* | 次のページ
[目次へ戻る]

暁闇(その1)


 今日があるからといって、明日も同じである保証はない。
 僕は、それを知っているつもりだった。
 少なくとも理屈では。
 だけど――。





 一九九九年四月三日(土)〇六〇〇時
   熊本市

 夜が、明けようとしていた。
 ぬばたまの闇の中に、ほんのかすか色があせ始め、やがて東の空に白みが走る。
 薄皮を剥ぐように闇が後退し、天を占めていた星々も徐々に退場を開始していく。空気中に力が満ち、全ての物事が緩やかに動き出そうとしていた。
 遠くで牛乳配達の自転車が、戦時でも変わらずに瓶をかちゃかちゃ言わせながら走り去っていく。
 やがて、最初の曙光がかすかに残っている闇を切り裂いた。南の空に筋雲がゆったりと流れている。
 今日もいい天気になりそうだ。
 どこかで、雀の鳴き声が聞こえた。

 同日 〇八〇〇時
   熊本市内 とある路上

 まだ人影もまばらな路上に、道を急ぐ少年の姿があった。いささか独特の癖のある髪の毛が、あるかなしかの風に小さく揺れている。やがて、少年――速水は、前方を行く人影に気が付いた。
 そして、頭にポニーテールが揺れているのに気がつくと、うれしそうに駆け出してたちまちその人影に追いついた。
「おはよう、舞!」
 舞と呼ばれた少女は、クルリと振り向くと本人言うところの「ヘンな顔」をしながら口をもごもごとさせている。
「ううう、うむ。その、なんだ……おはよう、だ」
 挨拶とはとてもいえないが、最近はこれが二人の「挨拶」となってきている。放っておいたら、この二人はこの世の終わりまで同じことを繰り返すのではなかろうか?
「あ、厚志、我らに挨拶はないと何度言ったら分かるのだ?」
 いまだ呼びにくそうに名前を呼ぶ。頬がうっすらと赤い。
 お互いに名前で呼ぶ。そう取り決めが交わされてから、ようやく一週間が経つかどうかといったところだ。慣れないのも無理はない(舞は最初から名前で呼ぶように言っていたが、それでもいまだ慣れていない)。
「ん? だーめ、朝は挨拶をするものだよ。その方が気持ちいいじゃない」
「だ、だが……」
 人前で挨拶を交わすなど、何となく恥ずかしい。
 なんてことは間違っても絶対に口に出来ない舞であった。そこで戦局の打開を図るために、少々話の矛先を変えることにする。
「そ、そういえばだな、昨日言っておいた件については考えたか?」
「ああ、反応速度向上の件でしょ? うん、一応考えたけど……」
「そうか、それでは聞かせてもらおうか」
 いくらか常態に復した態度で、舞は腕を組みながら返事を待った。
 ――やれやれ、相変わらずだなあ。もう少しこうなんて言うのか、自分で言ったように「気楽」になればいいのに……。
 そうは思ったものの、舞の声が耳に心地よいことは変わりがない。彼女の声を聞くためなら、彼は戦術論だろうが世界征服計画だろうが練り上げ披露したことであろう。
 速水は、昨日ざっと考えた反応速度向上の方法とその成果について、手短に説明してみせた。
 舞は歩きながらそれを聞いたが、不明瞭な部分にはすぐさま反論が飛び、速水がよどみなく答えると頷き、先を促した。
 状況が変わったのは結論に差し掛かった時だ。
 最後の数語のところで眉がかすかに上がる。そして一通り聞き終わった後、舞はゆっくりと速水のほうを振り向いた。
「なるほど、そなたの言いたい事はよく分かった。が……、速度向上はこれ以上は必要ない、とはいかなる理由からだ?」
 いい加減な答えだったら許さんと言いたげな舞だったが、速水は穏やかな表情のまま答えた。
「これまでの戦闘結果から考えて、これ以上反応速度を上げても、今度はこっちが追随しきれない可能性が高いと思ったからね。それに、特定の能力だけが突出することは望ましくないと思う。これ以上性能を上げるといっても、労力ばかり増えるわりには成果は見込めない。それならまだ向上が望める他の性能を上げる方がバランスもいいし、想定できるあらゆる事態に対応しやすくなると思うんだけど……どうかな?」
 言うだけの事を言うと、速水は視線をほんの少し下に落とした。二人の歩みもいつの間にか止まっている。
 速水がベッドの中で横になりながらたどり着いた結論とはこれであった。
 ……本当に真面目に考えたのかいささか疑問もなくはないが、少なくとも本人は真剣である。
 どんな場合にも言えることかもしれないが、単一性能だけを特化した場合、それで対応できる状況なら比類ない力を発揮できるだろうが、万一その状況が崩れた場合には、思わぬところで足をすくわれるかもしれない。
 戦場は千差万別であるし、三番機はいまや誇張なしに部隊の要と言っても差し支えない。そんな彼らがあっさりと倒れるわけにいかない以上、どのような状況にも対応出来ることを考えるべきではないか――そう、思われたのである。
 もちろん、具体的な技術論などは舞に及びもつかないから、そのあたりは方向性を示すぐらいしか出来なかった。今のところはここまでが彼の示せる精一杯である。
 ――もうちょっと、具体的・技術的な裏づけが取れるようにならないとね。
 彼女の機嫌を損ねたかと恐る恐る視線を上げた速水は、意外なものを見ることになる。
 舞は、かすかに目元を緩めて、あまつさえ微笑さえ浮かべているではないか。
 速水が半ば口を開いたまま呆然としていると、彼の求めていた声が耳朶を打った。
「よく見た。どうやらそなたは私が思っている以上に成長しているらしいな。自機のことだけを考えることはそう難しくはない。だが、小隊、つまりチーム全体の中で己の役割を理解し、己が何をなすべきかということにまで思いをはせることが出来る者は決して多くはないのだ」
「そ、そうなの?」
「そうだ。――なんだ? 厚志、そなたはもっと自分に自信を持て。自制と自律は大事だが、それも時と場合によるぞ。私の見るところ、そなたの体と頭脳はもっとそなたに信頼されたがっているようにも見えるのだがな。ともあれ、今回はそなたの意見を尊重することにしよう」
 舞は、朗らかとさえ言っていいほどの声でそう断言した。微笑はやがて花が咲きこぼれるような笑顔に変わる。
 速水は、告白の時ですら見たことのない表情に思わず心臓が飛び跳ねるのを自覚した。頭の中が真っ白になってしまい、想いを言葉にしたいのだが、舌がまるで鉛にでも変じたかのように動かない。そんな中、血液が頬に集まっていくのだけははっきり分かった。
「ど、どうした? そなた、熱でもあるのか?」
 その声に速水ははっと我に返った。意外なほどの近距離に舞の心配げな表情を発見し、らしくもなくうろたえてしまう。
「い、いや、その……大丈夫、大丈夫だからっ!」
「そうなのか?」
 きょとんとした表情で見返され、その表情にまたどぎまぎしながらも慌てて頷いた。
 ――全く、舞こそ自分にもっと自信を持ってもいいとは思うんだけどね。もっとも、それじゃ他の連中まで舞の魅力に気づいちゃうから、今のままでいいんだけど。
 結構、自分勝手な事をほざいている奴である。
 無意識に触ったポケットの中身に気がつき、速水はつとめてさりげない口調で言った。
「と、ところで、今度の日曜のこと、覚えてるよね?」
 ……全然さりげなくない。
「今度の……? !! そ、そそ、それはもしや……」
 速水が頷くと、舞は満面を朱に染めた。その素早さと来たら、リトマス紙でもかなうまい。
 告白後、初めてのデートの約束であった。
「大丈夫、だよね?」
 舞に悪いとは思ったが、速水は星さえも浮かべかねない、かすかに潤みを帯びた瞳で舞の顔を覗き込んだ。彼女の顔の朱が微速度撮影並みのスピードで濃くなっていく。
「わ、わわわ、分かっておる! だ、だからそう何度も確認するな……。そ、そんなことを人前で……」
「人? 人って、誰もいないけど?」
 速水はことさらゆっくりと周囲を見回して見せた。舞の顔はそろそろ完熟トマトに勝てそうだ。
「そ、そういうことではないっ!」
 語気荒く答える舞の瞳を、速水は改めて覗き込んだ。舞はうっと声を詰まらせたまま動かなくなる。唇を真一文字に引き締め、額には汗の玉が浮かんでいた。
「大丈夫、なんだよね?」
「…………うむ」
 小さく頷く舞の手を、速水はそっと握り締めた。
 舞の狼狽は極に達した。
「あああ、厚志っ!」
「あはっ、よかった」
 軽く手を引くと、とうとう舞はすっぽりと速水の腕の中におさまってしまう。

 ぼんっ!
 
