『…姫、』

 優しい声がして、お姫さまはそっと瞼を押し上げました。柔らかな春の陽射しが、世界を包み込んでいます。さわさわと吹き抜けるのは、あたたかな春の風。
 ゆっくりまばたきをしてみますが、やっぱりあたりには誰もいません。

「あれ? さっきの声は…」

 お姫さまが呟きながらふと視線を落とすと、その先に、作りかけの白詰草の冠がありました。どうやらお姫さまは、白詰草で冠を編んでいるうちに眠ってしまっていたようです。

「きっと素敵な夢、だったんだけどな」

 目覚めた瞬間、ぱちんとしゃぼんが弾けるように消えてしまった夢。もうすでに思い出せません。

 お姫さまは残念に思いつつ、仕方なしに立ち上がりました。ぱたぱたとドレスの裾をはたき、空を仰ぎます。気持ちよく晴れた空。深呼吸すると、春の草いきれとおひさまの薫りが体を満たしてゆきました。

「いーいお天気…。また眠たくなっちゃいそうだわ」
「そうですね」
「はひゃあああっ?」

 突然声を掛けられて、お姫さまはおかしな声を上げてしまいました。

「こんなところにいらっしゃったのですね、姫。お部屋にいらっしゃらなかったので心配いたしました」

 お姫さまが振り向くと、そこにいたのはお姫さま付きの執事でした。彼は、お姫さまが生まれた頃からずっとお姫さまと共に過ごしている青年です。

「ごめんなさい。戻っていたのね」
「ええ、先程。予定より遅くなってしまい申し訳ございません」

 執事はそう言うと、折り目正しい流れるような仕草で頭を下げました。彼はお姫さまの父上である王さまにご用を言いつかったとかで、昨日から屋敷を空けていたのでした。

「おかえりなさい」
「良い子にしておられましたか、姫?」
「失敬ね、当然でしょうっ」
「冗談ですよ」

 ふふ、と形の良い唇を持ち上げて執事が笑います。お姫さまはぶうっと頬を膨らませると、執事に背を向けました。

 その時、ぶん、と小さな翅音が耳を掠めたかと思うと、お姫さまの肩に真っ赤なてんとうむしが止まりました。

「おや。てんとうむしは天の使い、止まった者へ幸せを運ぶとも申しますね」
「…まあ、そうなの?」

 その小さな虫を驚かさないように、お姫さまは声をひそめて聞き返しました。執事は頷くと、てんとうむしが飛び去ってしまうのも構わずお姫さまを軽々と抱き上げました。いつも「子ども扱いしないで」とお姫さまは言うのに、彼はちっとも聞いてくれないのです。

「さあ、昨日私がいなくて寂しい思いをなさった分、今日はどのような我儘も私が叶えて差し上げますよ。――私だけの可愛い姫君」

 そう言って、執事がにっこりと笑います。思わず言葉に詰まってしまったお姫さまの頬を、春風がふわりと撫でていきました。

「それなら、そうね、とびきり美味しいお茶が飲みたいわ。それから、チェスとクロッケーに付き合う事。わたしが勝つまでよ?」
「はい、かしこまりました」

 お姫さまは満足して、執事の頬にそっと唇を寄せました。
 いつもはしんと冷たい頬が、そこだけ春の木漏れ日を浴びたようにあたたかくなったのは、お姫さまと執事と、それから春風だけの秘密です。




special thanks!/春野明日香様

-終-



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