(疲れた…)

 乱数は掌中の飴を舐めることも忘れてカラフルな内装のアトリエの天井を仰ぐ。

 …疲労が限界になると自然と足が向く場所が彼にはあった。

 アトリエ兼住居から深夜の外に出ると深い藍色の空にはちかちかと星が散っていた。疲労で少しふらふらする足取りながら、鼻歌混じりの彼は少々上機嫌である。


「とうちゃーく!」

 歩いて15分ほどの、シブヤディビジョン内の近場にその場所はあった。
 築数もそれなりの安アパートの階段を、相も変わらず鼻歌混じりに上がっていく。

 ポケットの中に入った小さなピンクの鈴が付いた鍵を取り出し、はたとなんとはなしに眺める。『よく来るなら、いる?』と彼女に作ってもらったのだと思うと、それはもうご機嫌な心持ちに拍車がかかった。にんまりと笑って合鍵にキスをひとつする。

 おそらく彼女は寝ているだろうからそっと扉を開けて中に入る。…案の定室内の電気は落ちていて、耳をすませばワンルームの部屋の奥の方で規則正しい寝息が聞こえた。

(良い匂いがする)

 少しの間、玄関で立ち尽くす。女の子の部屋に入るなんて別に珍しいことじゃないけれども、遥の部屋はなんだか特別な感じがした。

(甘いっていうか…花?果物?なんの匂いなんだろう……)

 ぼんやりとそんなことを思いながら、「遥」部屋の中へと小さな声で呼びかけてみる。返事はなかった。彼女の眠りはいつも深く、少しのことでは起きない性質だ。

「起きてほしいな…」

 願望を小さく声に出して靴を脱ぐ。彼女のパンプスの横に揃えて置き、そっと足音を忍ばせて部屋の中に上がった。

「声聞きたい」

 しかしそれは叶わず、遥は窓から弱く差し込む星明かりに照らされてすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。起こすには忍びない…とは思わず、乱数は自分の願望を優先させることにした。

 ベッドの前の床にペタンと座り、布団の上に頬杖をつく。「遥ー…」と顔を寄せて耳元で名前を呼んだ。…起きないな、と少しムッとして彼女の頬をペチペチ叩いた。

 流石に眠りの深い遥でもそれには「うーん…」と声を上げて眉を寄せる。瞼が弱く動くのがわかり、乱数は嬉しさから口角を上げた。


「乱数…」

 ぼんやりとしてるのか、寝起きの掠れた声で遥がゆったりと乱数の名前を呼んだ。

「夜遅くにごめーん!」

 全く悪く思ってない明るい声色で乱数は話しかける。

「僕もう仕事続きで疲れちゃったよー。遥に慰めてもらいたいなっ」

 上半身を起こそうとした遥をベッドに押し戻すようにしながら、乱数は遠慮なく彼女の体を抱きすくめる。

 今度は二人してベッドの上に横になると、遥は起こされたことを怒るでもなく布団を持ち上げて乱数を迎え入れた。

「売れっ子は大変だね」

 まだ眠いらしい遥は緩慢な動きで乱数の細い体を抱き返してくれる。

「ほんとにそうだよー!ファンも仕事も多くてもう大変!」

 遥の胸に顔を埋めながら乱数は胸に溜まった愚痴をひとつずつ思い出しつつ話していく。口下手な彼女は相槌と短いコメントを述べるに留まっていたが、うんうんと聞いてくれることが嬉しくて愚痴を話しているのに機嫌が良くなってしまう。


「今日ここで寝て良い?」

 自分なりに一番可愛いと思う角度に首を傾げて質問してみた。「いいよ」と予想通りの答えがすぐに返ってくるのでぎゅっと抱きしめる力を強くする。

「嬉しいー!遥優しいね!」

(だから俺みたいなロクでもない男に捕まるんだよ)

 遥の体に隠れて笑みを深くしつつどこか冷めた心で思った。寝支度をするために一度ベッドから起き上がり、名残惜しさに後ろ髪を引かれながら彼女の元を離れる。



 乱数用の歯磨きは遥が使うものと一緒に同じコップにさしてあるし、彼のスキンケア用品も、楽な部屋着や寝間着だってこの部屋にはあった。

(まるで恋人みたいだ)

 自分がデザインしたファンシーな色彩の寝間着に腕を通しながら乱数は思う。

 これだけ親密な関係ながら、二人はまだ付き合っていなかった。もちろん、何度も手を出そうとしたことはある。…柄にもなく、告白なんてガキみたいな段階を踏もうと考えたこともあった。

(けど……)

 それが原因で、遥が自分から離れていってしまうことが乱数には恐ろしく思えた。本当に数少ない、失うことが怖く感じた人間が彼女だった。

(だからここから踏み出せない)


 洗面所から部屋に戻ると、薄く灯った電灯の光が目に入る。

 ベッドから起き上がった遥がキッチンに立っているのを見て、「寝ないの?」と乱数は首を傾げて声をかけた。


「お茶淹れようと思って。乱数も飲む?」
「…もう歯磨いちゃったよ」
「あ、そうか。」
「でももう一回磨くから飲む。」


 乱数の返答に遥は柔らかく笑い、狭いシンクの横で蒸気を上げているケトルへと視線を落とした。


「…寝なくていいの?」

 椅子に腰掛けて足をぷらぷらさせながら、乱数は先ほどと同じ質問をする。

「……。せっかく乱数が訪ねてきてくれたし…」
「明日も仕事でしょ?」
「でも何か話したくて来たんじゃないの?」

 
 ポットに入れたティーパックに湯を注ぎながら遥は返答した。

 はあ、と溜息を吐いて乱数は椅子から立ち上がった。マグカップを二つ並べて紅茶を注いでいる遥の後ろに立てば、そこまで身長差がないのがよくわかる。(遥は付き合うならもっと大きい男の方がいいのかな…)なんてつまらないことを考えながら、後ろから肩に頭をぽすんと乗せる。


 正面に向き直った遥を抱きしめて、「うん…」と乱数は答えた。

「遥と話したかったんだぁ」

 自分には似合わない弱々しい声を言いながら、彼女を抱きしめる力を強くする。

 応えるように自分の背中に回った細い腕が愛おしくて、何故か乱数は泣きたくなった。


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