※トビオがさりげなく女の子です 俺はあるシマのボスだった。ここいら一帯では一番広い縄張りに、女を侍らせ、子分もいっぱい。絵に描いたような順風満帆な人生。だけどそれはあっと言う間に崩れた。残ったのは夢の跡。 陥落した俺は、それまでの仲間に後ろ足で砂を掛けられ、元の縄張りを追い出された。 当てもなく彷徨う。そしてある人に出会った。ゴミステーションで生ゴミ塗れになった俺の、後ろ首を掴んだ少女。 「こら漁るな」 鼻先の釣り目の女の子の顔。美人なんじゃないかという顔立ちだが、頗る目付きが悪い。 畏れ慄いていると、その子はブラブラしている俺に芳しい鰹節を突き付けた。 「うち来る?」 空腹に耐えられず。ニャーと返事をした。 その人間の女の子は、トビオと言う名前らしい。小さいアパートに暮らす大学生で、俺たち猫が好き。汚れを綺麗にされ、ご飯をたくさんもらった。部屋は暖かくて、いい匂いがする。 息を吹き返すような思いの俺は、その家に居着く家猫となった。 トビオはそんな俺に名前を付けた。「とおる」。 「新しい猫? また鰹節で釣ったの」 「名前は『とおる』にした」 「なんで俺とおんなじなの」 「似てるから」 そんな生活を始めてしばらくした頃、トビオの家に新しい人間が訪ねてきた。会話や仕種、雰囲気を鑑みるに、トビオの恋人らしい。茶髪の派手な男で、すごく、すごく背が高い。そして悪いことに、トビオと違って俺を見る目が冷たい。 こんな男と俺が似ているなんて、トビオは嫌なことを言う。 仰視したら、威圧的に見下ろされた。 「オイカワトオルって言うんだよー。よろしく」 俺と同じ名前のオイカワは、口元だけにこやかに言った。蛇が首を擡げるのを見るような、不安な気持ちになった。 オイカワはいけ好かない男だ。初対面以来、なんとなく避けている。 しかしこちらが避けていても、何故かオイカワの方から寄ってくる。 「トビオちゃんはねえ、俺のことを下の名前で呼んでくれないんだよね」 ある日、トビオの見ていないところでオイカワに首根っこ捕まえられた。 目を白黒させて、俺は鳴く。離せ、と言っても、オイカワにはただニャーニャー喚いているようにしか聞こえないんだろう。 「君はトビオちゃんに『とおる』って呼んでもらえていいね。羨ましいなあ〜」 俺はぶるぶる震えた。怖かった。猫に嫉妬するなんて器の小さい男だ、と思った。理不尽だとも。 俺の名前はトビオが勝手に付けたのだから、責めるべきは俺じゃない。 どうしてトビオはオイカワと一緒にいるんだろう。こんなわがままな奴。 オイカワがあまりにも陰険で粘っこいものだから、俺は時たま反撃に出た。たいていは鼻で笑われてあしらわれてしまう。鋭く磨いだ爪も、当たらなければ無用のものだ。 けれど、打撃を与えることもある。そういうときは、オイカワは自身の手の甲についた赤い線を眺め、ニタリと笑う。 すごく、すごく不気味だ。 その笑顔を見るうちに、俺はある決意を抱くようになった。トビオにこんな奴は絶対似合わない! だから、オイカワがトビオの家に来る度に、睨みつけたり、猫パンチをしたり猫キックをしたり爪を出したりした。オイカワをトビオから遠ざけようと、俺は頑張った。 成果はあまり出ていない。 形作られる甘い空間。誰も入れない、あの二人だけの世界だ。隠すことなど何もないのに、秘密めいて見える。神聖なものに見える。俺の目の前で、隣り合ってソファに座るトビオとオイカワ。二人は恋人なのだと思い知らされる瞬間。 「なに、このキズ」 キスしたあとに、トビオが気付いた。オイカワの手に引かれた三本の傷は生々しかった。 俺がつけた傷だ。トビオの顔を見て、罪悪感が初めて芽生える。 「これ? とおるに付けられたんだよ」 トビオの目が一瞬こちらを向いた。 「ふうん。何か嫌がることでもしたんでしょう」 「ひどいなトビオちゃんは。心配してくれないの?」 「別に……」 素っ気ない振りをしながら、トビオの白い手はオイカワの傷を癒すようになぞっていた。そこには確かな愛が感じ取れる。 俺は悔しい思いをした。結局、オイカワには勝てない。 日の光は恋人たちには祝福するように降り注ぐのに、俺にとってはまるで惨めさをさらけ出すよう。 窓の外で、ポッテリとした腹の雀が電線に乗って鳴いていた。諦めなさいと言われているような気がして、面白くない。 拍手お礼でした |