ざあ、と車が飛沫を上げて水溜まりを蹴散らす音で覚醒し、崇はゆっくりと瞼を持ち上げた。
 カーテンの隙間から零れるくぐもった光。それから、はたはたと雫の落ちる柔らかな音。どうやら雨が降っているらしい。
 そっと傍らに視線を送って、崇は静かに目を細めた。奈々は、微かな寝息を立てて眠っている。

 こうして共に朝を迎えるのは何度目だろうか。崇はぼんやり思い巡らせた。まだ指を折って数えられる程でしかない。なのに、こうして自分の隣に居るべき人間は彼女しかいないと強く思う。
 …傲り、だろうか。いや、自惚れかも知れない。崇はちいさく息を落とした。


「…タタルさん」

 しばらくして、奈々がそっと瞬きをしながら崇を見上げた。崇は、くしゃりと乱れた奈々の髪に優しく触れた。
(そうしないと、壊れてしまうと思ったから)


「ああ、おはよう」
「おはよ…、う、…ございます」

 掠れた声で、途切れがちに奈々が答える。奈々が「んっ」と自分の腕の中で遠慮がちに咳払いする仕草すら愛しく思えて、崇はつい口許を緩ませてしまう。

「病的な嗄声(させい)の治癒が目的であれば『響声破笛丸』、或いは咽喉に何かが引っ掛かるような不快感がある場合は『半夏厚朴湯』辺りが効果的だね」
「えっと…そういうのじゃなくて…」

 何故だか頬を熟れた林檎のように紅潮させて、奈々は恥ずかしそうにふいっと顔をそむけてしまった。さらりと揺れる髪、あらわになる形の良い耳。

「奈々くん?」

 崇は忍び笑いを漏らしながら、背中越しに奈々を抱きすくめてみた。「ひゃあ!」と奇声が発されたかと思うと、奈々の華奢な肩がぴくんと跳ね上がる。

「タタルさん、ど、どうしたんですか…?」
「何が?」
「あの、そんなふうにされたら…私、動けません…」
「そのまま動かなければいい」

 崇は笑いながら僅かばかり上体を起こすと、奈々の耳にそっと唇を寄せた。それから項をついばむようになぞり、柔らかな髪に鼻先を埋める。

「くすぐったい?」
「…はい」

 くすくすと甘やかに奈々が笑う。それがどんな強い酒よりも深く崇を酩酊させる事を、奈々は知っているのだろうか――。


「あ」

 くるりと寝返りを打って崇と向かい合わせになった奈々が、窓の方を見上げて呟く。

「外、雨が降ってるんですね」
「ああ」
「…いい音。なんだか雨に閉じ込められてるみたいですね」

 詩的だね、と崇が答えると、奈々は照れくさそうに眉を下げて微笑んだ。
 その表情に、胸の奥がじんと痺れる。

 ――あの日を境に、他の誰と話していてもこんなふうになる事などまずなかったのに。もう、誰も好きにならないと決めていたはずなのに。
(ああ、どちらにせよ非論理的だ)


「ねえタタルさん」
「ん?」
「ひとつだけ、いいですか」

 崇の思考が流れ込んできてしまったとでも言うように、強ばった面持ちで奈々が問う。

「タタルさん。あなたが目を閉じた時最初に想うのは…きっと私だ、って、私、自惚れててもいいですか…?」

 そう言葉を紡いだ奈々の、長い睫毛が震えていた。黒々と濡れた奈々の瞳に自分が映っている。崇は動揺した。自分は莫迦だ、彼女にこんな顔をさせるなんて、と。崇は深淵のような奈々の双眸を凝視し、ぎゅっと奈々を抱きしめた。

「俺には君しかいない。…でも、もし俺の何かが君を不安がらせているのなら…俺はこれからの人生すべてを懸けてでもそれを払拭したいと思う」
「…!」
「だから、奈々、」

(俺の目の前から消えてしまわないで)

 崇は、奈々を抱きしめる腕に力を込めた。雨と、部屋に掛けられた時計の秒針だけが音を響かせる。

 ややあって、崇の腕の中で身動ぎした奈々がふわりと匂い立つような笑みを浮かべた。言葉で形容するならば、『慈しむ』と呼ぶに相応しい表情だと、崇は心の中で呟く。

「タタルさん」
「何?」
「ごめんなさい。私、子どもみたいな事言っちゃいましたね。…でもね、私タタルさんが好きです。こんな不思議な気持ちになったのは初めてで、自分でもよくわからないんですけど」

 そう言うと、奈々はすばやく崇の唇にキスを降らせた。瞠目する崇に奈々は少し自嘲気味に言う。

「もう、私ったら本当に子どもみたい。探ったり不安になったり疑ったり迷ったり。すぐ目の前に、こんなに好きなひとがいるのに。――でも、もう子どもじゃないからこそ…何でもややこしく考えてしまうのかしら…」

 最後の辺りは一人言めかして思案顔で呟く奈々に、崇はふっと口端を歪めて笑ってみせた。

「少なくとも、子どもはこんな事はしないだろうけどね」
「え、えっ」

 気付けば奈々は、崇に体ごと絡めとられ、シーツの波に飲み込まれていた。
 ゆっくりと其処彼処を這う崇の指先、唇。零れ落ちる奈々の溜め息、密やかな声。
 果てしなく降り注ぐ雨だけが、世界をひたひたと満たしてゆくのだった。

-END-

▼あとがき/2011.03.02
奈々ちゃんを好きで好きで堪らないタタルさん、を書きたかったんだけど、どうなのさこの展開! 精進が足りませんねぇ。いや、むしろ文才って天賦のものなんですかね…神様恨むよ(;_;)
途中で一度だけタタルさんが『奈々』と呼び捨てにしたのが、私の中で今回最大のタタ奈々萌えポイントです。あとは、タタルさんって奈々ちゃんの耳と髪がすごい好きなんだなぁ…と、自分で書いておきながら他人事のように考えておりました(笑)。
本編でジリジリしているタタ奈々ファンに、このお話で少しでも胸キュンして頂ける事を祈って。



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