title:カカリア
人波のざわめきに紛れてゆるやかにジャズが流れる店内で、仕事を終えたあたしと加瀬さんは小さく乾杯した。
「ひとまず無事に校了できましたね。お疲れ様でした」
「ご苦労さん。お前、この案件で何日徹夜した?」
「完徹したのは一日だけですけど…午前様は一週間くらい続きましたかね」
あたしの携わっている仕事はアイディア勝負な部分が大きい分、閃きの神様が降りてくるまでは自分の頭の中だけでじりじりと煮詰めていくしかない事が多かったりする。
それを知っている加瀬さんは――何故なら加瀬さんは、あたしの直属の上司だから――あたしのここ数日の奮闘ぶりを思い出したように微かに笑った。
「うん、アレはいい出来だった。反響が楽しみだな」
「はいっ」
注文していたエビとアボカドのサラダが運ばれてきた。あたしは手元のシャンパンを飲み干すと、小皿に取り分けたサラダをパクッと食べた。
「あー…生き返る…」
「お前、まーたまともに食わずに無理したな? ちょっとぐらい無理すんのは仕方ないにしても、その分ちゃんと食えっていつも言ってるだろうが」
「んあ、すみません」
次に運ばれてきたのはポルチーノソースのパスタだ。キノコたっぷりなソースのいい匂いを思いきり吸い込むと、ほっこり気分で味わいつつ、加瀬さんをちらりと見やる。目が合うと、加瀬さんは口端だけを歪めて笑った。
…ああ、いつ見ても男前。仕事では鬼のように厳しい上司だけど、職場を離れたら、穏やかで優しい人なのだ(口だけは死ぬほど悪いけど!)。こんな人が彼氏だなんて、未だに、あたしが一人で見てる夢なんじゃないかと思う時がある。
――と言っても、付き合い始めてからまだ日は浅い。お互い「まだ話してなかったっけ?」みたいな事がふっと話題に上がったりする。
「そういや未紗、お前って一人暮らししてないよな? 実家から出た事なかったりする?」
ウェイターにシャンパンの追加を告げると、加瀬さんがあたしに聞いた。
「はい、ずっと実家住みです」
「そ。…あ、ちゃんと家に食費とか入れてんだろうな? お前ホントよく食うからなぁ」
「入れてますよ! って言っても、微々たる額ではありますが…」
両親が健在なのもあって、どうしても甘えが抜けきらないと自分でも思う。給料から僅かばかり入れてはいるけど、どうなんだろう、世間の相場ってやつがよくわからない。
「家出たいなーとか思った事ない訳?」
「思います思います。今回みたいに午前様になっちゃう時あるし、夜中にこっそりひっそり家に上がって物音立てないようにお風呂入ったりするのも面倒だし家族に申し訳ないなぁって。妹、今年受験生だったりするし」
…そう。10近く離れた妹は、今年が大学受験なのだ。あたしの数倍しっかり者のあの子なら問題無いとは思うけど、妹が受験勉強を頑張ってる最中に帰宅して中断させてしまうのはやっぱり気兼ねする。
そんな事をモヤモヤと考えていたあたしに、加瀬さんがぽつりと爆弾を投下した。
「じゃあウチに来い」
「……はっ?」
「俺んち住め」
「…はあっ?」
「嫌ならいいけど」
「いや、いやいや、いやいやいや、嫌とかじゃなくて! 加瀬さん自分が今何て言ったかわかってます!? あたしに加瀬さんちに住めって言ったんですよ!? つまりは『未紗、俺のために毎朝味噌汁作ってくれ』って言ったんですよ!?」
「…最後おかしいだろ、この妄想族。とりあえず落ち着け」
突拍子もない加瀬さんの申し出に混乱するあたしを、ぶは、と息を落として加瀬さんが笑う。
「あ、はい、すみません」
「味噌汁云々はともかく、家から出てみようと思ってるなら考えとけ。一緒に住む事にするんだったら、ちゃんとお前んちに挨拶に行くから」
「えええっ? 『お義父さん、お嬢さんを僕に下さい!』的な?」
「馬鹿。それはお前がもっと花嫁修行を積んでから。それにお前はモノじゃないし」
ついつい興奮してしまうあたしの頭をスパンと叩いて、加瀬さんはシャンパンを口に運んだ。そして、なんとなく寂しそうな表情で柔らかに笑う。…ああ、まただ。時々、加瀬さんはこんなふうに寂しげな顔をする。
――まだまだ加瀬さんについて知らない事がたくさんある、と、あたしは実感してしまう。
加瀬さんの事をこんなに好きで、勢いだけでぶつかって。…こんなあたしだけど、加瀬さんの胸の内を無理に暴いてまで覗き見たいとは思えなかった。でも、もし、加瀬さんが話してくれるなら。知りたい。そう思ってしまう自分がいるのも確かな訳で。
「よし、食べましょう! 加瀬さん全然食べてないじゃないですか。あ、ワイン頼んでいいですか?」
「いいよ。俺も飲む」
「了解!」
あたしは頭の中の靄を蹴散らすように気合いを入れ直すと、メニューに並んだワインから加瀬さんが好きそうなものをじっくりと吟味し始めた。
- - -
「あの、加瀬さん」
お店を出て、キラキラと街の灯りが瞬く道を並んで歩きながら、あたしはそっと加瀬さんの手を握りしめた。握り返されて、指先から幸せな温度が伝わってくる。
「ん?」
「加瀬さんは、ご実家、何処なんですか…?」
