ふわり。磨き抜かれた石畳の階(きざはし)を足早に歩くたび、髪に挿された花飾りの柔らかな薫りが匂い立つ。見上げた夜空の真上に月が宿るのを見て、わたしは花飾りの花が零れ落ちてしまうのも構わず、急ぎ足で御館(みたち)の階を駆け下りた。

 わたしは今宵、彩りゆたかな染衣(そめぎぬ)に、なよやかな手触りの領巾(ひれ)をまとい、近隣の邑々の姫君や侍女だけが集う小さな宴に参加していた。来月に迫ったわたしの輿入れを祝っての、ささやかな前宴。

 …そう、わたしは来月、隣邑の首長(おびと)の若君に嫁ぐのだ。

 幾らわたしがこの邑の首長の娘として生まれたとは言え、まさか、こんな小さな邑の娘に余所から縁談が舞い込むなんて。相手は、わたしが以前父の後について参加した歌会の席でわたしを見初めたのだという。相手からの申し出に父も母も欣喜雀躍したが、話がまとまってからというもの、わたしは一人、歓びより不安に打ちのめされそうになりながら毎日を過ごしていた。


 わたしは歩く速度を落とすと、月天心の夜空を見上げた。篝火(かがりび)に照らされて星は多くは見えないけれど、月だけはまんまるくぽっかりと浮かんでいる。揺すると甘いしずくが零れそうな、優しい雛色だ。
 そうして月を眺めながら階を下りきると、篝火の下、よく見知った顔が佇んでいた。首長の御館に出入りを許されている楽士の一人だ。今宵の宴でも見事な笛の音を披露し、宴たけなわのうちに散会していたはずだった。


「自分のために催された宴を抜け出してくるなんて、宴はお嫌いですか、蓮(はちす)の姫君?」

 楽士が悪戯っぽく微笑んでわたしにそう尋ねると、籠の中で燃えていた篝火がぱぁんと音を立ててはぜた。

「まぁ祿(ろく)ったら、そんなことはないわ。ただ…宴の空気に酔ってしまったから少し夜風に当たりたかっただけ。あなたこそ、後片付けはどうしたの? こんなところでのんびりしていていいのかしら?」

 答えたわたしに、祿、と呼んだ楽士はゆったりと歩み寄ってきた。わたしの髪に飾った花に、そっと彼の手が伸びる。その手首で結わえられた小さな鈴が、しゃら、とささやかな音を立てた。

「だいじょうぶ。お咎めはちゃんと後で受けるさ。…だって今夜を逃してしまったら、もう、きちんと祝いの言葉のひとつも言ってやれなくなるだろう?」

 わたしの問いに、昔と変わらぬくだけた口振りで彼は言ってのけた。

 確かにそうだ。今宵の宴は、近隣の邑々の首長に連なる女たちとの顔合わせというのを表向きの名目とした、わたしと同じ血を祖とする首長筋の姉姫や妹姫、親しい侍女や邑の娘たちとの別れの儀なのだから。
 明日からわたしは、輿入れ先の侍女によってその邑の仕来たりを徹底的に叩き込まれることになっている。ひとり気ままに御館から出ることすら許されないだろう。

 宴の席に漂う、女たちの放つ甘やかな薫り。とりとめのないお喋り。領巾を腕や手首に巻きつける衣擦れの音。こうした折にしか会えない遠い血縁の姉姫や妹姫が、優しい言葉でわたしをいたわってくれる。侍女は甲斐甲斐しく酒や肴を運び、また邑の娘たちは輿入れへの夢見がちな憧れを語ってはわたしの不安をぬぐおうとしてくれていた。
 そんな近しいはずの何もかもが、今のわたしには遠く、あわあわとした泡沫のように感じられていた。

 わかっている。わかっているのだ。わたしが泣こうがわめこうが、輿入れが取り止めになどなるはずがない。まして、首長の血筋に生まれた娘として、両親――ひいては邑の人々――に恥をかかせるような真似は出来るはずがないし、したくもない。
 わたしは来月、まだ見ぬ若君に嫁ぐ。これは天と地が逆さになろうと揺るがぬ事実だ。