 あ、今度は確かに音がした。
 そんなことにお構いなく、速水は舞をそっと抱きしめる。
 舞はといえば、ストーブの上にかかったやかんよろしく、頭から湯気を立てるばかりであった。
 少しして、速水がそっと身体を離すと、舞は崩折れそうになる自分の足を支えるのが精一杯であった。一方の速水といえば、けろりとした表情でさっさと走り出す。
「さっ、そろそろ行こう、遅刻しちゃうよ」
「だ、だだ誰のせいだと……! こ、こら厚志、待たんか!」
 よろめく足を踏みしめながら後を追いかけだす舞を振り返りながら、速水は実に素直な笑顔を返した。
 ――な、なぜあやつはあんなことをしながらあんな笑顔を出来るのだっ!?
 彼とて胸が高鳴っていたことなど、舞は知る由もなかった。

 同日 同時刻
   尚敬高校女子校校舎 第六二高等戦車学校職員室

 学校とはえてして賑やかなものだが、この時間にはまだ静けさの方が優勢である。学兵として訓練や整備に明け暮れる子供たちがいない今は、静粛な空気がそこここに漂い、しんと静まり返った教室は、再び動き出す時までしばしの休息を味わっているかのようだ。
 五一二一小隊が間借りしている尚敬高校も、今はまだ同じ空間の中にたたずんでいた。
 校舎の一部は第六二高等戦車学校の施設として提供されているが、一番外よりの隅のほうに職員室がある。
 だが、三人分の机がようやく入って、あとはロッカーと隅っこに給茶台があるだけのここを「職員室」と言い張るかどうかについては少々議論が必要かも知れなかった。
 まあ、必要なものが必要最低限揃ってはいたので間借り人としては文句も言えまい。こんな即席学校など、熊本にははいて捨てるほどあった。
 それに、口には出さね、それほど長いこと使われると思っている者はさして――大変不本意ではあるが、間借りしている方にも――多くはない。
 そんな現実はさておき、今職員室には一人しかいなかったので、狭さについて文句を言うほどではない。
 その一人、坂上は整備概論を読んでいた。まだ少し時間はある。授業範囲をさらっておく時間はあるはずだった。
 傍らには自分で淹れたとおぼしき茶が置かれ、ほんのりと湯気を上げている。坂上は窓の外にちらりと目をやるとその茶を一口含み、かすかに眉をしかめた。
「自分で淹れた茶というのは、味気ないものですねえ」
 そうはいうものの、わずかに訪れている穏やかな時を、彼は彼なりに楽しんでいた。
 子供たちを戦争の道具に仕立て上げるという役目については、いろいろと思うところはあるものの、それについて意見を述べるのは軍人、それも一兵士の役割ではない。
 彼に出来ることは、せめて彼らが白木の箱に入れられることなく、自らの足で立って家に帰る事である。
「元の生活自体がなくなってた、なんてことにならなければいいんですがね……」
 坂上は軽く頭を振って、ろくでもない考えを考えを頭から追い出した。そうならないためにも教えることがたくさんあるはずだった。
 更にページをめくろうとした時、コールが職員室内に響く。坂上の顔つきが少し変わった。この音は軍上層部直通だ。
 ここへそんな通信をしてくるのは一人しかいない。液晶パネルのスイッチを入れ、受信ボタンを押した。
『俺だ』
 現れたのは、予想通り芝村準竜師であった。
「おはようございます。今日は……」
『挨拶はいい。用件に入るぞ』
 いつもの口調の準竜師ではあったが、その口から言葉が漏れると同時に、坂上の全身に緊張が走った。
 しばらくの間、かなり細かい指示まで含めた伝達事項が告げられたが、おそらく詳細は後ほど文書で届けられるだろうから大した問題ではない。これについては、最初の数語だけ聞けば事足りた。
『……以上だ。HRで即時通達せよ。ではな』
 通信が切れた後も、坂上は動くことが出来なかった。
 数秒間暗くなった画面を眺めていた彼は、本鈴が鳴っていることに気がついた。数秒間と思っていたら、実際は結構な時間画面とにらめっこをしていたらしい。
 坂上は頭を軽く振ると、、おもむろに職員室を後にした。
 ドアをくぐる時にはその表情はいつもと変わらなくなっていたが、ただ、口元だけは固く引き締められていた。

