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菅原道真の命日と崇の誕生日が同じ日なのだと初めて聞かされたのはいつだっただろう。それからもう何年も経つ筈なのに、きちんと当日に祝うのは今夜が初めてだ。
場所はいつものカル・デ・サック。早春とは名ばかりに、空気の冴えざえと澄んだ寒い夜だ。
奈々は低く落とされた柔らかな照明の下でにっこり笑うと、隣に並ぶ崇に向かって言った。
「お誕生日おめでとうございます、タタルさん」
ありがとう、と素直に答えると、崇はいつも通りにギムレットをぐいっと煽る。水でも飲むように、あっさりと崇の喉を滑り落ちてゆくそれを想像するのが奈々は好きだ。
まるで正しい事のようだ、と奈々は思う。崇が隣に居る事。その崇がギムレットを容易く飲み干してしまう事。そうしてそのまま、崇が黙ってしまう事(とは言え一旦語り出すと堰を切ったように言葉が溢れて、奈々には止めようがなくなるのだけれど)。自分にはそれ以外何も要らない気にさえなってしまう。
ぼんやりと崇を眺めていた奈々に、ふと思い出したように崇が尋ねる。
「これから熊つ崎と沙織くんも来るんだろう? …何か妙な事件でも運んで来なければいいが」
「さすがにそれはないと思いますよ。今夜はタタルさんのお誕生日のお祝いがメインですから」
困ったように笑う奈々を余所に、崇は無表情のまま二杯目のギムレットを注文した。
「いや、熊や沙織くんがと言うより…君と一緒にいると何かと波乱に巻き込まれるからな。俺はただ好きなように酒を飲んでいるだけなのに」
自分が巻き込まれた事件を説明するたびに上司の外嶋にも言われる事だ。「奈々くんは巻き込まれ体質もしくは呼び込み体質だ」と。だがそれは自分ではなく崇の事ではないか、と奈々は常々疑っている。
ついムキになって反論しようと奈々が口を開きかけた瞬間、「よお!」「お姉ちゃんタタルさんお待たせー!」と、背中越しに小松崎と沙織の明るい声が飛び込んで来たのだった。
それから、四人でいつものようにハイペースで飲み、食べ、喋っているうちに、小松崎は顧客から連絡を受けて仕事に戻る事になってしまった。すると沙織も「ではではこの辺で邪魔者は退散致しまする〜」とニヤニヤしながら店を出て行ってしまったのだった。
しばらく飲んでから崇と奈々も店を後にし、夜風を頬や睫毛に受けながら何処に向かうでもなく並んで歩いていた。月が凍えそうに青い。奈々はふうっと深呼吸して、冬の終わりの空気を肺に満たした。
「あの、タタルさん」
「ところで奈々くん」
同じタイミングで声が重なってしまい、名前を呼んではみたものの特に用事のなかった奈々は、ドキッとしながら発言を崇に譲った。
「奈々くんは時間はまだ大丈夫か?」
「はい、終電までまだ時間はありますし、明日は遅番ですし…」
「それなら、俺の家に寄って貰えないか。渡したいものがあるんだ」
「な、何ですか?」
聞き返す声が思わず上擦ってしまった奈々を尻目に、崇は相変わらずの無表情で答える。
「外嶋さんに頼まれていた調べ物をようやくレポートにまとめたんだ。いつでもいいから奈々くん経由で渡して欲しいと言われていたのに、なかなか君に預ける機会がなかった」
「そう…なんですか」
この男に必要以上に何かを期待してしまった自分を恥じつつ、奈々はこくんと頷いた。冷たい夜風が襟足を撫でる。マフラーを丁寧に巻き直すと、奈々は歩きだした崇の後に続いた。
久し振りに訪れた崇の部屋は、相変わらず書籍の山だった。本人なりにきちんと分類してあるのだろうが、こちらに漢方学の雑誌が山積みかと思えばあちらには日本地図や大辞林、という様相で座ろうにも座れない。崇は「とりあえず」と言いながら、カウチソファの上に積まれた書籍を除けて奈々を座らせた。
そういえば、ずっと以前にこの部屋に来た時は百人一首の札が床一面に散らばってたっけ…などと思い出して奈々がクスリと微笑んだ時、崇がビールとグラスを持って現れた。奈々が遠慮する暇もなくビールが二人分のグラスに注がれたので、奈々は神妙に受け取って一口飲んだ。隣に腰を下ろしてビールを飲む崇に奈々が問う。
「それでタタルさん、外嶋さんにお渡しするレポートは?」
「そんな物はないよ」
「…え?」
「あれは嘘だから」
崇の言葉に一瞬きょとんと目を見開いた後で、どうして嘘なんか…、と訝る奈々に、崇は野放図に伸びた前髪の奥で悪戯っぽく笑う。
「嘘をついた事は謝る。ああ、勝手にダシに使った外嶋さんにも謝ろうか。…でも、それなら君は表参道の道端でこうされたかった?」
「え」
崇の指が戸惑う奈々の頬に触れ、それからふっと頤を持ち上げた。引き寄せられた顔が近くて、奈々はたじろぎながら瞼を伏せる。
「あ、の…、タタルさん…?」
「今日は俺の誕生日だからね。欲しい物は自分で手に入れようと思って」
「ほしい、もの」
ぼんやりと反復する奈々に「そう、こうやって」と囁いて、崇は奈々の唇を自分の唇でふさいだ。キスをしながら崇にビールを取り上げられて、奈々は空いた手で崇の腕を掴んだ。
「…っ、」
ゆっくりと唇が離れると、奈々は崇の腕を掴んだまま薔薇色の吐息を漏らした。そしてぽつりと呟く。
「タタルさん、狡い」
「…何が? 嘘をついた事が?」
俯けていた顔を上げると、奈々は緩々と腕を伸ばして崇の唇に触れた。指先で濡れた唇をゆっくりなぞると、惑ったようにその唇がぴくりと震える。
「わざわざ嘘なんかつかなくたって、…私、ずっと、」
「え?」
もう待ちくたびれちゃうところでした、と花びらが舞うように微笑むと、奈々は指を離してそっと唇を重ねた。
「…君の方が、狡い」
口端を上げて笑うと、堪らないとでも言うように崇はガバリと奈々の唇を貪った。柔らかに侵入してきた舌が、奈々のそれと絡まり戯れる。ふわふわと身体じゅう痺れたような心地に、奈々は、肉食獣に喰われてるみたい、と、真っ白に染まってゆく頭の片隅で感じながら、崇の背中に腕を回したのだった。
-END-
▼この続きが前回更新した「君に溺れる」って事にしましょうかね(適当)。てへ。しかしタタルさん、嘘なんかついちゃってヤラしいなあ。もういっその事、表参道で襲っちゃえば良かったのに(はい?)。
何はともあれタタルさんお誕生日おめでとうございます!奈々ちゃんと素敵な夜を(^^)友情出演の熊崎さんと沙織ちゃんお疲れ様でしたー!(笑)
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