 それならば何故、こうまで心が焦げるようにくすぶり落ち着かないのか。…理由は自分でも判然としていた。輿入れへの不安でも、まだ見ぬ相手への不信でもない。最後に一目、会っておきたい人がいる。それだけだ。


「どうしたんだい、蓮」
「ううん」

 はっとして見上げると、祿は慈しむようにわたしに視線を落としていた。夜に溶けてしまいそうな、深い藍染めの楽士装束がとても似合っている。

 ひとつ年上の祿は、母君が首長に連なる者だった故に、幼い頃からよくわたしの住まう御館にも出入りしていた。わたしも祿を兄のように慕い、馬の後ろに乗せてもらっては遠駆けしたり、標野(しめの)で薬草を摘んだりもした。
 わたしに向けられる、優しい、穏やかな眼差し。いつまでも稚い少年少女ではいられなくなり、いつしか傍を離れても、時折すれ違うたびに微笑んでくれるその眼差しに変わりはなかった。


「…ねえ祿、憶えてる?」
「何を?」

 わたしは目を伏せると、未だ色褪せることなく胸の奥にしまい続けている、宝物のような記憶をそっと口にした。

「父様にも母様にも内緒で交わした、わたしたちだけの約束」

 一瞬、きょとんと目を瞠いてから、彼はわたしの前髪をかき撫でた。花の匂いが、ふわりと零れる。

「もちろん憶えているよ。…そんな大切な約束を破るなんて、蓮はいけない娘だね」
「……!」
「なんて、ね」

 祿は、憶えていてくれたのだ。幼い、子どもじみた約束を。わたしはあの約束を守りたかった。あの日の指切りを、決して嘘になんてしたくなかった。守りたかった、否、許されるものなら叶えたかった…。

「ごめんなさい…」
「馬鹿だな、蓮。君があやまることじゃないだろう? …よし、それじゃあ約束を変えよう。今度の約束は、何があっても必ず守るんだよ」
「どんな…?」

 伏せていた瞼をおそるおそる上げて問うたわたしは、次の瞬間、祿の腕にきつく抱きすくめられていた。呼吸が止まりそうな、体じゅうが痺れてしまいそうな、甘い束縛。

「蓮、誰よりも幸せに。若君に愛され、大切に慈しまれ、…やがて可愛い子どもを生んで強く優しい母君におなり。蓮なら絶対になれる、絶対に」

 ぎゅう、と、わたしをかき抱く祿の腕に更に力が籠った。幼かった頃、わたしの手を引いて馬に乗せ、小川に架かる橋を怖がって渡らないわたしの背中をそっと押してくれた、あの腕。今は呪術(まじない)のように笛を操り、誰より深く澄んだ音色を響かせる指先。

「蓮、いつも君を想うよ。これからもずっと、君に届くように、魂を込めて笛を奏でるよ」

 ゆっくり体を離すと、祿はにっこりと微笑んでそう言った。わたしは頷いて、首にかけていた勾玉をはずして彼に手渡した。

「ありがとう。…行ってらっしゃい蓮。どうか、どうか幸せに」
「…はい。行って、まいります」

 わたしの言葉に柔らかに微笑むと、祿はくるりと踵を返して御館の向こうへと歩き去っていった。篝火が彼の背中を照らす。その姿が見えなくなるまで、わたしは闇に目を凝らして見送るのだった。






 まあるい月が、わたしたちの約束を永遠に見届けてくれるような、気がした。

-END-

▼補足
・階(きざはし)…かいだん。
・御館(みたち)…貴人の館を敬って言う語。
・領巾(ひれ)…盛装した婦人が肩に掛けて左右に長く垂らした薄い布。
・首長(おびと)…統率者。
・標野(しめの)…貴人の所有地で、一般の者の立ち入りを禁止した野。禁野。

▼Special Thanks!
 ┗彦多様「伝えられない想い」


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