 同日 〇八四五時
   第六二高等戦車学校プレハブ校舎 一組教室

 チャイムが校内に響き渡る。
 本田はいつも通り、本鈴に遅れること約三分でプレハブ校舎の階段を登り始めた。
 もちろんわざとである。
 彼女が顔を出せば、今日もまた余裕のない一日が始まるのだ。わずかな時間でも心構えのたしになれば……。
「ま、俺には似合わねぇって言われそうだな」
 いささか苦笑混じりに呟くと、本田はドアをひき開けた。
 彼女の配慮は確かに役に立った。が、教室を一目見たとたんかすかに眉根がつりあがる。
 全員きちんと席に着き、本田の来るのを待ち受けていたが、どこか雰囲気が違っていた。
 一言で言えば、だれて感じられたのである。
 ――無理ぁないわなぁ。
 本田は心の中でため息をついた。
 昼は授業(座学や格闘訓練)、夜も訓練と整備、そして時には出撃というハードな状況では、正規の兵士でもなかなかきついものである。いわんや即席兵士の学兵においてをや。
むしろ彼ら・彼女らは少ない時間で良くぞここまでやってきたと言ってもいい。だが疲労は少しずつ、確実に蓄積を続けているようである。
 彼女はそのことを痛いほど感じていた。軍隊の中で一番重要であると同時にもろい「部品」は人間であるのだから。
 できることなら休ませてやりたいのが人情ではあるが、それでは教官役は勤まらない。
 本田は眉を更に急角度にするとつかつかと教壇に歩み寄り、じろりとみんなをねめつけるとバシン! と机を叩いた。
 マシンガンを使わないのがせめても、である。
「何だ何だてめえら! 朝っぱらからグデーっとしてんじゃねえよ、気合入れろ気合!」
『はい、教官殿! 申し訳ありません!』
 瞬間的に全員が背筋を伸ばし、同じ言葉を唱和した。長続きはしないだろうが、先ほどまでの雰囲気も払拭されている。
 この一ヶ月ですっかり馴染んでしまった気合注入法である。
 何となく苦々しさを感じつつ、本田は雰囲気を変えるために務めて明るい声に切り替え、話を続けようとした。
「おーし、それじゃあHRを始めっか……」
「すみません、今回は私が直接話します」
「おわっ? さ、坂上先生?」
 話の腰を折られて何かと振り向けば、そこには二組にいるはずの坂上が立っていた。サングラスのために表情は分からないが、額にかすかに汗がにじんでいる。
「な、何です一体?」
「すみません。とりあえずこちらで話し終ったらすぐ向こうに行きます」
 本田の問いには直接答えずに、坂上は生徒たちのほうに向き直った。
「先ほど、九州中部戦線の全軍に指令が下りました。最重要命令コードです。幻獣の正体ともいうべき幻獣のオリジナルが眠る古代遺跡が、熊本城の地下で発見されました」
 言葉が脳に達し、理解されるまでにほんのわずかなタイムラグがあった。そして徐々に教室内に声にならない驚愕が広がっていった。
 今までその正体すらはっきりしないとされていた幻獣の、よりにもよってオリジナルなどというものがあると言われて、驚かないわけがなかった。
「本当……ですか?」
 善行が眼鏡を直しながら、みんなを代表するようにゆっくりと訊ねた。
「はい。かなり大規模な、ね。なんであそこに古代の山城があったか、学者先生の謎も解けたというところです」
 坂上は黒板の方を向くと、何か書きつけ始めた。
「基幹部隊からは我が小隊以下一〇個小隊が、それに打撃部隊として各校の独立部隊から合計二個大隊、周辺警戒部隊におなじく一個大隊……」
 普段聞かない部隊編制が次々に挙げられていく。坂上はここでちょっと言葉を区切った。
「それに自衛軍の各部隊がこれを防衛するために緊急配備されることとなりました」
「基幹部隊の一〇分の一に、自衛軍もですか?」
 一〇個小隊といえば二戦区を空っぽにするに等しいし、独立部隊に至っては、三個大隊もの戦力を抽出するためには、熊本県の半分から戦力をかき集めなければならないだろう。
 それに、そもそも疲弊著しくて再編中、ましてやいまや宝石よりも貴重なはずの自衛軍まで引っ張り出そうというのだ。普段なら常軌を逸しているといわれても仕方がない。
「必要なら半分を突っ込むことになるでしょう。今回は、それだけの価値があります」
 坂上は、この作戦の重要性を一言で要約して見せた。
 教室内にざわめきが走る。
 これは防衛戦とかそういうレベルの話ではない。総力をあげ力の限り戦う大戦闘――そう、「決戦」だ。
 それが感じられたためか、異常なまでの沈黙がそこにはあった。いまだに状況を理解しかねている者、額に汗を浮かべている者、かすかに身体を震わせる者など、各自の反応はさまざまであったが、それをあっさりと無視するかのように坂上は続けた。
「明日の早朝から警備に入ります。本日の授業は全部休止、戦闘準備を開始してください」
 そのまま坂上は足早に教室を立ち去った。
 返事はなかった。

