が姿を見せた。
「お呼びということだけど、何かしら?」
 そう言いながらも、原には用件がなんであるかは大体見当がついていた。
「例の案件を実行します。調整願います」
「……分かったわ。準備は出来ていますので、発令よろしくありましょうか?」
 いささか堅苦しい物言いに苦笑しつつ、善行もその芝居にあわせることにした。
「発令します」
 原は、面白くもなさそうに敬礼すると、足早に小隊司令室を後にした。連絡や調整すべきことは山ほどある。
 一人残された善行は、司令席にどさりと腰掛けると、組んだ腕に顎を乗せた。
 ――ひょっとすると、僕は小隊を崩壊させようとしているのかもしれない。
 いずれが正しい答えなのか、善行にも分かりはしなかった。

 一九九九年四月一三日(火) 〇七三〇時
   小隊司令室

 この日の早朝、皆が登校して来るよりもはるかに早い時間、プレハブ校舎前に速水の姿があった。かすかに朝靄が立ち込める中、覇気のない足取りで速水は小隊指令室に向かう。昨夜遅くに多目的結晶に届いたメールがそれを要求していた。
 速水は、自分が何のために呼ばれたかについては大体察していた。こんな時間に呼ばれる用などひとつしかあり得ない。
 ――随分と、遅かったな。
 むしろそれが正直な感想であった。己が何をなして来たかについては十分承知していたが、それ自体もうどうでもいいことであった。なにもかもがうつろで、空しく、自分とはまるで無関係なものにしか感じられない。
 今の速水は帆を失った帆船のようなものかも知れなかった。
 何を思うのか判然としない表情のまま、速水はドアをノックした。中から小さないらえがあった。
 小隊司令室の中では、善行が司令席に座り、彼を待ち構えていた。いつもと変わらぬ悠揚迫らざる態度であるが、目の下にかすかにくまができていた。
「早朝からご苦労様です。さて、来てもらったのはほかでもない。速水千翼長、君を三番機パイロットから解任します。……理由は分かりますね?」
「……はい」
 善行は針のように目を細めると、鋭い視線を速水に走らせた。が、何物をも射通してしまいそうなその視線も、速水の表面で弾け、霧散してしまうかのようである。
 なおも数瞬その姿勢を崩さなかった善行ではあるが、やがてかすかに息をつくと、極めて事務的な口調で後を続けた。
「よろしい。それでは君は今後一番機整備士となってもらいます。後任に引継ぎをしてください。新部署には話を通してありますから、昼休みにでも打合せを済ませておくように、いいですね?」
「承知いたしました」
 まるで機械人形が喋っているような感じだった。
「よろしい。……それではもう帰っていいですよ。ご苦労様でした」
 速水は敬礼すると、ゆっくりとその場を立ち去った。
 ドアを出る直前、善行が声をかける。
「ああ、三番機の後任は、パイロットが田代さん、ガンナーは茜君です」
 速水は返事もせずに出て行った。
 善行はしばらく腕組みしたまま黙っていると、手元の書類に小さくサインをした。

 同日 一三〇〇時
   五一二一小隊ハンガー

「……説明は以上です。何か質問は?」
 昼休み、速水は新任の三番機パイロットとなった二人に対して説明を行っていた。だが、声には抑揚がなく、視線は二人ではない、何処か遠くを見ているように定まりがなかった。
 茜が挙手し、まるで噛みつくように質問するのに対して、まるでのれんに腕押しといった態度だった。
「こんなところでいいかな?」
「ああ、今のお前が全く頼りにならないって事だけは良く分かったよ。……ふん、案外弱い奴だったんだな」
 茜の遠慮のない批評にも、速水はうつろな笑みを返すだけだった。用は済んだと見た彼は、無言でその場を立ち去った。
「……ありゃ、いよいよ重症だな」
「ふん、それまでの奴だったんだろうよ。見損なったな」
 茜はそう吐き捨てたが、心の奥底にはいささか割り切れないものが残っていた。常に共にいるべき者をある日突然に失うことについては、彼とて覚えがない訳ではなかった。
 ――あんまり、僕を失望させるなよ?
「まあいい。準備にかかるとするか……いくぞ」
「……悪ぃ、俺ちょっと用事を思い出したから」
「え? おい、どこへ行く!」
「すぐ戻る!」
 そういうと田代は、脱兎のごとく消え去った。
「くそっ! この忙しい時に……!」
 なおもしばらく悪態をついていた茜だったが、仕方なく三番機の方へと足を向けなおした。これから茜には三番機のメモリバンクにパーソナルデータを入力する作業が待っているのだ。今の三番機からは速水と舞、二人のパーソナルデータは完全に削除されていた。

「お、おい速水、ちょっと待てよ、オイ!」
「……?」
 怪訝そうな表情とともに速水が振り返ると、田代が息を弾ませながらやってきた。見つめ返されると、どうしたものかと瞬間視線を泳がせたが、やがて覚悟を決めたように少々声を緊張させながら話し始めた。
「そのな、オメー、パイロット降ろされたわけなんだけどよ、 あんま気にすんじゃねえぞ? 俺と違ってオメーはエースって奴なんだからよ。そのうちまた戻れるさ。なあ、速水」
「……?」
「オメーの事、何か分かるなんては思わねえけどよ、その……。つらかったら、パーッと何かしたほうがいいぞ? 例えばう、歌を歌えよ。俺なんかはちっと負けてるな、と思った時に歌ってるとよ、何かこう段々と負けてねえって気がしてきてよ……」
 田代の声も表情も、段々とあやふやになっていた。
「だからこう……お、おいっ、テメー何笑ってやがんだ!?」
 速水は冷笑とも違う、何処か寂しげな笑みを浮かべていた。
その瞳に胸騒ぎを覚えつつ、田代の右手は反射的に動いていた。鈍い音が響き、速水がその場に倒れ込む。
「ば、莫迦野郎、人がせっかく心配してるっていうのに……、もう知らねぇよ、勝手にしやがれ!」
 定かならぬ理由で顔を真っ赤にしつつ、田代はクルリときびすを返すとあっと言う間に消え去ってしまった。速水は上半身だけ起こした姿勢のまま、なおも笑っていた。
 ――全く、田代さんらしいや。
 だが、笑いながらも、頬には熱い涙が滂沱と流れ落ちていた。田代のどうにも不器用なところが何かを思い出させたのかもしれない。
 ――田代さん、あの歌に出てくる「わたしとあなた」の「あなた」は僕にはもう……いないんだ。
「いないん……だよ」
 声はいつの間にか泣き声に変わっていた。

 こうして、司令権限によりパイロットの権限をはく奪された速水だったが、その行動が何か変わったという訳ではない。
 相変わらず何事かを積極的に行うという訳でもなく、人と交わろうという姿勢も見せない。かと思えば、仕事の手も抜くわけではなかった。
 ときどきふらりと姿が見えなくなり、しばしの間戻ってこないということがあったが、それについては誰も何も言おうとはしない。速水の心の亀裂を、誰もが感じ取っているからだ。もっとも、それを修復しようとする試みはとっくの昔に放棄されている。
 ――永久要塞に竹槍で突撃するようなむなしさを味わうのはもうたくさんだ。後は時間に任せるしかない。
 それが、大半の者の偽らざる感想であった。
 そういう時、速水は大抵女子高の屋上にいた。ここが一番邪魔をされない。
 周囲の景色をぼんやりと眺める彼の手には、例の髪の毛がそっと握りしめられていた。

 髪の毛は、微風にあおられて小さく揺れていた。


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