ばさ、と何かが落ちた物音でわたしは目を醒ました。ゆっくり瞼をしばたいて辺りを見渡す。
「まだ眠ってていいですよ」
ぼんやりと靄がかかった頭にふいに声をかけられて、わたしはようやく現実に立ち返った。…そうだ、此処は学校の図書室だ。図書委員長のわたしは、副委員長の後輩男子と一緒に、司書の先生に言付かって書架の整理をしていたはずなのだ。
「笹野、ずっとやってたの」
「はい。先輩が途中で仕事サボって眠りこけちゃうもんだから、ほとんど僕一人でやりました」
「ああ、ごめん」
気持ち込もってないなあ、と軽やかに笑いながら、笹野は梯子を降り、落下した本を拾い上げた。
窓の外は、ざあざあと降り続く雨。今日は朝から一日じゅう雨模様で、視界はまるで銀鼠色のインクに浸されているみたいだ。
笹野が、拾った本を元の位置に直しながら背中越しに言った。
「あとは政経学の棚の整頓で終わり、っと。ついでに僕が終わらせますから、先輩は引き続き寝るなり起きて体操するなりご自由にどうぞ」
「…助かる」
素直に甘えることにして、わたしは笹野のブレザーの背中を見つめた。藍色の背中。柔らかそうな猫っ毛が、湿度を帯びてふわりと巻いている。慣れた仕草で、笹野は手際よく本を整理していく。
しかし司書の先生も、何もこんな雨の日に蔵書整理を押し付けなくても、と、わたしが思った時、笹野がくるりと振り返った。
「先輩」
「何」
「やっぱり眠ってて下さい」
「なんで」
脈絡がないというか、掴みどころがないというか。この後輩はいつもそうだ。
「先輩が寝ててくれれば、その隙に先輩を僕の好きなように出来るから」
にっこり、怖いものなどこの世に何一つ存在しないかのように笹野は笑う。
ぱたぱたと軒を滑り落ちる雫の一音一音さえも聞き分けられそうに、辺りは静まり返っている。わたしたちは、雨音の檻に閉じ込められていた。
降り頻る雨は、このまま世界を溶かしてしまうつもりだろうか。わたしは目を逸らせずに笹野を見つめた。笹野もわたしを見つめている。黒い、静謐な瞳。
「…何するつもりよ」
「大丈夫、痛くも痒くもありません」
「いや絶対お断りだし」
「残念だなぁ」
こうしたかっただけなのに、と低く呟いたかと思うと、笹野のその唇はふわりとわたしの頬に触れた。
「なっ」
「ね、痛くも痒くもなかったでしょ?」
僕はずっと前からこうしたかったんですよ、と言って、笹野はまた背中を向けた。さっきと変わらない手つきで仕事を再開する。
ぽかんとしつつ、やっぱり、という気にもなってくる。やっぱり笹野はわたしが好きだったのか、と。これまでくすぐったいような気持ちで笹野と向き合ってきたのは、単なる自惚れではなかったのか、と。
「…さて先輩、帰りましょうか」
仕事を片付けたらしい笹野が、図書室の鍵をわたしに投げて寄越した。施錠くらいは委員長がやれと言いたいらしい。
「ねえ先輩」
「何よ後輩」
「今日は僕一人で馬車馬のように必死に働いたんですからね。勿論、ご褒美があるんですよね?」
ネクタイを緩めながら、笹野は口元を歪めて笑った。
「ごほーび」
「そ。…でもあんまり意地悪するのも可哀想なんで、今日のところは相合傘くらいで我慢してあげましょう」
ばん、とジャンプ傘を広げて笹野はわたしの腕を掴んだ。開きかけたわたしの傘は、無言のまま閉じられてしまった。
肩を並べて歩くわたしたちの頭上で、弾ける雨粒が優しく歌う。
「てか先輩、やっぱり僕の事好きだったでんすね」
「何よそれ。…そっちこそ」
「負けず嫌いだなぁ、先輩は」
「笹野アンタね…」
わたしががくんと項垂れると、笹野はふと歩みを止めて呟く。
「佳高、です」
「…ヨシタカ、ね」
「知らなかったんですか、僕の名前。可愛い後輩の名前も知らないなんて、酷い先輩がいたもんだ」
知ってたし何度か呼んでみようと思った事はあったけどね、…なんて言葉は雨音に隠して、わたしの胸の中だけにしまっておく事にした。
-END-
▼God bless you!
┗雨音/「眠ってていいよ」