 同じ情報はほぼ遅滞なく全参加部隊――いや九州全軍に通知され、時間差と程度の差こそあれ、一様に驚きを持って迎えられることになる。
 後の史家は、この瞬間をもって「熊本城攻防戦」が勃発したと断言した。

 同日 〇九三〇時
   五一二一小隊ハンガー内

 しばらくして、部隊は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。招待のメンバーは教室のドアを蹴破るように次々と飛び出していくと、それぞれの持ち場に散っていった。
 明日の朝出撃となれば、恐らく今夜は眠る暇もない。
 ハンガーの中は一足先に戦場と化していた。原は一階中央に陣取ると、矢継ぎ早に指示をくだし始めた。
「森さんは資材在庫をリストアップ! 特にアビオニクス系を確認して!」
「はいっ! うわぁ、大変だ、急がなくっちゃ!」
「士魂号全機、優先整備個所を速やかにチェック、各機担当の責任者は速やかの報告のこと。遠坂君、人工血液の透析準備を取りまとめなさい。田辺さんは保存庫の中の人工筋肉並びにアビオニクス系の在庫チェック」
「は、はいっ!」
「茜君は武器弾薬類をフルチェック、特に誘導系兵器の安全装置は特に念入りにね」
「分かった」
 いつも皮肉そうな笑みを浮かべている茜も、このときばかりはまぜっかえしもせずに素直に頷いた。
「ラインオフィサーも各自の持ち場をもう一度再点検、可能な限りの調整を願います。不明な点は各機の整備担当者と充分打ち合わせて。いい? これから休む暇なんてないわよっ! 気を引き締めて万にひとつの見落としもないようにしなさい。ああそれからこれも言うまでもないけど『慌てず、急いで、正確に』、絶対に事故のないように!」
『はいっ!』
「解散!」
 その言葉を合図に、各員は弾かれたように散っていく。
 工具箱が開かれ、普段は開けられないような部品ロッカーの棚が次々と惜しげもなく開かれて中身を吐き出させられた。原は部品のストックを使い切ってでも最高の整備をおこなうつもりだった。
「班長、補充物資と予備機が補給所を出たそうです。あと三〇分で到着します」
「了解、受け入れ準備ヨシ、と返事しておいて」
 坂上からもたらされた詳細情報によれば、三会戦は楽にこなせるだけの武器弾薬と、三機の士魂号単座型(通常型)と一機の複座型が予備機として届けられることになっていた。普段陳情しても一機の予備機すら得るのにすら四苦八苦していることを考えれば、破格の待遇といっていい。
 ――ということは、この部隊が一番の激戦区に放り込まれるってことね。
 原はそう直感した。形の良い眉がグイッと吊り上げられる。
 それに……。
「いくら予備の士魂号を全部使い切っても構わない、とは言われてもね……」
 予備機は基本的な整備と初期設定しかなされていないからどうしても能力的に劣るところがある。使わざるを得ない場面はどうしても出てくるかもしれないが、その瞬間は出来ることなら可能な限り先延ばしにしたかった。
 ――さあ、原素子。あなたにとっての戦争が始まったわよ。覚悟はいい?
「……もちろんよ」
 原は小さく呟くと工具を握り締め、己の戦場へと身を躍らせていった。

