残業を終えて薬局を出ると、空は夜を湛えて群青色に沈んでいた。ひんやりと冷たい風が首筋を吹き抜ける。
 崇は僅かに身震いすると、これだけ冷えればそろそろ日光辺りの紅葉も見事だろうか、などと考えながら歩き出した。すると、その時。


「…タタルさん、」


 聞き憶えのある柔らかな声が、夜の空気を震わせた。崇は手持ち無沙汰にボサボサ髪の頭を掻くと、声のした方にじっと目を凝らした。やはり、其処に立っていたのは奈々だ。崇が「やあ」と軽く手を挙げると、奈々は崇が自分に気付いた事にホッとした様子で駆け寄り、申し訳なさそうに言った。


「こんばんは。…あの、ごめんなさい、急に押し掛けてきてしまって」
「いや、それは別に構わないんだが…。君がわざわざ俺の職場までやって来るという事は、もしかして外嶋さんか熊つ崎辺りに何か厄介事でも頼まれたのかな? それならこんな場所でなくても、薬局に入って待ってくれれば良かったのに」


 勝手な予断から苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる崇に、並んで歩きだした奈々がくすくすと笑って首を振る。


「いいえ、そんなんじゃないんです」
「それならば…」


 何故? と問おうとした崇の手に、奈々の指先がすっと絡まった。どくんと心臓が跳ね上がったのは、奈々の指が驚くほど冷たかったからか、それとも…。
 崇は僅かばかり眉をひそめて隣の奈々を見つめた。奈々は、白皙の頬をほんのり赤くしながらはにかんで呟く。


「会いたかったから、です」
「誰が、誰に?」
「…私が、タタルさんにです」
「君が…俺に?」


 弾かれたように奈々を見つめて尋ねる崇に、そうですよ、と奈々は答えた。だってタタルさん、どうせ電話したって捕まらないじゃないですか。だから会いに来ちゃいました、と。


「…ダメでしたか?」


 遠慮がちにこちらを見上げる奈々に、崇は息を落とすようにして笑って寄越した。群青色の夜の真上には、月が優しく佇んでいる。


「悪くは、ない」


 そう言って、崇は奈々の華奢な手をそっと握り返した。その手の冷たさが、自分を待ってくれていた時間の長さを思わせる。


「奈々くん、せっかくだから食事でもして帰ろう。寒い中待たせてしまったお詫びに今夜は俺が奢る」
「え、そんな」


 私が勝手に押し掛けてきただけですから、と慌てる奈々をぐいっと引き寄せ、崇はそっと耳打ちした。


「会いに来てくれたお礼だから君は気にしなくていい。…それとも、食事するだけじゃ物足りない?」


 サラリと揺れた奈々の髪の、甘い匂いが鼻をくすぐる。奈々の身長に合わせて身を屈めていた崇が離れると、奈々は耳まで真っ赤に染めながら「もう!」と頬を膨らませた。
 崇は、そんな奈々に向かってニヤリと笑ってみせると、緩やかに群青から濃紺へと移ろう夜空の下、再び奈々の手を握りしめて歩きはじめた。

-END-


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