鄙びた無人駅だった。降りそそぐ初夏の陽射しの下、申し訳程度に置かれたベンチに、あたしたちはそれぞれ背中を向けて横向きに座っていた。
「あたしたち、どこまでも一緒に行けたらいいのにねぇ」
ぱちぱち、手にした紙コップに入った炭酸水がはじける。
「行けるよ」
確信に満ちた声でそう答えた桐野の背中に、あたしは静かに凭れかかった。肩胛骨がこつんとぶつかる。
「そうかな」
「そうだよ」
あたしは、紙コップに残った炭酸水を煽るように飲み干した。それはもうすっかりぬるくなっていて、炭酸だって消え失せていた。
「…いいの?」
「何が」
「あたしなんかと一緒で」
家出しよう、と言ったのはあたしだった。
端から見れば異口同音に劣悪だと断言されるような家庭環境も、堕ちていくには何の努力も要らなかった現況も、その泥濘から這い出せずにただダラダラと息をしているだけの自分自身も、ぜんぶ置き去りにして逃げ出してやりたい、と思ったのだ。
その馬鹿げた逃避行に、あたしはあたしと真反対の世界に棲んでいるであろう桐野を誘った。
意味もなくビールみたいな色に染めた髪をしたあたし、真っ黒で艶やかな髪をした桐野。腕や脛は打撲傷だらけで耳にいくつも穴のあいたあたし、男のくせにほっそりと頚椎が浮いて見えそうなほど滑らかなうなじを持つ桐野。すれ違う教師が眉をひそめるのを見たい為だけに制服を着崩しているあたし、折り目正しく濃紺のカーディガンを着こなしている桐野。
それまでまともに会話した事すらない桐野に「一緒に行かない?」なんて持ちかけたところで、鼻で笑われて終わりだろうとあたしは思っていた。けれど桐野は、口端を僅かに歪めて笑うと、「いいよ、行こう」と答えたのだ。
真昼の無人駅。あたしたちが住むごちゃごちゃした街にはない、心にしみるような閑寂。じりじりと灼けつくような陽射し。
暑くてだるくて腕まくりしているあたしとは真反対に、桐野は、濃紺のカーディガンを汗ひとつかかずに涼しい顔で着たまんまだ。
あたしは桐野から背中を離すと、ベンチにきちんと座り直して言った。
「ねえ、桐野はまだ間に合うよ。まだ帰れる、戻ってやり直せる。…てか帰りなよ。桐野が帰ってくるのを待ってるひとだって、絶対、いるし」
なんだか泣き出したいような気分になりながら、あたしは言った。
あたし、何がしたいんだろう。電車やバスを乗り継いで、気付けばずいぶん遠くまで来てしまった。誰もあたしを知らない場所まで。つまりあたしの「ぜんぶ置き去りにして逃げ出してやりたい」という願いは叶ったはずなのだ。なのに今になって、子どもみたいに泣き出したくなるなんて。
「…俺だけ帰れって? 今更?」
それまで無表情だった桐野が、ふいに鋭い視線で射抜くようにあたしを見つめた。あたしはたじろいだ。
「だって、なんか桐野に悪いなって…」
「一緒に行こうって言い出したのは綾瀬、お前だろ?」
「や、そうなんだけど」
「バカ。なら黙って次の電車待ってろ」
そう言い投げて、桐野はあたしの頭をぽんと叩くように撫でた。
「あのな、綾瀬だってまだ大丈夫だよ。帰りたきゃ帰れるし変わりたきゃ変われる。だから、そんな世界中の不幸を一人で背負ってます、みたいな顔すんな」
桐野は言いながら、カーディガンのポケットから取り出した何かをあたしの手に握らせた。くたくたに読み込まれた文庫本だ。カバーすらない。日に焼け、手垢にまみれたその本のタイトルは『銀河鉄道の夜』。ずいぶん昔にアニメでなら見た記憶がある。
「…宮沢賢治?」
「ん。ホラこれ、この文が俺のお守り」
パラパラと捲って、桐野はあたしに見えるように小さな活字を指さした。あたしは声に出して読み上げた。
「『僕もうあんな大きな暗(やみ)の中だってこわくない。きっとみんなのほんとうのさいわいをさがしに行く』…?」
「そう。俺と綾瀬で探しに行くんだよ。ふたりで探せば見つかるだろ、いつかきっと。みんなの幸せは無理でも、自分の分くらいは何とか」
さっきまでの強い視線とは裏腹に少し寂しげに笑う桐野を、あたしはただ見つめるしか出来なかった。
あたしとは真逆で、あたしにはないものをいっぱい持っているはずの桐野。あたしとは違って、煩悶や汚濁のない綺麗な世界に棲んでいるもんだと思っていたのに。
二両しか繋がっていない電車が、ゆっくりとホームに滑り込んできた。ベンチから立ち上がった桐野は、ぼんやりしたままのあたしの手を掴んで言った。
「綾瀬がもう帰るとか言うつもりなら、俺はここで綾瀬を誘拐してでも連れてくよ。…帰さない、絶対」
ぐいっと腕を引かれて、あたしは電車に乗り込んでいた。
南行きの電車はほとんど空席だった。あたしと桐野は、今までもそうして来たように無言のまま並んで座った。がたたん、と揺れて電車が動きだす。あたしと桐野の、肩が少しだけぶつかった。隣に座った桐野は、その左膝の上であたしの手を握ったまま離そうとはしなかった。
窓の向こうを流れてゆく景色は夢みたいにのどかで、それなのに、そのすべてがきっぱりとした色鮮やかさで光を放っているように、あたしの目には映っていたのだった。
-END-
▼蜜月様へ
┗いつまでも私の英雄
▼あとがき(2011.5.31)
英雄(歴史上の偉人)というと、強く逞しく時代の分岐点で大いなる活躍を遂げた人物、というイメージもあったのですが、人生の中でふとした時に勇気をくれたり背中を押してくれたりする存在もまた、その人にとっての英雄たりえるのではないかという事で。難しくも素敵なお題と、此処まで読んでくださった方に深い感謝を!