大学からの帰り道、わたしはふと、マフラーを鼻先までぐるぐる巻きつけたまま上目遣いに夜空を仰いだ。凛と凍てついた夜空には、手で掴んだらぽきんと折れてしまいそうに細い三日月が浮かんでいる。
 …月って、触れたら冷たいのかな。そんな事を尋ねたらきっと先生は笑うだろうな、と思った時、コートのポケットで携帯電話が震えた。先生だ。会いたい、と願っていた人からの連絡に舞い上がりつつ、わたしは冷えた指先で慌てて通話ボタンを押した。

『佐倉くん、今何処ですか?』

 いつも穏やかな口調の先生にしては珍しく、挨拶も前置きもないまま問われ、わたしは少しだけ動揺してしまう。

「ええと…学校の近く、かな。さっき出たところなので。研究室で先輩の実験を手伝ってて、気付いたらこんな時間になっちゃいました」
『まったく君は』
「え?」
『確か国道沿いに大きな本屋がありますよね。そこで待っていて下さい、迎えに行きます』
「…急にどうしたんですか先生、何かあったんですか」

 何かあってからでは遅いんですよ、と言い残して、先生は電話をぷつりと切ってしまった。


 わたしは、先生に言われたとおり、こんな時間にも関わらず煌々と電気を点して開店している24時間営業の大型書店に入った。なんとなく手に取った雑誌を捲りながら、わたしはぼんやりと先生の事を考えた。
 先生は、わたしの通っていた高校の化学教師だ。授業といえば、書き連ねた黒板の文字を淡々と読み上げるだけのやる気のなさそうな先生で。それでもわたしは、先生から目が逸らせなかった。先生が何を見ているのか、何を考えているのかが知りたくて、授業以外の言葉を聞きたくてたまらなかった。…気が付けば、先生の事を好きで好きでどうしようもなくなっていた。

 高校卒業後、わたしは県内の大学に進学した。それに合わせて実家を離れて一人暮らし(というか下宿)を始める事になったのだけれど、どういう巡り合わせか先生の転勤先がわたしの大学の近くだったのだ。それから、わたしと先生の距離は瞬く間に近付いた。
 そのひとつひとつを思い起こし、我が世の春とはこういう状態を言うんだろうな…とつい頬を緩ませたその時、ふいに誰かに肩を掴まれた。

「ひゃあ!」
「佐倉くん、僕です」

 驚いて思わず変な声を出してしまったわたしの唇に人差し指を当てて、目の前に現れた先生が言った。

「そんな事より佐倉くん、今何時だと思ってるんですか」

 『先生』と呼ぶにふさわしくないのではないかと思われるほど野放図に伸びた前髪の奥で、先生の目がじろりとわたしを睨みつける。わたしはおずおずと答えた。

「じゅ、じゅういちじにじゅうごふん、…です」
「大学の講義や研究で帰りが遅くなるのは仕方ないとは思いますけど、こんなに遅くなる時は僕を呼んで下さい。せっかく近くに住んでるんですから」
「…だって先生はタクシーじゃないですし」
「そういう問題じゃありません」

 わたしの言葉を一蹴すると、とりあえず送ります、と呟いて、先生はわたしの頭をぐしゃりと撫でた。

 アパートの前まで送り届けてもらい、助手席に座ったままわたしはペコリと頭を下げた。

「あの、先生、ごめんなさい」
「何がですか」
「いやはや、ご心配をおかけしてしまいまして」

 ぎくしゃくと言ったわたしの手を、先生がそっと握りしめる。冷たい指先。さっき見た三日月も、触れたらきっとこんなふうに冷たいに違いない。

「…先生?」
「僕が過保護なだけですけどね」
「う、嬉しい、です」
「喜んでいる場合じゃないでしょう。…管理人室、まだ電気が点いてるみたいですよ。山田さんにもきちんと謝っておくように」

 へ? と目を丸くしたわたしに、先生は意味ありげに笑ってからふわりと顔を近づけた。ほんの一瞬、珈琲の薫りがして、わたしは思わず泣いてしまいそうになる。先生の匂いだ。こんなにそばに、先生がいる。泣くのを堪えて目を閉じたわたしの唇に、そっと、優しいキスが舞い降りた。

「おやすみ」
「おやすみ、なさい…」

 ふわふわと夢見心地で手を振ってから『蜜月荘』に入ると、わたしはほのかに明かりの漏れる管理人室のドアを、意を決してノックしたのだった。

-END-

蜜月様に提出
 ┗蜜月荘企画
▼short「凛と響くは焦がれる程の」より、佐倉くんと先生にご登場いただきました。
先生は、佐倉くんが『蜜月荘』に住む事が決まった時点でこっそり山田さんにご挨拶に出向いていたに違いない(笑)。
素敵な企画に参加させていただきありがとうございました!



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