 原の訓示の後、舞はパイロットをを集めて最後のミーティングをおこなった。無駄口を叩くものはいない。
「さて、整備班には負けていられんな。我らも作業をするとしようか。各機についてはそれぞれ良く分かっているだろう。ともかく今回は確実に動作することを主眼に置き、その上で能力アップを図る。可能な限り高いレベルでバランスを取るのだ。皆、ぬかるなよ」
「おうっ! 任せとけ!」
 真っ先に声を上げたのは滝川だった。彼は決戦の興奮にすっかり飲み込まれている。ひょっとしたら自分を特撮もののヒーローか何かになぞらえているのかもしれない。精神的には一種の逃避であるともいえる。
 だがそれでもいい、と舞は思った。
 人が正気を保つ方法はいろいろとある。特撮という幻想に己を重ね、すがることで勇敢に、確実に動くことが出来るのならそれは決して悪いことではない。
 それに、せっかくのやる気を消すこともなかった。
 それにしても、滝川に異様に張り切られるとかえって一抹の不安がよぎってしまうのは、これはもう普段の行いというしかあるまい。舞は軽く苦笑した。
「壬生屋はまた先鋒を任せることになろう。頼んだぞ」
「お任せください。必ず進路を開いて見せます」
 壬生屋は凛とした声で静かに言った。当初は猪武者などといわれた彼女にも、戦いを重ねるにつれて単なる気負いではない、自信と落ち着きのようなものが生まれ始めていた。瞳には明らかに緊張が浮かんでいるが、それは当然のことだ。
「任せた。よし、状況始め!」
 全員が散ったところで、舞は傍らを振り返った。
「さて、我らも始めるとしよう。……厚志、皆にはああ言ったが、我らは最大限、限界まで能力を上げる必要がありそうだ。そなたの言った案とは少し違うが、目指すところは同じだ。あらゆる状況に対応するという点ではな。ただ、目指すレベルが極めて高くなったということだ」
 速水が頷くと、舞は声を落として言葉を続けた。
「……一番の激戦区は我らが受け持つことになろう。そなたを巻き込む形になるが、覚悟しておけ」
「何を言ってるの。僕だって今はもう芝村だよ。余計な心配は無用さ」
 舞は、いつもと違う言葉遣いにはっと顔を上げた。
 彼は不適な「芝村の笑み」を浮かべているではないか。己の目的を為すに何のためらいもなく、必要とあらば事象の地平線の彼方まで戦い続けるような、あの表情を。
 舞は一瞬言葉を詰まらせたが、ふっと不敵な笑いを浮かべ、
「そうだったな。では始めるとしよう」と答えた。
 だが、速水が神経回路のメンテナンスハッチに潜って行った後で振り向いたその瞳はかすかに揺れていた。

 忙しさは司令部も例外とはしない。
 部隊全力出撃ともなれば、手配が必要なことなどいくらでもあるし、そうなれば敏腕事務官である加藤の出番である。
「もしもーし、あ、五一二一の加藤でっけど。お世話になってますー。あんなあ、おたくんトコ、前に可憐二着余ってるって言ってましたやろ? あれちぃっと融通きけへんかな? ……何言ってんのや、おたくが今回は防備部隊扱いになったのはちゃあんと知ってんでっせ。……え? アレと交換? うー、アレは貴重品なんやけどねー。まあええわ、それで手を打ちましょ。んじゃ、すぐに誰か取りにいきますよって、蔵出し頼んますー。はい、はい、ほな失礼しますー」
「……首尾はどうですか?」
 書類から目も上げずに善行が訊ねる。こんな時でも、いや、だからこそ、書類の決裁は重要な職務となる。
 加藤はしてやったりとした笑みを浮かべた。
「大丈夫です。これで都合六着、不足分は確保できました。でも、誰かに取りに行ってもらわんと……」
「そっちは整備班の誰かに行ってもらいます。……ところで、さっきから言っている『アレ』って何ですか?」
 善行としては単純に話の接ぎ穂のつもりだったのだが、加藤に目に見えて動揺が走る。
「あ、あは、あはははーっ、ま、まあええですやん。乙女のヒミツ、ちゅうやつですわ、ねっ!」
「?」
「さ、さあ次はっと……、あーっ、忙しい、忙しい!」
 あまりに露骨な話題転換に善行は苦笑したが、それ以上突っ込むことなく再び書類に没頭する。
 それを見て、加藤は内心安堵の息をついた。
 ちなみにそれは、某親衛隊などに渡せばそれなりの価格で流通する代物だそうな。
「それにしても熊本城か……。あそこは地形が複雑だから普通の機甲部隊はまず動けない。となれば、我々のような人型戦車を装備した部隊が最終防衛線になる、ということか……」
 書類にサインをしながら、善行は来るべき戦いへと思いをはせ、かすかに背筋を振るわせた。
 恐怖ではない、そう、信じたかった。
(つづく)


名前:

コメント:

編集・削除用パス:

管理人だけに表示する


表示された数字:



* | 次のページ
[目次へ戻る]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -