春の終わりを告げるように、桜の花びらが夜風に吹かれて降りしきる。柔らかな朱鷺色を水で暈(ぼか)したようなそれは、夜の静寂(しじま)にあわあわと、浮かんでは、融けてゆく。

 崇と奈々は、肩を並べてカル・デ・サックからの帰り道を歩いていた。喧騒は遠く、暖かな静謐さに包まれた春の夜だ。
 舞い散る途中で自分の肩に貼りついたらしい桜の一片(ひとひら)を指先で摘んで見つめると、奈々はぼんやりと立ち止まり「雨みたい」と、呟きを零した。隣を歩いていた崇に、聞こえるか聞こえないかくらいのちいさなちいさな声で。


「…奈々くん?」

 不意に歩みを止めた奈々を、靴音を鳴らして崇が振り返る。奈々は夜の帳に降る花びらの雨にそっと手を伸べた。

「桜ももうじき終わりですね」
「ああ」
「今夜にでも風が吹いたら全部散っちゃいそう。…勿体無いですね」

 後は散ってしまうばかりの満開の桜より、五分咲きほどの桜が奈々は好きだ。散っていく桜は尚のこと、儚く、淋しい。

「明日ありと思う心のあだ桜――か」

 桜の木を振り仰ぎ、崇がぼそりと言った。

「それは…和歌でしょうか? どなたの?」
「『明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは』――親鸞が9歳の時、得度前夜に詠んだとされる歌だ」
「親鸞と言うと、浄土真宗の開祖の?」
「そうだ。治承5年、既に両親と死に別れていた親鸞は、京都の青蓮院で得度すべく慈円和尚の元を訪れた。しかし到着した時点で夜も更けていたため、慈円和尚が得度の儀式を執り行うのは明日にしようと申し出た。すると親鸞はこう詠んだそうだ。『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』…『明日桜を見ようとしても、今夜じゅうに嵐が来て桜は散ってしまうかもしれない。この桜と同様、明日のことは我々人間には分からない。だからこそ今、得度させて欲しいのだ』と」
「まあ、たった9歳で?」
「勿論この話は、後世の信徒たちが親鸞上人を讃えるために生み出した伝説のひとつに過ぎない。だが、この歌が謂わんとすることは理解できなくもないな」
「…そうですね。誰もに等しく明日が訪れるかどうかなんて、きっと神様にも仏様にも分からないことでしょうから」

 伏し目がちに奈々が言うと、崇は訝しげに奈々の顔を覗き込んだ。

「奈々くん?」

 どうした、と穏やかに問う崇に答えあぐねて、奈々はただ首を振った。

「…何でもないです」
「こんな表情(かお)をして言う台詞じゃないな」

 崇が、指先で掬うようにしと奈々の頤(おとがい)を持ち上げ言った。ぱちん、と泡沫がはじけるように視線がぶつかる。崇は困ったような愉しんでいるような、奈々には読み取れない笑みを浮かべていた。奈々は瞼を伏せつつ言った。

「タタルさんは、どうなのかな、と思って」
「…君にしては歯切れの悪い言葉だね。――俺がどう、とは?」
「それは…」

 崇の手が添えられた箇所が、かあっと熱を帯びて朱に染まっていくのが自分でもわかる。

「私、あの日からずっと、嬉しくてどうしようもなくて…まるで子供みたいに夢見心地で…。でもタタルさん、今までと何も変わらず冷静なままで、ちっとも私みたいに浮かれてるように見えなかったから…ちょっぴり恥ずかしかったんです」
「恥ずかしかった? 何故?」
「だって…なんだかタタルさんと一緒にいられることに舞い上がってるのは、私ひとりだけみたい、って」

 先の伊勢旅行から無事――危うく命を失いかける局面もあったけれど――帰り、その数日後に崇から結婚を申し込まれたのが半月ほど前。それからの奈々は、日常生活(殊に職場で)は変わらず平穏に過ごしているものの、こうして崇とふたりきりで『恋人(もしくは婚約者)同士』として会う時間にまだ慣れる事が出来ず、崇と会うたび面映ゆさと緊張とでソワソワと落ち着かないのだ。

 …―それに。

 奈々は、じわりと視界が歪むのを唇を噛んで堪えながら思う。

 タタルさんに、早く恋人として触れて欲しいと願っているのは私だけなのだろうか。タタルさんは、私に触れたいとは思わないのだろうか。そんなふうに考える私を、タタルさんははしたないと軽蔑するだろうか…。

