つないだ指先だけが、指先が憶えているその感触だけが、僕と彼女が交わしたあの夏の約束の、確かな痕跡だった。
「まーた此処にいた」
呆れるような声に振り向くと、セーラー服姿の繭(まゆ)が駆け寄ってきて僕の隣に腰を下ろした。僕らの座る防波堤は、真夏の太陽に焦がされるようにジリジリ暑く、見遥かす海は凪いでただひたすらに青い。
「尚人(なおと)は好きだね、海が」
「教室が嫌いなだけだよ」
「ふーん。だからって夏休み補習サボっていい理由にはなんないと思うけど」
…の割には成績優秀だからムカつくよね、と、からかうように呟いて、繭がぽいぽいっとローファーと紺の靴下を脱ぎ捨てる。
「あー、このまま海の中に飛び込んじゃいたいなあ」
「やめてくれ」
眉根を寄せて僕が言うと、ゆるり、潮の香りが混じった風が僕らの間をすり抜けた。風、というより、空気がブレただけのような。
繭といると、時々そんな不思議な感覚に陥る事がある。それぞれを覆う見えない膜が、やんわりと互いを隔てる感じ。この小さな町で、同じ空と海を見ながら同じように育ってきた僕らに、いつのまにか生まれた微かな隔たり。
「繭、何かあったの」
「え? なんで?」
「別に」
驚いたような表情で僕を覗き込む繭からふいっと視線を逸らしながら、ぬるくなったペットボトルのお茶を喉に流し込む。
「…また失恋?」
「むむ、また、とは失敬な」
「違うの? じゃあ何」
「あたしにも色々あんの」
「そ。精々頑張って」
「うわあ、尚人そんなだからモテないんだよ?」
ひどい顔つきで繭が僕を見つめる。モテたいなんて、一度も思った事はないのに。僕が誰かに好かれたいとすれば、それは。
そんな事をゆらゆら考えていた僕の耳に、繭のおどけたような声が飛び込んできた。
「あたしね、夏休みの間に引っ越す事になっちゃった」
え? と、僕は呟いた。
「…繭、今、なんて」
「だから」
引っ越すの、と、繭が自分の髪を撫でながら繰返した。遠くに横たわる水平線は、魚眼レンズで覗いたように緩やかな曲線を描いている。
「ここんトコおばあちゃん体調悪くてさ。…だから、あたしはおとーさんの親戚んとこ行けって」
狭い町だ。繭の両親の仲がずいぶん昔から破綻していた事も、そのせいで母親がこの町を去った事も、やがて父親さえも去っていった事も、だから繭が父方のお祖母さんに預けられている事も、この町では周知の事実だ。
「けど、繭、あと半年くらいで卒業なのに」
言っても詮ない事と頭ではわかっていた。僕らは子供で、どんなに身体や心が「子供扱いするな!」と軋んでも叫んでも、それは鉄壁のように揺るぎない。
「ねえ、ヒドいよねえ。だからあたしも粘ったんだよ? 卒業するまででいいからいさせてって。おばあちゃんの分まで家事もやるからって。後はちゃんと自分で働いて一人で生活するからって」
でもダメだった、と繭は笑った。泣きそうに歪んだ表情で。
「繭」
「寂しくなっちゃうから誰にも言わずに引っ越すつもりだったんだけど…。でも、尚人にだけは、ちゃんとお別れ言っときたかったんだ」
何か答えなければ、と真っ白に染まった頭をフル回転させていた僕の手に、ふわりと、繭の手がかぶさった。華奢で柔らかな、女の子の、手だった。
「また会えるよね…、ねえ、尚人…?」
絞り出すように繭が問う。
「あたしの事、忘れないで」
「忘れるワケないだろ」
「絶対?」
「絶対」
「絶対の絶対?」
手の甲に乗っていた繭の手を掴み返して、僕はそのままぎゅっと握りしめた。絶対、なんて容易く約束出来ない事はわかっていた。
でも、約束ってのは要するに気持ちの問題だ。僕が守りたいから約束する。それでいい。今、繭を泣かせたくないから約束する。
「会いにいくよ」
「…っ、」
僕は、繭の手を握ったまま立ち上がった。繭も、僕に引っ張られるまま立ち上がる。
「指切り」
頷く繭と僕の、指先が絡まった。
あれから幾つかの季節が巡り、僕らの真上にまた、焦げるように太陽が降り注ぐ夏がやってきた。僕は小さく握った拳を見つめる。
あの時つないだ指先だけが、指先が憶えているその感触だけが、僕と彼女が交わしたあの夏の約束の確かな痕跡だ。
僕はチケットを確認すると、搭乗口へと向かう通路をまっすぐに歩き出した。
-END-
▼反時計回り様へ提出
┗夏の痕跡
▼あとがき
イメージ曲は山下達郎氏の「僕らの夏の夢」です。すいませんタイトルも拝借しました(^^;)
でもって明らかに夏戦争の名残が脳内を遊泳しまくってる中書いた雰囲気でごめんなさい!(笑)しかし後悔はしていない!!←
読んで下さった方と素敵なお題に感謝感謝。ありがとうございました*