その温もりに背中を押されるように、あたしはぎこちなく尋ねてみた。たかが出身地を聞くだけで、こんなに緊張しちゃうあたしが可笑しいのかもしれないけど。
「実家ってか、生まれたのは鹿児島。高校の頃まで住んでたよ」
てっきり東京とか神奈川とかかな、ぐらいに思っていたあたしには驚きの回答だった。九州だなんて、行った事がないせいで遠い遠い未知の場所だ。
「鹿児島? えと、じゃあ加瀬さん『おいどんが加瀬修一でごわす』とか言ってたんですか?」
「言わねぇよ馬鹿。俺世代だと訛りが鹿児島訛りなだけで、言葉自体はあんまり特殊じゃないと思う。爺さん婆さんの話してる事は、時々まったく通じなかったりはするけど」
「そうなんですね…。あたし、加瀬さんが鹿児島出身だなんてちっとも知らなかった…」
「そりゃ言ってないからな。誰だってそんなもん公表して歩かねえだろ、普通」
こんな時いつも思う。あたしは加瀬さんの事を何も知らない、って。あたしの心を透かし見たように、加瀬さんがあたしの頬をむぎゅっとつねった。
「あ、でも、ご両親は今も鹿児島に住んでらっしゃるんですよね?」
「……未紗」
不意に、加瀬さんがあたしを呼んだ。低く静かな、あたしの鼓膜を溶かすような声で。
「はい」
「キスしていい?」
加瀬さんが柔らかに笑う。あたしは瞠目して視線を宙にさまよわせた。
「へっ、ええっ、あの、はい。こんな場所でアレですけど、さっきの質問、」
「ちゃんと答えるから。キスさして」
「ふ、ぁ」
あたしの返事なんてお構い無しに、加瀬さんはあたしにキスをした。ちゅ、と音がする軽いキスの後、熱い唇が覆い被さってくる(あの、一応ここフツーの道端なんですけど!)。
「…俺の実家はもう無いんだよ」
とん、と体を離した加瀬さんが、静かに語り始めた。
「俺が高校生の頃、両親が揃って交通事故で死んだから。それから俺は東京の祖父さんに引き取られたんだけど、その祖父さんももう亡くなってる。だから俺には、実家って呼べるような家は、もう、無い」
「…すみません。思い出したくない事、話させちゃった、かも…」
俯いたあたしの顎を、加瀬さんがぐいっと持ち上げる。榛色の双眸が、じっとあたしを見つめている。
「そんな事ない。未紗には、いつか自分で話したいと思ってたから」
「あたし、加瀬さんの事全然知らなくて…知りたくて、あの、ほんとに」
「いーから」
「…ごめんなさい…」
「あのな。別に実家が無いから不幸だとか、両親と死別してるから不幸だとか、俺自身はあんまそんなふうに思い詰めてないから。鹿児島だって、いつか帰ってみようかなとは思ってるし」
「そうなんですか?」
ああ、と頷くと、加瀬さんはあたしの手を繋ぎ直して歩きだした。
「桜島って知ってるよな? そう、噴火回数がどうのこうのってニュースでやってる活火山な。アレ、噴火して火山灰が降るのだけは頂けないけど、見てると不思議と落ち着くんだよ。佇まいが雄大というか、格好良くて」
記憶を手繰り寄せるように話す加瀬さんの口調は、いつもよりちょっぴり少年っぽい。――確かに辛い記憶も残っている場所かもしれないけど、それだけじゃない、というのがあたしにも伝わってきて、なんだか嬉しくなってしまう。
「温泉も多いし、焼酎も美味いし。あとは歴史好きなら見所も多いかもな。西郷隆盛自決の地、なんて洞穴もあったりする」
「島津家関連の史跡は!? あたし薩摩の偉人だと、島津義久と大久保利通が好きなんです」
「お、意外。歴史って言ったら女子は新撰組か坂本竜馬に走るかと思ってた」
「いや、勿論そっちも好きですけど。新撰組だと斎藤一ですね!」
「…まあ、とりあえず」
熱っぽく語り出しそうなあたしを制するように、加瀬さんはあたしの頭をポンと撫でた。あたしはあたしで、さっきまで項垂れてたはずなのに、と自分でも自分に呆れつつ加瀬さんを見上げる。
「あ、はい」
「お前は、何をさておきこの土日で俺と住むか否かを真面目に考えるように」
「了解です。…んで、加瀬さんはこの土日は何するんですか?」
「お前がどーしても俺と一緒に住みたくて堪らなくなるように、二日間かけてお前を洗脳する」
「んなっ」
加瀬さんは、ニヤリと笑ってあたしの唇を親指でなぞった。ぞくり、甘い疼きが体じゅうを駆け巡る。
「ま、そんな事しなくても、お前の答えは『加瀬さんちに住みたい!』一択だとは思うけど」
「わっかりませんよー? ちゃあんと洗脳してくれないと、ヤダって言っちゃうかもしれません」
わざとらしく言ってはみるものの、全くもって加瀬さんの言う通りだ。あたしはくふふと含み笑いを漏らすと、加瀬さんの腕にえいっとばかりに自分の腕を絡めたのだった。
-END-
▼蜜月様へ
┗君のふるさとが知りたい
▼あとがき(2012.09.20)
はい。わたしのふるさと(というか住んでるんですが)は鹿児島です。意外な人物をわたしの大好きな鹿児島出身にしたくて、こんなお話になりました。書けて幸せです。本当はもっとローカルネタで踏み込みたかったんですが、あまりにマニアック過ぎてもいけないと思い直しました(笑)。
管理人様、久し振りの参加をご快諾頂きありがとうございました!