ふわり、春風の薫りが鼻を擽る。奈々がふと面を上げると、八分咲きの桜の枝に指先を伸ばしていた崇と視線が合った。
「…綺麗ですね、桜」
「ん? ああ」
素っ気なく答えると、崇は何かを思い出したように睫毛を伏せて口許をふっと緩めた。奈々は不思議そうに長い睫毛に隠れた崇の瞳を見つめた。
「どうしたんですか、タタルさん?」
「いや、前に沙織くんと三人で花見に出掛けた事があっただろう? あの時は結局時間がなくてゆっくりと桜を愛でる暇がなかったなと思って」
「それは、タタルさんが『お花見』を途中から『平将門所縁の土地巡り』に変更してしまったからじゃないですか!」
もう、と奈々が呆れて吹き出すと、崇は「そうだったかな」と他人事のように呟いた。
今夜は外嶋の代理で(というか例の如く押し付けられた形で)研修会と称した学校薬剤師会の親睦会に真面目に参加していた奈々だが、珍しく出席していた崇に連れられ一次会の途中で抜け出してきてしまったのだった。
…そりゃあ、大先輩のおじ様おば様方と飲み食いしながら他愛もないお喋りに相槌を打つよりも、久々に会った崇と話をするほうが楽しいに決まっている…。
夜のしっとりとした空気を含んだ風が、奈々の髪を――それから崇のボサボサの黒髪を――柔らかに撫でた。
「あのお花見からもう一年経ったんだ…」
奈々の呟きが、ぽつりと夜陰に吸い込まれてゆく。聞こえたのか聞こえないのか、歩き出していた筈の崇は不意に奈々に向き直ると、奈々に向かって腕を伸ばした。
「え、あの、タタルさん?」
「髪に付いていた」
どぎまぎしながら何故か後退りしてしまった奈々に、そう言って崇が差し出したのは淡い朱鷺色をした桜の花びらだった。
「ありがとう、ございます…」
「奈々くん」
「はっ、はい!」
突然に名前を呼ばれて、奈々は頬を赤く染めながら崇を見つめた。
「次に君に会ったら連れて行きたいと思っていた場所があるんだ」
「えっ」
「奈々くんは酒豪だからね、あの店ならきっと喜ぶと思う。いつもの店とはまた違った雰囲気で、腕の立つバーテンがとびきり美味いカクテルを飲ませてくれる」
はい? と、ポカンと口を開けたまま崇を見やる奈々の手を静かに取ると、崇は可笑しそうに笑った。
「何処にせよ俺が自ら『連れて行きたい』と思うのは奈々くんくらいのものなんだが。…さあ行こう」
そのまま崇に手を引かれて、奈々はぼんやりしたまま歩き出した。何か、何か答えなければ、と思うけれど、崇は奈々の返事など別に気にしていないらしい。
――それならば、このまま。あと少しだけ、このままでいよう…。
奈々は緩む頬を戻しきれないまま、月明かりに照らされた桜並木の下、崇の手をちいさく握り返した。
-END-
▼私が書くとタタルさんがえらく格好良くなってしまう…なんかやたらと慣れた風に奈々ちゃんの手とか握っちゃうし(笑)。でもそういう部分は奈々ちゃんにしか見せない、そんなタタルさんであって頂きたいものです。