どうか、この空を、この気持ちを生涯忘れずにいられますように。






「わたしは警察官の試験受ける」
「あー、向いてる向いてる。お前みたいな婦警に捕まったら、極悪人でも改心せずにはいられないもんな」
「黙れ小僧」

 僕らと向かい合わせに座った高橋さんと吉野が、さっき進級早々行われた進路希望調査について、まるで夫婦漫才のようにテンポ良く話しているのを、僕と花織(かおる)も並んで眺めている。
 春の教室。うららかな陽射しが降り注ぐ窓際の席は、昼休みを過ごすのに最適な場所だ。

「吉野と花織は就職組か。…篠宮は?」

 弁当のおかずを横から摘もうとする吉野の手を叩きながら、高橋さんが僕に尋ねた。僕は思わずかしこまるような気分になって背筋を正し、缶コーヒーの中身を飲み干した。
 ちらりと隣の花織を見やると、花織はほんの少しだけ寂しそうに、でもふんわりと笑って寄越した。僕は言った。

「うん、僕は進学。第一志望はK大の薬学部だよ」

 吉野が軽く口笛を鳴らす。

「薬学部! ってコトは篠宮、将来薬剤師になるんだ。でもK大とかウチの高校から行けんの? K大附属からのが有利なんじゃないの?」
「…実を言うと、僕はそのK大附属に落ちたから今この高校にいるんだよね」
「マジかー! もしかして俺、なんか傷口抉っちゃった? すまん篠宮!」

 うはははは、と豪快に笑って僕の背中をバシバシ叩く吉野とは裏腹に、高橋さんはじっと僕を――いや、何故か花織を見つめていた。花織もそれに気付いて、不思議そうに小首を傾げる。

「高橋さん?」
「あ…ううん、篠宮たちでも卒業したら離れる事になるんだなって思って。ああホラ、篠宮たちってわたしの中で、ふたりでひとつって感覚だったから」
「わかるわかる! コイツら実は密かにもう入籍とかしてんじゃねーのって雰囲気あるもんなぁ」

 遠慮がちに話した高橋さんに、吉野が茶化しながら同意する。
 確かに僕と花織は、生まれた時からそうだったかのようにいつも一緒にいる。クラス内の僕達に対する認識も、総じて高橋さんや吉野と同じだろうと思う。
 僕はそっと花織を見た。僕を見上げた花織が、きゅっと口端を上げて笑う。

 ――視界の端、風に吹かれて桜の花びらが舞い散るのが映った。


「ねえ、ちぃちゃん」
「ん?」
「進路の事、誰かに話すと…離ればなれになるのが現実なんだなぁって思い知らされちゃうね」

 学校帰り、駅まで続く川沿いの道を並んで歩いていると、言の葉を零すようにぽつりと花織が呟いた。ふいに、芽吹く早緑の匂いが鼻をくすぐって、僕はふと立ち止まって深呼吸した。
 花織が僕に「篠宮千紘…シノミヤチヒロ、だから『ちぃちゃん』ね!」と男子高校生らしからぬあだ名を付けたのも、こんな晴れやかな春の日だったと思い出す。

「ちぃちゃんと一緒に授業サボってピアノ弾いたり、そのせいで放課後居残りさせられたり…。卒業したらそういうのもできなくなっちゃうんだね」

 歩みを止めず、花織は僕に背を向けたままそう言った。濃紺のブレザーに守られたちいさな背中。綺麗に切り揃えられた黒髪、覗く白皙の項。

「馬鹿だなぁ、花織は」

 そう言うと、ぐいっと腕を掴んで、僕は花織を抱き寄せた。唐突だったせいか、花織は声も上げずに僕の腕の中でじっとしている。
 こんなふうに花織を抱きしめるのは初めてだ。僕の心臓は壊れてしまいそうなほど早鐘を打っている。花織は柔らかくてあたたかで、頭のてっぺんに鼻を埋めると、綻ぶ花のように優しく甘い匂いがした。

「離れるの、心配?」
「そりゃそうだよ…。ていうかちぃちゃん、こんなトコでこんなの恥ずかしいってば…!」

 小声の訴えを無視して、僕は花織の背中を更にぎゅうっと抱きしめた。

「どうやったら伝わるのかなと思って」
「…え?」
「僕がどんなに花織を好きかって事。僕にとって、どんなに花織が大切かって事」
「…ちぃちゃん…」

 硬直していた花織の腕が、おずおずと僕の背中にまわされた。それからしばらく、お互いの体温に凭れかかるように身を委ねる。水の匂いを含んだ柔らかな春風が、僕らの頬をそっと撫でていった。
 やがて、とんとんと赤ちゃんをあやすような仕草で花織が僕の背中を叩いた。ふわりと心が軽くなる。僕は息を落とすように笑みを零した。出会った時から、この優しさに守られているのはいつだって僕のほうだ。

 ああもう、子供だ馬鹿だ有り得ないと誰に嘲られても罵られても構わない、と強く思った。僕はずっと花織といたい、花織と生きていきたい、だから。

「ねえ花織、いつか僕と」
「あたし、早くちぃちゃんと結婚したいなぁ」
「はあ!?」
「…ひどっ」
「違…っ、違うよ、今のは完全に僕が言うタイミングだったでしょ! 何で花織が先越しちゃうかなぁ」
「だって、ちぃちゃんなかなか言ってくれないんだもん。あたしはね、ちぃちゃんのお嫁さんになるのが人生で一番おっきな夢なんだからねっ」

 そう言って照れくさそうに笑うと、花織はぴょんと跳ねるように僕の腕をすり抜けた。

「じゃあ花織、お嫁さんになるだけじゃなくてさ」
「なあに?」
「出来れば、花織みたいにちっちゃくて可愛い女の子を産んで欲しいんだけど。…僕に似ると可愛いげがなさそうで嫌だから、花織寄りでお願いします」
「ち…っ、ちぃちゃんのばかっ!」

 耳まで真っ赤にしてそっぽを向いた花織の頭をぽんぽんと撫でると、僕は糸で引かれたように春の空を仰いだ。
 眩暈を憶えるように青く澄んだ空が、僕達の未来に福音を告げている。この空を、この気持ちを死ぬまで忘れずにいようと、僕は心に誓ったのだった。



-END-


蜜月様へ提出
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