ボクの見つめる先には、いつだって彼女がいる。

 白い頬、薔薇色の唇、凛とした眼差しを放つ榛色の瞳。そして、頤の線できっちり切り揃えられた緑の黒髪。
 ――と言っても、ボクの大好きなその顔は、いつも彼女がかぶっている赤いずきんのせいでよく見えないのだけれど。


 ある朝、いつものように彼女の家に近付くと、胸がどきどきするみたいに甘い匂いが立ち込めていた。ケーキの焼ける匂いだ。ボクは思わず、隠れていた茂みから身を乗り出した。

「いい事、赤ずきん? 森の奥に住むおばあさまに、このケーキと葡萄酒を届けるのよ?」

 彼女の母親のツンと鼓膜を抜けるような声が聞こえてきて、ボクは慌てて茂みにもぐり込んだ。ちくちく、茨の棘が痛いけれど我慢する。――だってもうすぐ彼女に会えるんだもの!

「ただし、森には怖い狼がひそんでいますからね。道草なんて食わずにまっすぐおばあさまのおうちへ向かう事。そして必ず日暮れまでには戻る事。…守れなかった時は…わかるわね、赤ずきん?」
「…はい。では行って参ります、おかあさま」

 彼女の声が聞こえた瞬間、ずぶりと心臓に杭が打たれたようにボクは動けなくなってしまう。
 彼女の声ときたら、花の蕾が開く時のように清廉で、それでいてなんて美しく透き徹った声なんだろう!

 ボクは、小道をゆく彼女の後ろを、足音ひとつ立てないように静かに歩き出した。

 秋の空は爽やかに澄んでいて、風に乗って運ばれる木立の薫りが鼻に心地よい。時折、冬支度にいそしむリスや木の実をくわえた小鳥が、ボクの姿を見て息を呑む。言葉にならない恐怖で体が動かなくなってしまったらしい彼らに、ボクは悲しい気持ちでいっぱいになりながら首を振ってみせる。
 …大丈夫、ボクはキミたちを捕って食べたりしないよ。だから安心して気ままに森をお行き。

 そんな事をしていて彼女の後ろ姿を見失っては一大事と、ボクはふっと顔を上げた。彼女の歩みがぴたりと止まっている。ボクは木陰にさっと回り込んだ。


 次の瞬間。


「出てきなさい、狼」

 凛、と鈴を鳴らすような涼やかな声で、彼女が言い放った。

「その白樺の木陰に隠れている狼、そう、お前よ。出てきなさいと言っているのが聞こえなくて?」

 ボクはびくんと体を震わせた。どうしよう、彼女は気付いているんだ、ボクがいる事に。怖がられるのも逃げられるのも嫌だったから、絶対に気付かれないようにと思っていたのに…。
 動揺して身じろぎひとつ出来ずにいるボクのもとに、木靴の足音が近付いてくる。柔らかな女の子の匂い。大好きな、キミの、匂い。

「見つけた」
「ああ、あの、ボク…!」

 木の根元にへたりこんだボクの顎をくいっと持ち上げて、彼女は僕を冷たく見下ろした。

「お前、最近やたらとわたしの行動を嗅ぎまわってるみたいだけど、一体何なの?」
「え、えっと…それは」
「わたしを付け回してどうしようっていうの? 何が望み? わたしを見張るように誰かに頼まれた? それともお前、まさかわたしを捕まえて食べるつもりなの?」

 違う、違う!

 答えられずに彼女の榛色の瞳を見つめる。その瞳に映るボクの、毛むくじゃらの体。裂けるように大きな口、そこから覗く残忍な牙。

「まあ、泣きそうな顔しちゃって、狼が聞いて呆れるわ。ほら何とか言いなさいよ。この口は飾りなの?」

 赤いずきんの下から覗く薔薇色の唇から、その可憐さとはまるで似つかわしくない尖った言葉が次々と零れ落ちてくる。

「お前がだんまりを決め込むつもりなら、…そうね、いいわ、狩人を呼んできましょう。最近ここいらで狼が出るらしいって、銃を磨いて探してまわってるみたいだから、」
「あの! き…キミの、名前は…?」

 彼女のお喋りを遮って、ボクは思い切って尋ねてみた。

「はぁ?」
「前から思ってたんだ。キミはいつも皆から『赤ずきん』って呼ばれているけど…ほんとうの名前は何なんだろうって」
「うるさいわね。いいでしょ名前なんて何だって!」

 ボクの顎を掴んでいた手をブンッと振り払うと、彼女は腕組みをしてボクを見下ろした。その視線を受け、ボクはゆるゆると立ち上がる。

「ダメだよ。ちゃんとキミの名前が呼びたい」
「放っておいて頂戴!」

 早くおばあさまに会いに行かなくちゃ、と、彼女はくるりと踵を返した。追いかけようとするボクに「ついて来たら撃ち殺すわよ」と言い捨てると、バスケットを抱え直してスタスタ歩いて行ってしまった。


 ああ、どうしてあんなに怒っちゃったんだろう。ボクは彼女のほんとうの名前を呼んでみたかっただけなのに。

 ボクが見つめてきた彼女は、いつだって凛と背を正してていながら、何故か寂しげなため息を落としている事が多かった。ボクは知っている。だってボクは、ずっとずっと見てきたんだもの。


 初めて出会った時、キミは森の奥のお花畑で小さくうずくまってうたた寝していたんだ。――深く深く、赤いずきんをかぶったまんま。

「ねえ…、キミは誰?」

 ずきんを捲り、声を掛けようとして気が付いた。キミが泣いている事に。静かに、薄い瞼をぴたりと閉じて眠ったまんま、涙を零している事に。そして、その白く滑らかな額に、頬に、痛々しい打ち身の痕や擦り傷が幾つも幾つもある事に。

「泣いてるの…?」
「…ひとりに、しないで…」

 寝言であろうその言葉に、ボクの胸はざわざわと波立った。
 こんなに可愛らしい女の子が、どうしてそんな事を言うんだろう。ボクみたいに醜く孤独な狼ならまだしも、こんなに可愛らしい女の子がどうして?

「っ、…、」
「ねえ、泣かないで。…きっと、ボクが守るから」

 独り言のように呟きながら、ボクはごわごわの毛に覆われた前足で、彼女を起こしてしまわないようそうっとそうっとその涙を拭った。


 …銃で撃たれたっていい。ボクは駆け出した。先回りしておばあさんの家へと急ぐ。

 彼女のおばあさんは、森の奥に住んでいる(彼女と初めて出会ったお花畑の近くだ)。
 耳も目ももうあんまり使いものにならないけれど、ボクみたいな嫌われ者の狼なんかにも気兼ねなく声をかけてくれる優しい人なんだ。

 ――そう、おばあさんは、彼女が母親から受けた折檻を隠す為にかぶせられた赤いずきんを外して会える、唯一の人。きっとおばあさんなら、彼女のほんとうの名前を知っているはずなんだ。



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