「…奈々くん」

 不意に名前を呼ばれ、奈々はそっと瞼を押し上げた。と同時に、慈しむように自分を見下ろす崇の微笑に、思わず昏倒してしまいそうになる。
 そんな事を思いながら奈々が瞬きをする間に、崇は鼻先を埋めるようにして奈々の耳朶を優しくついばんだ。やがて唇は首筋を這い、鎖骨を撫で、その手がやがて果物を剥くように容易く奈々のシャツの釦を外していく。

「あの、タタル、さん…」
「ん?」

 ぴたりと崇の動きが止まる。

「やめようか?…俺は別に、今やめても構わないけれど」
「…意地悪な事、言うんですね」
「そうかな」
「そうです」

 奈々が困ったような笑みを浮かべると、崇は弾かれたようにその笑顔を凝視した。

「すまない、前言撤回だ。…俺が、やめたくない」

 参ったな、などと呟きながら、崇は奈々に優しく口付ける。唇を舌でなぞると、微かに開いた奈々の口から甘い香りが零れた。僅か一時間前には、いつものようにただ並んで飲んでいただけなのに。単なる友人の『棚旗奈々』として。否、俺自身がこれまでそうやって心を鎧っていただけかも知れない、と、崇はぼんやりと考えた。


「ところで奈々くん」

 奈々の潤みきった隘路に、熱に浮かされた心地で腰を落としながら、崇は奈々の前髪を掻き撫でた。

「は、い…?」

 答える奈々の眼縁にほんのり朱がさしている。恥ずかしそうに睫毛を伏せた奈々に、崇は鼓動が逸るのを強烈に自覚させられながら息を吐き出した。

「奈々くん…、君は、俺を喰い殺す…つもりなのかな…、」

 言いながら、繋がったままの崇が身動ぎする。奈々は嬌声を押し殺すと、あえかな声で途切れがちに尋ねた。

「……っ、何ですか、それ…?」
「そんなに締めつけられたら…千切れてしまいそうだ。…建甕槌にもぎ取られた、建御名方の、腕、みたいに」

 口端を歪めて笑う崇に、もうっ、と奈々は頬を膨らませる。

「いくらタタルさんでも…こんな時にそんな話、無粋です」
「そうだな。すまなかった」

 でも君の所為だろう、と尚も言い募る崇の頬を両掌で挟んで引き寄せると、奈々はゆっくりと唇を重ねた。今夜こうして口付けるのは何度目だろう。その度に、互いの舌が絡まり縺れ、微熱が融け合ってゆく。

 やがて崇が激しく腰を打ち込むと、耐えきれなくなった奈々は柔らかな声で喘いだ。先刻まで崇の頬に添えられていた手は、いつも通りにボサボサの崇の黒髪を梳るように固く握りしめていた。

 夢中で崇の名前を呼んだ気もするし、自分の名前を呼ばれた気もする。刹那、ぢりり、と身体の一番奥が震えて、奈々は真っ白な波濤に呑み込まれるように果ててしまったのだった。



 目が醒めて、崇はふと傍らで眠る奈々を見た。白くなだらかな肩、ぴたりと閉じられた薄い瞼、ちいさな寝息。崇は毛布を引き上げると、露になった奈々の肩を覆った。

「タタルさん」
「…起こしてしまったかな」
「あ、いえ、さっき目が醒めました。起きるのが…ちょっと照れくさくて」
「何故?」

 崇の問いに、毛布を鼻先までかぶりながら、奈々が頬を紅潮させて言う。

「何故って…。昨夜の事はもしかしたら夢だったのかも知れない、なんて思って…でも、目が醒めたら本当にタタルさんがいらしたから。ああ、夢じゃなかったんだ…って」
「紛れもなく現実だ」

 ほら、と崇は奈々の頬に触れた。その頬は、熱でもあるのかと疑いたいくらい暖かい。

「俺は朝食を作る。君はそこで寝ていてくれていいよ」
「あの、私も何か」

 起き上がろうとする奈々を制して、崇はゆったりと笑った。

「じゃあ奈々くんには後朝の歌でも詠んでもらおうか、昨夜の記念に」
「記念って…! そもそも後朝の歌は男性が女性に贈るものでしょう? もうっ、揶揄うんなら私帰りますよ!」
「帰りたければ」
「…か、帰りたくないです」
「素直で結構。しかし君も平安貴族の風習に詳しくなったものだな。何年か前の君ならきっと『きぬぎぬって何でしたっけ?』などと言っていただろうにね」

 ニヤリと笑う崇に、奈々は拗ねたようにくるりと背を向けた。カーテン越しに舞い降りてくる仄かな陽光を、奈々は、くすぐったい気持ちで瞼を閉じて受け止めた。

-END-



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