静かに雨が降りだした午後、ドアに提げられた鐘の涼やかな音が、店内に来客を告げた。
「おや、珍しいですね、こんな時間に」
入ってきた男性客の顔を見て、マスターの弦(ゆずる)さんがふっと口元を綻ばせた。どうやら常連さんらしい。
わたしはカウンターから少し離れた壁際の――でも、キッチンでてきぱきと動く弦さんが何処よりよく見える――席でカフェオレを飲みながら、ふたりのやりとりを聞くともなしに聞いていた。
「コーヒー、どかっと濃いやつ」
かしこまりました、と柔らかに微笑むと、マスターの弦さんはカウンターの向こう側のキッチンにするりと入って支度を始めた。
窓の外で降る雨音に重なったり紛れたりしながら店内を流れる、静かなクラシック。弦さんがコーヒーを入れるために立てる慎ましやかな音たちが、その空気を撹拌してゆく。
「あー…」
カウンター席にどかりと腰を下ろした男は、ゲームか漫画の登場人物のように色素を抜きまくった金髪をがしがしと掻きむしった。雨に降られたのか、小さく水が跳ねる。
しかし弦さんは、のんびりとした風情でコーヒーを入れる作業を続けている。普段なら、そんなお客様にはタオルのひとつも差し出しそうなのに。
「荒れてますねぇ」
「まあな」
「どうしました?」
「…昨日、花織(かおる)が男連れて来やがった」
男がぽつりと零した言葉に、弦さんはポカンと口を開けて動きを止めた。
「花織ちゃんが? あの、こんなにちっちゃかった妹の花織ちゃんが?」
手を自分の膝辺りでうろつかせながら――カウンター席の男には見えないだろうけど――弦さんは驚きを隠せないという顔つきで尋ねる。
「そんなにちっこくねえよバカ」
「比喩です」
「…お前なぁ」
何ですか? と意地悪そうに弦さんが笑う。そんな表情、わたしだってなかなか見られないのに。男と弦さんは相当仲が良いらしい。わたしはドキドキしながら、こっそり、それでいてじっくりと男を眺めた。
とにかく背が高い。カウンターの下で折った長い足はとても窮屈そうだ。そして、まるでライオンのたてがみのような金色の髪。前髪の奥の瞳はよく見えないものの、整った顔立ちはまるでホストかモデルみたいに見える。
弦さんとの接点が見当たらないんですけど…、と困惑気味に弦さんに視線を送ると、弦さんは柔らかに目配せして頷いてみせた。だいじょうぶですよ、と言われた気がして、わたしはこくんと頷き返した。
「それで、花織ちゃんが彼氏を連れて来た事の何がそんなに気に入らないんですか」
「ケッコンするんだと」
「………」
またしても、弦さんの動きが止まる。お湯が沸いて、ケトルがしゅんしゅん音を立てる。
「ま、花織に彼氏がいるのは知ってたんだけどな、一応会った事もあるし。でも家にスーツ着て来られていきなり『お兄さん、僕に花織さんを下さい』とか何とか言って頭下げられたら困るだろ普通! 下さいって言われてハイどーぞってくれてやるかっつーの! 花織はモノじゃねえ、この薄汚れた人間界に舞い降りた天使なんだっつーの!!」
ムスッと厳めしい顔をしたまま、男が頬杖をついた。弦さんがお湯を注ぐ。ふわりと立ち上るコーヒーの薫りに、思わずため息をついてしまいそうになる。
「…荒れてますねぇ」
「荒れてんのはオレの胃だ」
「おやおや、コーヒーなんて飲んでる場合じゃないじゃないですか。白湯でも入れましょうか? ああ、確か薬箱に胃薬があったはず。…飲みます?」
「イラネ」
ぷいっとそっぽを向いた男が、差し出されたコーヒーカップを手に取った。痛む胃にブラックは良くないんじゃ…なんてわたしの心の声が、彼に聞こえる由もない。男はずずずと入れたての熱いコーヒーを啜った。弦さんが口を開く。
「花織ちゃん、もういくつになったんでしたっけ」
「26」
「ああ、もうそんなになるんですね。美人に育ったんだろうなぁ、いっちゃんに似て」
「…おい、いっちゃんって呼ぶなっつってんだろ」
『いっちゃん』。
男が迷惑そうに言うのが理解出来てしまうほど、彼の雰囲気に似合わない呼び名だ。それでも弦さんは、穏やかながら明瞭な声で言い放った。
「いいえ、僕にとっていっちゃんはいつだっていっちゃんです。そりゃあ昔の可愛かったいっちゃんと違って今やド金髪でホストみたいな出で立ちですけど…いっちゃんは、僕の知るいっちゃんに他ならないですからね」
細く優しく、雨が窓を打つ。
「なあ弦、父さんや母さんが生きてたら…花織が結婚するなんて言い出したら何て言ってただろうな」
ぼんやり、『いっちゃん』が呟いた。
弦さんの事を『弦』なんて呼ぶ人を見たのは初めてだ。――ただ単に、わたしが弦さんの事を知らなすぎるのかもしれないけれど。
「いっちゃんと同じですよ」
「オレと?」
