構内の隅などで、鮮やかなオレンジ色の透百合(すかしゆり)が咲き誇る頃。
 織姫と彦星が一年に一度の逢瀬を心待ちにしている七夕だというのに、錫色(すずいろ)の雲が厚く覆いかぶさっている空の下、明邦大学・オカルト同好会室にて――

 奈々は、同好会室から借りたままになっていた本を返しに、古びて軋むドアをそっと開けて中へと入った。
 長いあいだ誰にも読まれる事のなかったであろう本たちの黴臭さが、スッと鼻先を掠める。薄く埃の積もった本棚に、思いっ切りハタキをかけてやりたくなりながら――というか、次に来る時は掃除用具持参で来ようと密かに決意しながら――手元の本を返すべき場所を探していた時。


「…奈々くん?」
「きゃあっ!」

 誰もいないと思っていた場所で不意に名前を呼ばれ、奈々は甲高い声を上げ肩を竦めてしまった。

「驚かせてすまない。俺だ、桑原だ」

 年季の入った革張りのソファからぬうっと上体を起こしたのは、相変わらずボサボサの髪にヨレヨレの出で立ちの桑原崇だった。学内でも悪い意味でよく目立つ桑原崇その人は、奈々にとっては薬学部の先輩であると同時に、オカルト同好会の会長でもある。

「ああ、タタルさんでしたか…。ごめんなさい、誰もいないと思っていたので変な声出しちゃいました。でもタタルさん、こんな時間までどうしたんですか?」

 ほっと安堵の息を吐いた奈々に、ボサボサ頭をぐしゃりと掻きながら崇が答えた。

「昼寝しようと思っていただけなんだが…どうやら寝過ごしてしまったらしい。奈々くんのおかげで目が醒めた。君が来なければ、俺はこんな場所で一夜を過ごしてしまうところだった」
「まあ、そんな」

 大真面目な表情で淡々と話す崇が可笑しくて、奈々はつい吹き出してしまう。崇は気に留める様子もなく、奈々が手にしていた本を見て言った。

「『七夕に隠された謎』か。俺も暇潰しに読んではみたが、娯楽としてはなかなかだったものの収穫はいまひとつだったな。…何故君がこの本を?」
「ああ、7月7日の七夕はわたしの誕生日なんです。だから『七夕』と見るとなんだか気になっちゃって。それで、こないだ此処へ来た時に借りてみたんです」
「そうか、そうだね。君は聖数の重なる『7』月『7』日生まれの『奈々』くん…だからな」
「はい。でも…地上はあいにく今にも雨が降りだしそうですけど、織姫と彦星は雲の上で会えるでしょうか…」

 ふと奈々が呟くと、崇は憮然とした顔付きで奈々を見つめた。

「また君はそんな事を。君は、本当の七夕を知らないから呑気な事が言えるんだろうな」
「……えっと、難しい事はわかりませんけど、せっかくだから織姫と彦星が会えたらいいなって。七夕が自分の誕生日だからか、どうしても贔屓しちゃうんですよね」
「まあ、君らしいと言えばそうかもしれないが」

 崇の言葉に動揺する奈々に、それ以上追究するような事は言わず、崇は奈々の頭にぽんと手を置いてちいさく笑った。

「せっかくの君の誕生日だ。こんな場所にいないで早く帰らないと、家族や友人が祝う準備をして君の帰りを待ち構えているんじゃないか?」
「まあ。わたし、もうそんな子どもじゃありません」

 奈々は口を尖らせて反論しつつ(とは言え、家に帰れば両親と妹が祝ってくれるというのは図星だったのだが)、彼自身の関心が向くもの――専攻している薬学はともかく、歴史学や民俗学など――以外には全くの無反応のはず、と思っていた崇の意外な言葉に少し驚いていた。
 そんな奈々を余所に、崇は更に言葉を重ねる。

「でも、俺なら」
「えっ?」
「…俺が君の家族なら、毎年七夕の日はきっと、君がこの世に生まれ落ちてきた事を心から祝福すると思うよ。君がいくつになっても、ね」

 低い声で囁くと、崇は奈々の髪をさらりと撫で、その指先をそのまま耳、それから頬、そして唇へと滑らせた。

「タタル、さん…?」
「誕生日おめでとう」
「あ、ありがとうございま」

 す、と言ったところで崇の唇がそっと奈々の唇に触れた。しかし嘘のようにすばやく、次の瞬間にはその唇は離れていた。まるで蝶々が、ほんの気紛れに花冠に触れただけのような、刹那。

「あ、あの、えっと、タタルさん?」

 触れ合ったらしき唇が、感電したようにビリビリと震えている。頬が熱い。
 今のは、と問いたいけれど勘違いだったら…と躊躇する奈々に、崇はぽつりと言った。

「帰ろう。駅まで送るよ」

 奈々の手から抜き取った本を棚に戻して、崇は穏やかに微笑んでいる。何事もなかった、或いは、今の出来事は完全にふたりだけの秘密だとでも言うように。

 凛、と、世界の端で咲き誇る透百合が風に揺れた。奈々の心のようにゆららかに、切なげに――


 


 明邦大学は、基本的にはいつだって平和なのである。

-END-

――XX年後
「まあっ、あの時の事、崇さん憶えてらしたんですね!」
「だから『いくつになっても』、と言っただろう?」
「ええ、そうでした。………ごめんなさい。本当は、わたしの聞き違いかと思って疑ってました」
「……仕方ないな、俺が悪い」
「でも崇さん、『俺が君の家族なら』っておっしゃってましたから。やっと家族になれたんですから、これからは毎年ちゃあんと守って下さいね?」
「肝に銘じる」
「はい。って、やっ、ぁ…、ちょっと崇さんってば…!」

(桑原家は、基本的にはいつだって平和なのである)


▼あとがき/2012.07.07
 はい、奈々ちゃんお誕生日おめでとう小説でございました。
 以前書いたタタルさん誕生日小説「梅花咲く頃」のその後、という感じにしてみました。えー、すこーしだけ進んだんです。何がって? タタルさんのセクハラ度合いがです!(爆)
 エロスが足りないよ、とおっしゃる男爵様ファンの皆様。最後の2人の会話をよく見て下さい。奈々ちゃんがタタルさんを『崇さん』って呼んでるって事は、ええ、2人は今ハダ(以下略)



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