暁の天は星も疎らに、藍色は次第に薄色を帯びてゆく。その様子を言葉も無く見つめていた少女が、ゆっくり深呼吸をしてからそっと瞼を下ろした。
少女は巻き上げてあった御簾(みす)をくぐると、庭に向かって張り出していた濡縁から室内へと戻った。その動きに合わせて、足結いの小鈴が軽やかな音を立て、唐衣に焚き染められた香がふわりと漂った。
彼女は、この国の行く末を掌に握る《星詠(ほしよみ)》として国主に仕える齢十六の少女である。《星詠》とは、国主の邸に詰め、月や星の動きを読み取り吉凶を占う事で政を補佐する職の呼称だ。
この国では、《星詠》の一族に産まれ落ちた、穢れなき乙女だけが代々その職務を受け継いでゆく。故に《星詠》は、その能力を次代に受け渡すまでの日々、昼夜を逆に生きねばならぬのだった。
《星詠》は文机の横に置いた黒曜石の水盤を凝視すると、その水盤に石を幾つか転がした。磨かれた石はぶつかり、弾かれあう。半ば睨み付けるようにしていた《星詠》は、石が描いた結果にほっと胸を撫で下ろすと、文机に向かい筆を取った。
――むらむらに雲のわかるる絶え間より暁しるき星いでにけり
『暁の明星を雲の絶え間に見ました。東の天に、夜明けを告げる金星は煌めいております。星々は常と違わず正しく巡っております。ご安心下さいませ』
燭台の頼りない明かりの下で、今しがた詠んだ歌を料紙にさらさらと書き付ける。凛、と、文机に置かれた鈴を鳴らすと、侍女のひとりが几帳の向こうから現れ、恭しい仕草で《星詠》から国主へ宛てた文を受け取った。
「《星詠》の姫様、今宵もお疲れ様で御座いました。御帳台の支度も整っておりますれば、お休みになられますか」
「…もう少しだけ、星を眺めていてもいいかしら」
「では私は奥にて控えております。お休みになられる時はお声をお掛け下さい」
「有難う」
侍女が退くと、《星詠》は今宵も何事もなく星の巡りを見送れた事に安堵して、ふうっと長い溜め息を零した。そうして、夜が終わるたびに訪れる孤独。
まだ十六の少女の胸に、それはひっそりと、しかし確かに、重たく暗い影を落としていた。
不意に、さらりと衣擦れの音が静寂に響いた。憶えのある柔らかな香の匂い。《星詠》ははっと顔を上げた。
「…馨、」
「やあ《星詠》。今夜もお勤めご苦労様」
「やあ、じゃないでしょう! こんな時間にこんな場所で、誰かに見咎められたらどうするの」
「《星詠》の顔を見たらすぐ帰るよ」
ふわりと笑って、橘の重ね色目の直衣(のうし)を涼しげに纏った男――と言っても年の頃は《星詠》と変わらない少年だ――は《星詠》の傍近くに腰を下ろした。
彼は、《星詠》が《星詠》となる前からの幼なじみで名を馨(かをる)と言う。由緒正しき家柄に産まれ、それに見劣りしない才を若くして国主に認められていると言う。加えて、端正な容貌と人好きする性格から、この邸へも、国主のみならずその側近からも歓待され頻繁に出入りしている。
…だからと言って、《星詠》の部屋に気安く入る事を許される訳ではない。それでいて彼は、侍女たちの目を巧みにかいくぐっては《星詠》の元へ遊びにやって来るのだった。
《星詠》は呆れたように馨を一瞥すると、肩の力の抜けた様子で微笑みながら軽口を叩いた。
「また夜遊びね。こんなのが国政の一角を担う《星詠》の昔馴染みだなんて嫌になっちゃうわ。…もう根無し草みたいに色恋に現を抜かすのはお止めなさい」
「相変わらず、会えば説教ばかりだな、《星詠》の姫君は」
乾いた笑い声を零し、馨はそっと《星詠》の手を掴んだ。
「紫苑」
しをん、と、《星詠》である前の本当の名を低い声で呼ばれ、彼女はぞくりと心の臓さえも震えるような心地がした。
「…離して、人を呼ぶわよ」
「意地悪だなあ、紫苑は」
「止めて。その名はもう、」
紫苑。もう二度と、誰からも呼ばれる事のないはずの名。自分がただの少女であった時の名だ。
「呼ぶな、と? せっかくの美しい名じゃないか。星詠星詠と呼ばれてお前がこの名を忘れてしまわぬよう、時折こうして呼びに来ているというのに」
「…莫迦ね」
《星詠》は朱がさした頬を隠すべく、すばやく手を離し扇を顔に翳した。こうして馨に名を呼ばれるたび、このまま、一瞬でも長く紫苑でいられたらいいのに、と願ってしまう自分が恐ろしい。
「どうした、紫苑」
覗き込んだ馨の眼差しは柔らかで、《星詠》は心の臓が早鐘を打つのを自覚した。馨が纏う仄かに甘い匂いが鼻をくすぐる。目眩を起こしそうだ。
しかし《星詠》として、誰かと心を重ね合わせる事、まして契りを結ぶ事など許されない。何故なら《星詠》は、穢れなき乙女でなければならないのだから。馨もまた、それがわかっている。だからこそ、彼女の名を呼び指先に触れるのが精一杯だった。
「ああ、そろそろ東雲(しののめ)の頃だ。それじゃあ紫苑、またね」
「何が『またね』よ。…もう、此処へ来ては駄目よ」
「それは、僕が決める事だろう?」
漆黒の瞳を細めて笑うと、馨は、衣擦れの音も密やかに危なげなく格子をくぐって去っていったのだった。
――《星詠》の耳に残るは、紫苑、と名を呼ぶ馨の優しい声。思わず、掠れた声で、馨、と呼んでみる。しかし返事があるはずもなく、声は空に融け、そのまま消えていった。
ふと、時刻にそぐわず、音も無く舞う螢が《星詠》の目に映った。手招きするように螢へ扇を差し出すと、螢はまるで操られたように扇の先へ止まった。あえかな明滅。翠と言おうか、萌葱と言おうか、触れても焦がれる事の無い柔らかな光。《星詠》はちいさく呟いた。
「迷子の螢ね。こんな時分に何処へ飛ぼうというの、おまえは」
御簾越しに吹き抜ける風が、やんわりと《星詠》の頬を撫でる。豊かな黒髪を掻き上げて耳に掛けると、彼女は再び天へと眼差しを移した。
「夜明けが近いよ。さあ、早く棲み処へお帰り。でないと悪戯好きな女童(めのわらわ)に捕まってしまうよ」
囁くように言いながら、《星詠》はふっと扇を揺らした。ゆらゆらと、まばたくように明滅しながら、螢は掃き清められた庭にかかる靄へと吸い込まれていった。
「螢は翅があって良いね。…私も、螢みたいに翅があればいいのに」
そうすれば、命儚くとも望む場所へ飛んでゆく事が出来るのに。望む場所は、ただひとつと決まっているのに。それが無理なら、せめて。
「せめて、箒星みたいに天を流れて何処か遠くへ落っこちてしまいたいわ」
《星詠》は静かに独りごちると、両腕でそっと自分の肩をかき抱いた。箒星は凶兆の証。国主を、国を護るためには決して現れてはならない星だ。
それならば、と《星詠》は密かに祈った。輪廻の先に、いつか馨と巡り逢える日が来ますように、と。今すぐでなくてもいい。いっそ相思相愛でなくてもいい。《星詠》としての生涯を全うした向こう側で、いつか、ただの少女として馨に想いを打ち明ける事が出来たなら。
夜は白々と明け、遠く見遥かす山の稜線に薄く茜色の雲がたなびいている。《星詠》は先程の侍女を呼んで格子を下ろさせ、御簾と几帳で世界を遠ざけると御帳台へと滑り込んだ。
螢に身をやつすのも、箒星になって落ちてしまうのも叶わぬというなら、それならせめて夢で逢いたい、と、御帳台の中の《星詠》はただの紫苑となって願った。許されない想い。遂げる事のない祈り。
日が昇り世界が朝の陽光に包まれる頃、少女のぴたりと閉じた瞼から、するりと一筋、箒星のように涙が零れ落ちたのだった。
いとしいとしといふこころ
-END-
▼反時計回り様へ提出
┗堕っこちた流れ星
▼あとがき
七夕を彷彿とさせる可愛らしいお題から、何故かこんな和製ファンタジーちっくで少し哀しいお話が仕上がってしまいました…(^^;)時代背景や舞台、人物や役職はオリジナルですので、雰囲気だけ味わってやって頂ければ幸いです(笑)。
ちなみに、作中の歌は実際の物をお借りしました。作者は藤原(京極)為子。出典は玉葉和歌集/雑二/「三十首の歌を召されし時、暁雲を」。現代語訳には、私なりの解釈と物語上の解釈も付け加えてあります。
以上、あとがきも含めとっても楽しく書かせて頂きました。読んで下さった方と素敵なお題に感謝です。ありがとうございました*