title/カカリア
水曜日の正午、間延びした空気が辺りを漂っている。わたしがケトルからお湯を注ぐと、ふわりと柔らかに珈琲の薫りが立ちのぼった。
わたしには、この薫りをかぐとどうしようもなく会いたくなってしまう人がいる。今、何をしているだろう。お昼はちゃんと食べたのかな。メールしてみようかな、でも仕事の邪魔はしたくないし。…そんな事を考えつつ、わたしは瞼を落として深呼吸した。
「ただいまー、ああ重かったーっと。おっと佐倉ちゃん、こんな時間にいるなんて珍しいね。てか最近帰り遅くない? バイトでも始めた?」
幾つもの買い物袋を抱えた山田さんがやって来て声を掛けた。大学へは午後から出ればいいので、わたしは共同の食堂で買ってきたサンドイッチを広げて珈琲を啜っていたところだった。
山田さん、というのは、わたしが下宿する学生専用アパート『蜜月荘』の管理人さんだ。
わたしの大学進学に合わせて、両親が「大学から近くて出来れば食事なんかの世話もお願いできるような、それでいて家賃が良心的な住居」として探しだしてくれたのがこの『蜜月荘』だった。
その管理人である彼女は、わたしの知る限りとんでもない美人で料理上手なお姉さんだ。…なのに、性格は大雑把で何事もほぼ適当という不思議な人物でもある。
「そうじゃないんですけど、先輩の実験を手伝ったりしてたら思いの外遅くなっちゃって」
「手伝いもいいけど、帰り道、気を付けなきゃダメだよ? …でも佐倉ちゃん、ちゃんと送り迎えしてくれる人いるもんねー?」
そう言いながら、山田さんはわたしに不敵な笑みを寄越した。何故だかわからないが、山田さんには何でもお見通しらしい。わたしはそそくさと珈琲を注いで山田さんの前に差し出した。
「…それがですね、なんというか、そんな事で呼び立てるのも申し訳ないような情けないような気がしてですね、」
「なーに言ってんの! あたし見ちゃったんだよね、佐倉ちゃんが彼氏と一緒にいるトコ」
「え…ええっ、山田さんいつの間に」
「遠目だったから顔までは見えなかったけど、紳士っぽくてなかなかイイ男だったじゃない。ドーンと甘えちゃえばいいのよ。送り迎えごときでガタガタ抜かすような男なら、あたしがシバいてあげるからいつでも言いなさい」
過激ですねえ、と苦笑いしつつ、あたしはサンドイッチを珈琲で流し込んで立ち上がった。午後からは講義が連続で詰まっているのだ。
「今夜は山田さん特製ビーフシチューだからね。寄り道しないで帰ってきてね」
朗らかに笑う山田さんに見送られて、わたしは講義にいそしむべくアパートを後にした。