「そうです。『幸せになりなさい』、その一言しかないでしょう?」
弦さんは真っ直ぐに言い切った。
「確かに、亡くなられたご両親の分までしっかりきっちり花織ちゃんを支えて育ててきたのはいっちゃんですから、そりゃあ彼氏に鉄拳のひとつも喰らわせてやりたいでしょうけど」
でもそんな事したら花織ちゃん怒るでしょうねぇ、と弦さんが続けると、男はぶすったれた表情のまま窓の向こうを見つめた。
「大丈夫、花織ちゃんの選んだ男に間違いはないですって。それに…もし、もしも万が一の事があれば、僕だって黙っちゃいませんし、ね?」
「…お前のその笑い、黒すぎて怖いんだよ」
呆れたように笑うと、残ったコーヒーを飲み干して男は立ち上がった。
「仕事、戻る」
「はいはい。もう仕事サボってウチに来ちゃダメですからねー」
ひらひらと手を振る弦さんに合わせるようにして、ちりりん、とドアに下げた鐘の音がさざ波のように響いて、やがて空気に融けていった。
わたしは立ち上がると、そっと弦さんの背中を指でつついた。
「弦さん、今のは――」
「僕の幼なじみで、鷺沢樹(さぎさわいつき)と言います。なづなさんの事、ちゃんと紹介出来なくてすみません。今回はあんな感じだったので…また時を改めてきちんと紹介させて下さいね」
そう言って、弦さんはにっこりと笑った。
「きちんと紹介させて下さい」だなんて、なんだか嬉しくて胸がふつふつと熱くなってしまう。…わたしって単純だ。我ながら笑ってしまいそうになる。
そんな気持ちを見透かしたように、弦さんはわたしの頭をぽんぽんと撫でてくれた。
そして。
「花織ちゃん、出ておいで」
弦さんに手招きされてキッチンの奥から出てきた女の子が、わたしに向かってぺこんと頭を下げた。お人形のように可愛らしい顔をした、綺麗な黒髪が印象的な女の子だ。
「わたし、さっきの『いっちゃん』の妹です。鷺沢花織と申します」
「そ、そうだったんですね…!」
「花織ちゃん、こちらはなづなさん。近い将来、僕の奥さんになる人です。でもまさか花織ちゃんに先を越されるとは思わなかったなぁ」
言いながら、あははと愉しげに弦さんが笑う(そういう事サラッと言うのやめてもらえませんか!)。
「ゆんちゃんに…えっと、弦さんに結婚の報告に来たところだったんです。そしたらお兄ちゃんが来るのが見えて思わず隠れちゃって…。でもゆんちゃんが予想以上に演技派で助かりました」
「演技派? 僕が?」
「そうだよ、『こんなにちっちゃかった花織ちゃんが?』なんて言っちゃって! でも…なづなさんまでバタバタに巻き込んじゃってごめんなさい」
そう。彼が、『いっちゃん』が入ってくる寸前、窓際に座っていた彼女が唐突に席を立ってキッチンの奥へ滑り込んでいってしまったのだ。
何が何やらわからず戸惑うわたしに、弦さんが「しっ」と唇に人差し指を当てる仕草をしたのを遠目で見て、わたしは事の成り行きを見守るのに徹したのだった――。
「でもね、なづなさん、うちの兄は見た目も口調もあんなだけど悪い人間じゃないんです。ただゆんちゃんと一緒だと甘えちゃうみたいで…」
「いえ、お兄さんは花織さんを本当に大切に想ってらっしゃるんだなぁってわたしにまで伝わってきましたよ。…花織さんの事、『天使』っておっしゃってましたしね」
「…! 兄っていつもあんな事ばっかり言うんです、すみません!」
「ふふ、ホントに花織さんが可愛くて仕方ないんですね、きっと。…花織さん、ご結婚おめでとうございます。初対面のわたしが言うのもおかしいかもしれないですけど…花織さんが幸せであればあるほどお兄さんも幸せになれちゃうような気がします。だから、どうか末永くお幸せに」
「はい。ありがとうございます」
花織さんは、心から幸せそうに華やかに笑った。
「そうだ花織ちゃん、紅茶入れ直しましょうか」
「ううん、元々あんまり時間なくって、ゆんちゃんに報告したらすぐ行かなきゃいけなかったの。ありがとう、お騒がせしてごめんね」
「いえいえ。今度はいっちゃんと、それに彼氏君ともいらして下さいね。お待ちしてます」
わたしは、弦さんと並んで花織さんを見送った。彼女の差した淡い朱鷺色の傘は、くぐもった冷たい空気の中でキャンドルの灯りのように揺れていた。
「どうしたんですかなづなさん、ため息なんかついて」
「いえ…その、わたし弦さんの事あんまり知らないんだなあって」
「…教えましょうか、色々? 何から聞きます? 好きな食べ物は筑前煮、嫌いな食べ物はピーマン、出身は鎌倉で、男子校を出て京大の文学部を卒業してから修行の旅という名目であちこち放浪してから帰国して――」
「きょ、きょおだい!?」
(カップを丁寧に片付けながら語り出す弦さんと、話に若干ついていけていないなづなさんの会話より抜粋)
-END-