 しばらくの沈黙の後、俯いたままふるふると首を振ると、奈々はすばやく指先で涙を拭った。面を上げ、崇に心配をかけまいと笑ってみせる。

「なんだか変なこと言っちゃいました。すみません」
「いや、奈々くん、君は――」

 何かを言いかけた崇のボサボサの黒髪に、桜の花びらが引っ掛かる。奈々は、それを見留めてぎこちなく腕を伸ばした。

「タタルさん、髪に、桜が」
「構わない」

 ふっと眉尻を下げて、崇が微笑んだ。奈々はどうしていいかわからず動揺してしまう。

「あ、あの、タタルさん?」

 崇は何も言わず、指先で奈々の前髪を払うと、露になった額に優しく唇を押し当てた。

「!」
「あの時は、これが精一杯だった」
「……」
「あんなにも『死なないこと』に執着したのは初めてだった。君に、生きて再会したいと――少なくとも君にだけは生き延びて欲しいと――神にすがるように願ったのは、生まれて初めてだった」
「私は…悔やむ気持ちでいっぱいでした。どうしてあの時、あなたの手を離してしまったのだろうって。あれでもし自分だけが助かっていたら、今頃私は、私は…」

 瞳を、高波の揺らぐ海のように潤ませて言葉に詰まる奈々を見つめ、春の夜に凛と響く声で崇が言った。

「大丈夫。今、俺はこうして君のすぐそばにいる。誰よりも近くに」
「……っ」

 崇の名を呼ぼうと開きかけた奈々の唇は、温かな唇に音もなく塞がれた。やがて僅かに唇が離れた拍子に、奈々が「誰かに見られたら!」と抗議しようとするのをわざと無視して、崇は再びその唇に口付けを落とす。ゆるゆると角度を変えながら深く柔らかに重ねられる唇に、奈々も、溺れるように応えてゆく。

 長いキスの後、奈々は緊張の糸がほどけたようにくたりと崇に凭れかかった。崇が優しくその肩を抱く。

「人間とは欲深いものだね。伊勢から戻って…君に結婚して欲しいと告げたあの瞬間、俺はこれから先の人生を君のそばで過ごせればそれでいいと思っていたはずなんだ。なのに、君と一緒にいればいるほど君のすべてを奪いたくて堪らなくなる。どんな表情も仕草も見逃したくない、出来れば俺以外の男には見せたくないとさえ思う。…今までこんなに強く人を求める事がなかったから、俺自身、こんな自分に戸惑ってもいる。そして、この想いが君を傷付けはしまいかと不安でもある」

 苦々しく言った崇の手に、奈々はそっと自分の手を重ねた。そして、眉根を寄せる崇を包み込むように、慈しむように柔らかに微笑んだ。

「…良かった。私も、タタルさんのこともっと独り占め出来たらなって思ってたんです」
「え?」

 驚いたように目を瞠(みひら)いた崇の手をそのまま握りしめると、奈々はまっすぐにその瞳を見つめつつも悪戯っぽく言う。

「ねえタタルさん、私が、今夜はまだ帰りたくないって言っ、」
「――奈々」

 言いかけた言葉を遮るように、崇が奈々をぎゅっと抱きすくめた。

「俺だって同じ気持ちなのに、この先を君に言わせる訳にはいかない。…はあ…俺は情けない男だな。今のやり取りを熊つ崎あたりに聞かれたら、一生バカにされそうだ」
「まあっ、そんな」

 頭をぐしゃぐしゃと掻く崇を見て、奈々がくすっと軽やかに笑った。

「行こうか」
「……はい」

 緩く繋いだ指と指の隙間を、ゆららかに春の夜風が吹き抜けた。その柔らかな風は奈々の朱鷺色に火照る頬を優しくくすぐり、そして、音もなく桜の花びらを宙に舞わせた。

 ふたりの真上に宿った上弦の月は、藍色の夜空で、福音を囁くようにゆったりと、ふたりの歩く夜道を照らし出している。

-END-

▼special thanks!
 ┗森伊蔵様「花影」収録

▼あとがき。
 「伊勢前後のふたり」というテーマで、盟友・森伊蔵さんのタタ奈々本「花影」にてゲストとして書かせて頂きました!
 あれだけ牛歩だった人たちなので、プロポーズ後も一筋縄では行かないのでは…との思いからこんなお話が出来上がりました。やっぱり奈々ちゃんが頑張らないといけないという…タタルさん、もうちょっとしっかりしてくれよ…(・ω・`)(笑)
 森さん、お誘い頂きありがとうございました。本当に、感謝感謝です!



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -