おかえり、と、終わりゆく春の桜の下で君は微笑った。




 僕は静かにまばたきすると、錆び付いて軋む鉄扉をゆっくりと押し開けた。
 ざざ、と風が吹き抜けて、庭の桜の花びらが舞い踊る。懐かしい匂いを肺に充填させるように、僕は密かに深呼吸を繰り返した。

「…ただいま」

 掠れた声が、宙に融ける。

 僕は湿気かけたマッチを擦ると、薄暗がりに目を凝らした。
 古ぼけた木枠に切り取られた、小さな窓。壁際に並んだソファ。食卓には枯れ果てた薔薇の挿された一輪挿し、一組の紅茶茶碗。
 何も変わらない、僕の記憶の儘の情景が其処にはあった。

 ただ君が居ない、それだけが僕の記憶ときっぱりと異なる事実だった。

「僕が居ない間に、何度桜は散ったのかな…」

 燃え尽きたマッチを床に投げ捨てると、僕は立て付けの悪い小窓を抉じ開けゆるやかな春の夜風を招き入れた。時折、その風に紛れて桜が入り込む。

「やっと帰って来たのに…!」

 悔しさ、だろうか。虚しさ、だろうか。僕はだん、と足を踏み鳴らし、喉の奥にせり上げてくる嗚咽を堪えた。

「あなた、」

 何処からか声が響いた気がして、僕ははっと夜天を見上げた。窓の外には、まるで黄色い雫が滴り落ちそうな、柔らかなおぼろ月が浮かんでいる。
 ふわり、微温い春風が頬を撫でた。まるで、遠い遠い昔に君がそうしてくれたように優しく。

「…君、か…?」

 僕は訝りつつも、月灯りを浴びてざわざわと揺れる桜を見つめた。

 ふと、壁にピンで留められた写真が視界をよぎった。色褪せた古い写真だ。眩しげに笑う君と、戦地へ赴く少し前の僕が並んで映っている。思わず剥ぎ取って裏を捲ると、見憶えのある筆跡で文字が綴られていた。


おかえりなさい
一足先に天国でお待ちしています
出来る限り遠い未来にいらして下さいね



 やはり君は逝ったのか、と、僕は力を無くして床に膝を付いた。あと何年、何日、何秒早く帰れれば君をひとりきりで逝かせずに済んだのだろう。手の中で、写真をぐしゃりと握りしめた。

 再び顔を上げると、ぼんやりした輪郭のおぼろ月だけが僕を見下ろしていた。

 もう一度窓の外の桜を見やると、おかえり、と、君が優しく微笑ったように見えた。

-END-

あいつと神が駆け落ち様に提出
 ┗「おかえり」



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