いつだって、本当に欲しいものには初めから手が届くはずがないのだと自分に言い聞かせてきた。「月が欲しい」と泣いてねだる少年の話を聞いた時は、望めば月さえも手に入ると信じて疑わない彼を、遠く羨ましく思ったものだった。
未だにふと怖くなる。
いま自分が手にしているものが、いつか自分から離れていくのではないかと。いつか自分を置いて、泡のように消えてしまうのではないかと。
「加瀬さん、加瀬さん? おーい加瀬さーん! ……って、ねえ、ちょっと聞いてます?」
「ああ」
「じゃあ一体何なんですかその無反応無表情は! せっかく綺麗な顔してるのに勿体ない」
眼鏡を外して新聞から面を上げると、未紗が不満を目一杯みなぎらせて仁王立ちしていた。
「ご飯出来ましたよ。…あのですね、今日のはちょっと自信作です」
「本気か?」
「し、失敬な。それが休日の朝からキッチンに立って苦手な料理にいそしんだ彼女に言う言葉ですかっ」
これ見よがしにエプロンの裾を指先でつまんでピラピラはためかせながら、未紗が言う。
同棲を始めて半月ほど経つが、確かに彼女は料理が決して得意ではない。職場では直属の上司である俺の贔屓目を差し引いても、仕事は同期の(時には上層部の)人間を蹴散らす勢いで猛獣の如く勇ましくこなすのに、それより遥かに簡単なはずのジャガイモの皮剥きやエビの下拵え、揚げ油の温度の見極めやパスタの茹で方が何故あんなに下手なのか、俺には不思議でならない。
俺は一人暮らしが長いせいもあって、ある程度の家事は手際よく済ませられる自負がある。料理にしても、未紗が作るそれよりは確実に速いし旨い事はわかっている。
…が、それでも、必死の形相でぎゃあぎゃあ喚きながらキッチンを散らかす彼女を眺めるのは愉しい、と、思う。
「美味しいですか、加瀬さん」
そんな彼女の作った料理に箸を運ぶ俺に、おずおずと未紗が尋ねる。
「……」
「え、ま、不味いですかっ?」
「……」
「あちゃー…何か失敗したかな…塩と砂糖入れ間違えちゃったとか?」
「……」
「あああごめんなさい、作り直しますもおおあたしのばかー」
「…おい、少しは咀嚼する時間をくれ」
ごくり、水を飲むと、俺はしょんぼり項垂れる未紗の頭をパシンとはたいた。
「美味しいよ」
途端、ぱあっと花が咲き零れるように未紗は笑う。ホントですか? ホントにホント? と重ねる未紗が可笑しくて、俺はつい声を上げて笑ってしまう。
料理なんて、苦手なら得意な人間に任せるか外に食べに出るかすれば済む話であって、そんなに一喜一憂する程の事じゃない。
なのに、彼女はこんなにも。
「お前って面白いよなぁ」
「何がですか?」
「いや、何でもない」
ふと、彼女が自分なんかの為にこんなに一生懸命になってくれる事が嬉しいのだ、と気付く。そして同時に怖くなる。
「未紗」
ふぁい、と、出汁巻き卵を頬張りながら未紗が間抜けな返事を寄越す。
「お前には、ずっとそのままお前らしくいて欲しいよ、俺は」
「へ? 何ですか急に」
「…ま、俺がお前にそれを強要する権限はないよな。今のは忘れてくれていい」
ふと我に返って流そうとした俺に、未紗は真っ直ぐに視線を突き刺してくる。こちらが震えそうになるくらい、真っ直ぐに。何秒間そうしていただろう。未紗はふっと息を落として目を細めた。
「んもう、まだまだダメですね加瀬さんは。あたしは、あなたが望むなら何だってやれるんですよ? 今まで出来なかった事にも挑戦するし、知らなかった事は勉強して理解する。行けずにいた場所にだって行ってやりますよ。…加瀬さんを嫌いになる事以外なら、あたしは何だって出来るんです」
ニヤリ、不敵な笑みを浮かべる未紗が堪らなく愛おしくて、俺は不覚にも泣きそうになる。ああ、欲しいものは手に届かないと言い聞かせ続けた幼い自分に、耳打ちしてやりたい。
――お前は将来、何よりも得難いものを手に入れる事が出来るぞ、と。
「ありがとう」
掠れた声で呟いた俺に、どういたしまして、と、慈しむような表情で未紗は笑った。
-END-
▼God bless you!
┗煩悩/「君が望むなら」