凌霄花が、夏の暑さに項垂れる世界を笑うようにふわりと揺れた。
僕は待っていた。うだるように暑い、夏の午後。目を閉じると、瞼の裏にちかちかと白い残像が閃く。
太陽が眩しすぎて目眩を起こしそうになりながら、それでも僕は、咲き誇る凌霄花の下でただひたすらに待っていた。
「…広瀬、」
頭上から遠慮がちに声が降ってきて、僕はぼんやりと瞼を押し開けた。
「大丈夫?」
「…あ、うわ、椎名っ」
「なあに、自分で呼び出しといて」
そう言って、椎名はくすくすと楽しそうに笑う。そんな椎名が戸惑う僕に差し出したのは、凛と冷えたラムネの壜だった。
朦朧とした頭で遠慮なく受け取りながら、ようやく、僕は自分が校庭の端で咲く凌霄花の下に座り込んでいた事に気が付いた。
椎名が隣に腰を下ろす。濃紺の襟に濃紺のタイの、鮮やかすぎるほど真白な制服。他の女子とまったく同じはずなのに、椎名が一番涼しげに、一番爽やかに見えるのは、僕が椎名を好きだからなのだろう。
「それで広瀬、用件は?」
「ああ、うん」
返事とも呻きともつかない声を発しながら、椎名がくれたラムネを開栓する。硝子玉がことんと涼しげな音を立てて落ちた。口へ運ぶ。喉が泡立つようでざわざわするけれど、やっぱり冷たくて美味しい。いっそ頭からかぶってしまいたいくらいだ。
「…はあ」
喉を潤して人心地がついた僕は、今度はこれから自分がしようとしている事を思い出して、過呼吸を起こしたみたいに心臓をバクバクさせている。
「わたしにも」
ひょい、と椎名の腕が伸びてきて、僕の手から冷たい壜を奪い去った。そのまま椎名は、滑らかに白い喉を鳴らして僕の飲みさしのラムネを飲んだ。
太陽の光が届いていないのかと疑いたくなるほどに白い、椎名の首筋。その頭上を彩る、毒々しいほどに赤い凌霄花。
僕はなんだか見ていられなくなって、視界を遮るように額の汗を腕で拭った。
「懐かしい味だね。ありがと。…広瀬、それで用事は?」
ぼんやりする僕を下から覗き込むように椎名が首を傾げて言う。僕はこくりと息を飲んだ。
「あの、さ。ずっと椎名が好きだった。だから椎名、良かったら僕と、」
「広瀬待って」
「え」
「あー、えっと。わたしね、失恋したばっかりなんだ」
これから僕が何を言わんとしていたかを雰囲気で察したのだろう。僕の機先を制して、椎名が照れたような悲しいような表情で笑った。
「だから広瀬、ごめん」
ゆらり、夏の微温い風が、空気を舐めるように吹き抜けた。僕は、ゆっくりと立ち上がった。椎名も、つられるように立ち上がった。僕は椎名が濃紺のスカートを叩いて撫でつけるのを黙って見ていた。
こういう時、何と言って去ればいいのか、それとも彼女を見送ればいいのか、人を好きになった事さえ初めての僕にはわからなかった。
「わたし、その人の事ずっと好きだったの。…でも無理だった。わたしじゃ、その人の痛みも傷も何も、癒す事も忘れさせる事も塗り替える事もできなかった」
遠い眼差し。椎名の背中越しに揺れる凌霄花。赤い、赤い花。僕は瞼を下ろした。
椎名は、僕が椎名を見つめているあいだ、どんな恋をしてきたのだろうか。席替えで隣になったとか、授業中に目が合ったとか、昼休みに好きな音楽について言葉を交わしたとか、僕がそんな些細な事で舞い上がっていたあいだに、いったい誰とどんな恋愛をしてきたのだろう。
「…でも好きなんだ、椎名が」
言ってしまってから、僕はハッとして口を噤んだ。椎名がどうしようもなく寂しい顔をしていたから。
「わたし、広瀬にそんな風に言ってもらえるような子じゃないよ」
ぽつりと呟いた椎名の声は、掠れたまんま夏の空気に融解した。僕は手の中でだんだん温んでいくラムネの壜を握りしめて言う。
「いや、ごめん、無理に僕を好きになってくれとか付き合ってくれとか、そういうんじゃ、なくて」
椎名は、ぱちぱちと睫毛をしばつかせて僕を見つめた。
「…よくわからない、けど…、椎名だって失恋して傷付いたんだろ? 痛かったり苦しかったり、したんだろ? 僕がそれを癒したり忘れさせたり塗り替えたりは、出来ないと思うけど」
僕は、ゆっくりと椎名がの頭に腕を伸ばした。ぽんぽん、と、黒い髪を撫でてみる。
「痛いとか傷付いたとか、椎名が持ってるそういうの全部、椎名の中に刻み込んでいったらいいと思う。僕は、そういう椎名を、きっとまた好きになるよ」
我ながらしぶとい奴だよな、と思ったけれど、本当にそう思ったのだから仕方がない。僕は胸の奥がずきずきと痛むのを我慢するように奥歯を噛みしめた。
「呼び出したりしてごめん。明日から夏休みだし、出来れば今日の事はそのあいだに忘れてもらえれば」
乾いた笑い声が喉元にせり上がってくる。笑え。笑え。椎名が困る顔を見たい訳じゃ、ない。
「広瀬」
「何」
「忘れてあげない」
「え?」
「さっき広瀬が言ってくれた事、嬉しかったから。わたしが持ってるの全部、刻み込んでいったらいいって。だから」
椎名がふわりと笑った。今を盛りに咲き零れる、凌霄花よりもっと鮮やかな美しさで。
「だから忘れない。忘れたくない」
そのまま、椎名はくるっと踵を返して僕の前から走り去った。翻ったスカートと白い腿、それから濃紺の靴下が眼裏に焦げるように焼き付いた。
「参ったな…」
僕は、壜の底に残ったラムネを飲み干した。これじゃあ僕は、ちっとも椎名を嫌いになれないじゃないか。
夏は、まだ終わらない。
凌霄花が、立ち尽くす僕を笑うようにふわりと揺れた。
-END-
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